忍者ブログ
試想の会のブログです。
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

今年の年末年始は地球温暖化とグローバリゼイションの問題を関連化させて地球の危機を訴えるというような報道番組が多く見られました。地球上でバラバラに起こっていた現象が、実は急速に進行する資本の〈帝国〉化に原因があるのではないか、というようなことが目に見えるかたちで表れてきたということは相当深刻な状況ではなかろうかと思うわけです。
さらに経済ジャーナリスト内橋克人の対談集「経済学は誰のためにあるのか」という本を本屋でたまたま見つけて読んだのですが、これもショックな体験でした。これは新刊ではなく、もう11年前に出た本です。しかもその最初の宇沢弘文との対談は阪神大震災の直後に行われており、もう13年も前のものなのです。内橋はネオリベラリズムに席捲されたアメリカでの取材をもとに、バブル崩壊後、日本経済の行き詰まりを打開するためにネオリベラリズムを思想的支柱に喧伝されていた「規制緩和」が、如何に人間の生活基盤そのものを破壊していくか、様々な経済学者たちとの対談を通して警告を発しています。
なにがショックだったかというと、こういった類の本はふつう10年で古びてしまうのですが、こうなると予想され警告が発せられていることがことごとく10年経って現実化しているということです。こうなることは心ある経済学者たちはわかっていたわけで、問題は彼らが見て見ぬふりをしてきたのではなく、体制やマスコミがこういった「都合の悪い」人たちの声を隠蔽してきたということでしょう。
私の住んでいる周辺では、相変わらず大型駐車場を備えた大型店舗の進出が止まりません。低所得者向けの一戸建て住宅、マンションの建設も進んでいます。昨年の参議院選挙の自民党大敗は、小泉政権であまりにも露骨化した市場万能主義に対する民衆の拒絶反応がその背景にあります。しかし「景気回復」ということが依然選挙公約の第一に掲げられるような状況はあります。人々の価値観もいまだ高度成長期へのノスタルジーに支配されているように思います。アメリカの住宅バブルの崩壊の問題についてはずいぶん以前から指摘されていたことですが、結局崩壊を待つだけで為す術はなかったように、そこに破滅があるとわかっていながら吸い寄せられるように日本が進んでいるのが不気味です。
冷凍食品への農薬混入の問題ではからずも露呈したのは、あれが犯罪かどうかということではなく、私たちが日常に口にしていた食品の多くが製造元のよくわからない輸入品だったということです。食品の安全性の問題だけでなく、食糧自給率が4割に満たないということは、私たちの生を保障するはずの共同体としての国家が非常に歪んだかたちで溶解しはじめているのではないかということだと思います。(だからと言って国民国家が止揚されるなんて楽観的なことではなく、国家は戦後の福祉国家とは異質な、「資本のための」もっと暴力的な権力に変貌していくかもしれません)
もう資本は国民国家という共同性すら破壊して、なりふり構わぬ暴走を始めたように思います。権力が人間の根本的な生の基盤さえ保障しないというのは狂気以外の何ものでもないでしょう。この暴走にどれだけのブレーキをかけられるか、どういう方向に軌道修正していくのかという問題に、現在人間一人ひとりは直面しているのだと思います。放っておけば、おそらく近未来の、僕らの子供たちの時代には、20世紀が世界大戦と革命の時代だったように、SFの世界でしかありえなかった人類滅亡とか地球滅亡という問題が現実化し、それとの闘いになるのではないかという予感がしています。授業でこんな本があったと内橋の本のことを生徒に話したら、「10年前に分かっていてどうすることもできなかったんだから、もう今気づいても遅いということだよね」と言われてしまいました。少し前までは「大人のやつらが」と言えたのですが、そういう責任回避できない年齢になって、なにか大人のひとりとして子供に対する責任を感じてしまいます。

文学や思想の問題に目を転じてみると、文学や思想の領域では信じられないほどグローバリズムを批判する言説であふれかえっています。グローバリズムに対して批判的意識を持つことはいいとしても、そういう分野で口にされるのは、ネグリとかハートとか横文字の名前で、日本のグローバリゼイションの問題を冷静に見据える内橋克人の名前などどこにも見あたりません。しかも文学や思想のグローバリズム批判は、他の文化圏で生じている問題を語っているものの(確かにそれは意味のあることでしょうが)、地域社会の崩壊、雇用崩壊、貧富の格差、知の二極化、9年間三万人を超える自殺者の問題、孤独死などなど、私たちの現在の日本という足下の問題とどう接続していくのかよく分からないものばかりです。
八〇年代のポスト・モダニズム、九〇年代のポスト・コロニアリズム批判、カルチュラル・スタディーズ、現在のグローバリズム批判と経て、日本の知は八〇年代からのこの三十年間、高度化し、グローバリズム化する資本主義を問題にしながら、その資本の暴走に対して無力でした。その問題を真剣に反省しなければならないところに来ているのではないかと思っています。
先日の日文教近代部会の帰りの飲み屋で、久しぶりに元気なお姿を見せられた伊豆利彦先生が、戦争の時もそうだったけど日本は自浄能力がないから、わかっていながら決定的なところまで行ってしまうんだ、というようなことをおっしゃっていました。前田先生は自浄能力のない原因として、日本人の自他未分の意識を指摘され続けています。「みんな一緒」という感性が容易に運命共同体に結びついてしまう。前田先生の指摘を粗っぽくまとめるなら、この運命共同体は、異質な他者を強引に同化させるか暴力的に排除するかで、他者を容認するコードもないために、他者の痛みを感じ取ることができない非常にタチの悪い人間集団であり、しかも破滅がわかっていても、死なば諸共という恐ろしい集団だということになるでしょうか。
この30年間の日本の知の反省とは、私たち日本人自身に対する反省でなければならないはずだと思います。現在必要なのは現実に働きかけるための知の共同性を構築することであって、知(文学)の優越性、正当性を争うことではないと思います。文学理論にしても世界的に精密化することが自己目的化してしまって、大変観念的なものになってしまっているように思います。難しい理論を必死で学んだ結果、なんの役にも立たないなんてことになるのではないかと思っているのは僕だけでしょうか。


PR
お名前
タイトル
文字色
URL
コメント
パスワード
Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
この記事にトラックバックする:
Copyright © 試想の会のブログ All Rights Reserved
Powered by ニンジャブログ  Designed by ピンキー・ローン・ピッグ
忍者ブログ / [PR]