試想の会では、第二次の試想の会を立ち上げようと企画しています。一応、暫定的な趣意文案を紹介しておきます。いろいろ広く参加を呼びかけています。趣意書への意見があったらコメントよろしくお願いします。みんなで検討していいものをつくる予定です。
草案 『試想』の再建に向けて
『試想』8号を発行してからしばらく休刊状態が続いている。8号は2013年7月発行だから、二年半も休刊状態が続いていることになる。休刊の原因はいろいろある。その最大の原因は、同人の後藤康二氏が2014年11月29日に病気でなくなり、われわれ同人の中にポッカリ大きな穴があいたからである。しかし、そうしている間に、世界はイスラム国、あるいは難民問題をめぐって液状化しつつあり、国内では急速度に保守化が進行し、憲法改正を堂々と宣言する暗い時代へと移った。国内ではメデイアが象徴的であるが、正論を吐くことを控え、権力者の方ばかり向いて発言する、自己抑制(自己内検閲)のきいた発言ばかりが目立つようになった。この状況は新聞やテレビだけでなく、研究者の中にも浸透し、グループのトップの気分ばかりを気にかけ、まことに唇寒しの状況を生み出すに至っている。まさに、どんどんと個人のプライド・尊厳性を自ら放棄し、ちゃらちゃらし、いつの間にか社会には〈民主性〉が見失われ、〈独裁性〉=〈権力的横暴性〉がやたら充満するという恐ろしいファシズム的な状況が全体的に作り出されている。
それにしても、このような無力で惨めな状況はいつ頃から始まっているのであろうか。もちろん、起源についてはいろいろな見解・解釈があるはずであるが、一つとして、1960年以降、イデオロギーの終焉論が巻き起こった頃からではないだろうか。日本の文化・思想界はこのバブル肯定理論たるものに浸食され、イデオロギー=〈悪〉の風潮に支配されてしまったのではないかと考えられるからである。この時期、記号論、テクスト論、ポスト・コロニアリズム、カルチュラル・スタディーズ等々の外来思想が日本で流行したが、不幸にも、これらの外来思想は、このイデオロギー終焉、抹殺という深層での事態を隠蔽あるいは促進する機能を担ってしまった。例えば、この期間、近代文学の研究領域では、研究の方法論の差異ばかりに気を取られて、小さなコップの中での指導権争い、宗派争いをしてきた。記号論、テクスト論、ポスト・コロニアリズム、カルチュラル・スタディーズ、フェミニズム等々の外来の方法論、思想をわれさきに取り入れることに精を出し、そこには、日本に根ざした方法論化の葛藤、もがきがなく、先端的な「様々な意匠」の見せ合いレースが展開されたのは周知の通りであろう。これには研究者だけでなく、出版社などのメディアの問題も多いにかかわっていたことを記憶しておきたい。ただ、あらためて、今の時点からこの過去の四、五十年の歴史を振り返ると、この四、五十年の時期こそまさに物の豊穣さの中で、〈哲学するこころ〉を忘れ、まさにイデオロギーの解体・喪失の過程であったとも言えるのではないか。
ここで、イデオロギーという場合、何か性急な一つの政治思想のみをさして使っているわけではない。どんな社会でありたいかという人間の素朴な〈夢〉〈希望〉もまた広義のイデオロギーというものではないか。その意味で、この四、五十年、われわれはどんな社会でありたいかという〈夢〉や〈希望〉という思想性= 〈哲学するこころ〉を喪失してただバブル、物の氾濫の中で生きてきただけということになろう。
イデオロギーの終焉説は、直接的には、社会主義への〈夢〉や〈希望〉をもつことへの絶縁宣言であった。しかし、この社会主義への〈夢〉や〈希望〉をもつことへの絶縁宣言は、そこにあった個、個人、他者の大切さ、人権の尊重という戦後的価値の骨太の部分さえ見失ってしまう危なさを抱えていた。そこに、継承されるべき大切なもの、すなわち個、個人、他者の大切さ、人権の尊重という骨太の思想性があったことに無自覚、無頓着であった。その結果、イデオロギー終焉という時代の流れの中で、社会主義への〈夢〉や〈希望〉はもちろんのこと、民主主義への〈夢〉や〈希望〉をもつことさえ《悪》であるかのように錯覚し、どんな社会でありたいかという人間の素朴な〈夢〉〈希望〉としての思想性さえ見失ってきたのである。そしていつの間にか、暴力や抑圧への《反抗》よりも、冒頭で述べたようなより強いもの、権力的なものものへのすり寄り現象が常態化してきたのではないかと考えられるのである。
第一次『試想』は、そもそもそういう非主体的な無思想状況と戦うべく創刊されたものであった。『試想』の会では、思想性を喪失して方法主義に陥っているさまざまな外来思想の移植にたいして、その方法の斬新さの背後にある思想を読み取る必要性を説きつつ、その上で、そういう方法の移植だけでなく、これまでの日本での文学原理論の達成を確認し、それをどう超えるかの必要性を説いてきた。吉本隆明以後、なんらマルクス主義美学は克服されてこなかったが、われわれはこの現実を問題化し、この現状を超えることこそ、急務ではないかと考え、「試想」の会を立ち上げたのであった。しかし、我々のその闘いは不十分であった。吉本以後、日本の革新思想の核心的な宿題課題たる政治と文学の問題、文学的価値とは何かについての原理論的追求が要請されていたが、この重要な課題追求への共通した深い問題意識を共有することができなかった。相互の立場などを過度に配慮した結果、遠慮が働き、議論を深めることができなかったのである。この点を会は深く反省し、新しい会では、より活発な議論をメール討論・各自の論文等々で展開し、唇寒しの全体状況に対して果敢に異議申し立てを行っていきたい。
ところで、2011年(平成23年)3月1日の東関東大震災にともなう原発事故は、近代科学への発展=〈人類の幸福〉という図式の幻想性を暴きだし、さらに、右翼的なファシスト政権たる安倍政権は、これまでのわれわれの戦後思考の根底にある人権をベースとした他者との共存という民主主義への〈夢〉や〈希望〉を非日本的弱性として揶揄し、民主主義を制度的に保証した日本国憲法を、配給された戦後思考からの脱出というパフォーマンスのもと埋葬しようとの野蛮な欲望を持ち始めた。その結果、逆にわれわれは、近代科学への発展=〈人類の幸福〉という図式を根本的に問い直すとともに、人権をベースとした他者との共存という民主主義への〈夢〉や〈希望〉を持ち、さらに、それを再構築しなければならない必要性に迫られている。中野重治が『五勺の酒』で書いたように、「中味を詰めこむべき、ぎゅうぎゅう詰めてタガをはじけさして行くべき憲法」と同じような努力こそ急務になっているということである。われわれは、これを好機として、反撃の立場から、一国主義の眼鏡を外して、世界、自然、人間の諸関係を改めて見直してみることの必要性に強く迫られているのである。
文学テクストの領域でも、この人権をベースとした他者との共存という民主主義への〈夢〉や〈希望〉にもとづいた新しい闘い、読み直しが要請されている。これまでの主人公の意識中心の読み方を転換することで、近代日本の諸作品=テクストの新しい可能性を発見し、またそれにもとづいた一国主義の眼鏡から解き放たれた東アジア的地平の中で、新しい近代文学史が構築されなければならないだろう。少なくとも、近代的自我史観にもとづく教科書的な近代文学史を見直す必要があろう。もちろん、雑誌『試想』は生硬な政治的言説をヒステリックに叫ぶ〈場〉でもなければ、先鋭な方法の差異を競い合う〈場〉でもなく、ましてやそれまでの各人の業績や権威を誇る〈場〉でもない。あくまでも日本近代の文学、文化の諸テクストの分析を通して、今の日本の不幸な状況に対峙せんとする志だけを共有する〈場〉であり、ナショナリズムへと急旋回している状況に抗える〈場〉=同人誌であるかどうかのみが絶えず問われ続ける自己責任の〈場〉である。
以上、述べてきた視点・立場にたち、一次よりもさらに、自由で積極的な問題意識に溢れた言説の〈場〉を目指して、ここに第二次の『試想』の会を立ち上げる。
2016・2・11 『試想』の会同人
会の約束
・趣意書に同意すれば誰でも入れます。
・会費は、雑誌発行費のみで、平等に分担します
・年一本の論文執筆をめざす(テーマは自由)
・メール討論の企画と参加(参加は希望者)
・年一回、メール討論企画案検討と雑誌合評会
・好きなときに書いたり参加できるオブザーバー制もとりいれています