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 「文学的価値=〈関係の豊かさ〉」論の構築に向けての試論ーー
                                                      前田 角藏
             一
  私は、これまで、「意識の劇」から「関係の劇」へという論を詰める形で、主人公の意識、思想、主体性の高さ、深さ(たいていは罪と救いの物語に収斂する )でのみテクストの価値、評価を下してはならず、むしろ主人公を含めてテクストに表出された〈関係の豊かさ〉をもってその価値、評価をくだすべきだと主張してきた。主人公だけでなく、語り手、あるいはテクストそのものによって作り出された関係の豊かさ、その豊かな関係性を価値、評価の基準にすべきだと主張してきたのであった。この間のいきさつについては、同人誌『試想』の各論文を参照していただくと大変ありがたい。注1
 私は2012年から、中国の福建省にある福州大学に毎年、客員教授として行っている。その大学では日本の近代文学を講じている。中心は、日本近代文学史の授業である。しかし、私は、この授業を通して、いくら熱心に、坪内逍遙の「小説神髄」から浪漫派、続いて自然主義、白樺派などと語ってもほとんどそれらは学生にとって単なる知識の断片にすぎず、無意味に等しいのではないかという無力感に襲われた。もちろん、私は、なるべく、坪内の小説論の持つ意味について、日本の近代化と絡ませながら、その意味と重要性を語ったのだが、なかなか伝わらなかった。文学の現象を近代化という普遍的な流れの中で、特に、中国の近代化、とりわけ日本との関係の中で説明しなければなかなか学生には理解されるはずもなく、ましてやこれまでのような一国主義的な近代的自我を中心とした文学史や一人の日本人の主人公の「意識」の劇ーー主人公中心的な読みなどではほとんど通用しないのも当然というほかないのである。
              二、
 ここで、少し、話題を変えさせていただき、なぜ、こんな「文学的価値=〈関係の豊かさ〉」論といった論の主張になったか改めて述べたい。
  そもそも、テクスト論の展開によって、作品=作者の自己表現という理解は木っ端みじんに粉砕されたはずである。それは自己表現どころか単なる過去の文化・伝統・制度の引用、模倣でしかないのではないかとその神格化された想像理論は徹底的に批判されたのである。作者の死とかが叫ばれた頃である。実際、作品=作者の自己表現という一種の自明のようなこの想像理論も、では作者の「自己」とはなんなのか作者はもちろんのこと正直誰もわからないのだ。例えば、その作品が作者の内面=自己の愛を言葉に託して表出したとしても、それは作者の持っている百パーセントの内面=自己の愛の表現であったか疑問なのだ。日常、自分の考えている〈愛〉はそんなものではなく、表現してみてどうもそうではなく、自分の心など百パーセント表現することなど不可能なのだということに気づかされるのである。ここから、作品=作者の自己表現という理解のもと、作者の研究へと向かったこれまでの研究そのものが無効化されたのであった。無意味というわけではなく、想像理論からいってあまりにもいびつということでそういう研究方法がしりぞけられたのである。しかし、それではその後の研究がどこに向かったかと言えば、作者の生きた時代の文化・伝統・制度の研究へと舵が切られたのであった。文化研究である。これにはさらに、ポスト・コロニアリズムが加わることによって作者中心の研究は一挙に萎縮していったのであった。今もその進行中である。もっとも、昨今では、何の研究かわからないものが横行して一種のなんでもありの状況を呈していて、研究自体の意味、価値さえ見失われているというていたらくな状況を向かえており、今度は、その研究や読みの意味や価値がアナーキーな状況を生み出していて、そういう価値アナーキーの状況をどう超えるかが課題とさえなっている始末である。そして、悲劇的なことは、こういう状況のもとで、せっかくテクスト論が切り開いた豊かさを反故にして、またもや作者や普遍主義への先祖返りのようなことをささやく論者も現れたりしていることであろう。そもそも、こういう人々の過誤は、〈テクスト〉そのものが書いていないすなわち語られていない〈空白〉によって満たされている構造物であるというテクスト論の常識を理解しなかったこと、その常識の決定的欠如でしかなかったと私は考えているので、くどいことだが、作品=作者の自己表現という幻想の想像理論を紹介したのであった。
 
           三、
 
 ところで、ここで唐突なようだが、こういう論文に出会った。所属している研究会で、田山花袋の「田舎教師」を発表することになっているので、ネットをのぞいていたら、こんな論文に出会った。「田山花袋の『生』についての若い研究者の論文である。若い研究者の典型的な手法なので、紹介してみよう。
 この論文では、テクストを例えば二つの問題系を立てる。「老親扶養と〈老いゆく/病みゆく身体 〉へのまなざしという〈老い〉をめぐる系」をたてて、あれこれその根拠を実体としての法律と引用で論証するという手法である。そしてさらに、「身体の国民化」の系をたてて、女が性・生殖の国家統制として国民化され、さらに天皇への国民の忠と孝、すなわち家族主義的国家観による補強とで再編成されていく様態を指摘している。花袋の「生」は、自分の家族、家の歴史を老母の病と死を通して再編成されていく様子を描いたテクストであるが、ここでは、まず外側から、問題の所在が整理され、その問題を歴史学などの文献などを動員、さらに文中からも引用することで、あたかもそれがこのテクストの中に実在したドラマであるかのように組み立てていく手法である。そして、最後に、「生」は、「世紀の転換期における身体のカテゴリー化というドラマを包含する」テクストとして閉められる。論としては、見事な切り方という印象を受けるが、こうなると、何も、あえて「生」でなくとも、他のテクストでもそう読めるのではないかと思えたりするのである。
 たしかに、語り手(の意志)を越えてテクストの空白を読めというのは私も主張している。しかし、それは語り手の意志を無視してなんでもこっちの思うように読め、あるいは読んでもいいということではない。それでは人の話をろくすっぽ聞かないで、あなたはこういいたいのでしょうと一方的にこちらの解釈、読みを強要、強制しているのであって、それは一種の読みにおける暴力、パワハラであろう。作者、語り手の暴力、権力からの解放というスローガンはもっともらしいが、なんのことはない、それは読者の暴力、権力の行使でしかないのではないか。文中から引用してきたり、また社会科学、歴史学、文化記号学などの諸科学をも手続きとして動員してくるのだから、たしかに客観性を担保しているように思える。したがって一応、表面的には、なんでも許されるような読み、すなわち読みのアナーキーを呈しているとは言えない形を取っている。しかし、それだけに悪質なのだ。語り手(の意志)を越えてあるだろうテクストの空白、すなわち語り手によって直接語られていない事柄、領域を読むには、何はともあれ、語り手が何を語ろうとしているのかの事柄、領域をはっきり見定めなければならない。そうでないと、語り手が言葉では直接語っていないが語りたかった事柄は何だったのか想像することが不可能なのだ。また、語り手さえも全く意識していない大切な事柄、領域がテクストの空白としてある場合もあろうが、その場合でも、それを根拠ある具体性として提出するためには、やはり、そもそも語り手は何を語ろうとしていたのかの事柄、領域をはっきり見定めなければならないのである。そうでないと、それが何であるのかというのはたとえ想像できたとしてもそれは根拠なき想像ということになり、これまで、批判してきた、こういいたいのでしょうと強要、強制したあの読者の暴力、権力の行使でしかないことになる。テクスト論者の読みはしばしばこのようなたぐいの読みになりがちである。あながちすべてが間違いというわけではない。しかし、たとえば、田山花袋の「生」の中に、「世紀の転換期における身体のカテゴリー化というドラマ」を読むのは自由だとしても、しかし、これでは、病み老いていく老婆に寄り添いつつ、しかし、家父長的な家制度の中で、それぞれ苦悩しつつ回収されていくそれぞれの〈生〉のありよう、その関係性がきれいに整理され、たとえば「銑之助」の抱えた問題性がどこかにあるのか見えにくい。これでは、その先の語ろうとして語られなかったものとは何だったのか全く見えてこない。いわばテクストで語られていることが、すべて外から説明されているだけではないかという印象をうけるのだ。少し酷な言い方になるが、かなり昔の俗流芸術反映論の悪質な復活、あの歴史や作家の私生活に物語を還元してしまうやり方の手のこんだ復活でしかないように私には思われるのだ。これとややことなるが、ポスト・コロニアリズムの立場からのテクスト分析も、やはりすべてを国民国家という〈大きな物語〉への解消・解体であってみれば、同じようなものだといってもよい。

            四、
 さて、何も紹介した論文がそうだというわけではなく、これはこれで見事な切り口をもった論文ではあるが、一般的には乱暴で軽薄なテクスト論あるいは、ポスト・コロニアリズム的な読みが多く、それへの反論として、私は、関係の豊かさ論を展開してきたのであった。闇雲に、作者や語り手の意志と離れたところで、知的な問題系を立てて、それをテクストに発見していく、あるいは何でもかんでも国家という〈大きな物語〉として断罪して、それでテクストを読んだと勘違いしている、いわゆる外在批評のやり方ではない読みの方法論として、私は関係の劇論、関係の豊かさ論を展開してきたのである。
 テクストは語り手による語りの領域によって構成されているわけだが、その語りはかならずある角度、視点から語りだされており、その語りのゆがみは当然あるだろうし、知らずに、あるいは意味づけさえもできずに、出来事、事件、風景、人物を語っていることは自明のことであろう。テクストは必然的に〈語り手を越えた領域〉が構成されているということである。すぐれたテクストは、この語り手の語る世界を越えて、〈豊かな〉な世界を作り出しているのであるが、では、それを誰がどう判定するのかという問題が必ず浮上してくる。ただ、ここで大切なのは、このテクストの〈豊かさ〉を判定するのは誰かということである。もちろん、読者である。読者が、語り手・主人公・その他の人物たちが何を語り、何を語らないか、あるいは何が見えて、何が見えていないかを批判的に検証することで、特権的な語り手の語り通りに世界を解釈することなく、また、同様に主人公が何を語り、何が見えないか、さらには主人公の周りの人々は何を語り何を語らないのか、どれだけ語り手や主人公のまなざしの内部でいきているのか、あるいはそうでもないのかなどを読み解きながら〈テクスト〉の中を批評的、創造的に読んでいくことが大切なのだということになる。読者は、こう〈テクスト〉の中を批評的、創造的に生きることで、語り手が自覚もしなかったいわゆる〈語り手をこえるもの〉の中身を読み取っていくことになる。優れたテクストであればあるほど、了解不能な空白の領域を抱え込んでおり、読みとは、その空白(行間)を読み解く行為であるというわけである。小説あるいは文学という〈テクスト〉は、了解不能のこの空白の領域(語られない領域)を構造的に抱え込んでおり、それは読者の参加を待って完成するというきわめて特殊で不完全な言語によって成立する構造物だということを確認してきたのであった。もちろん、こんなことは私の発見でも何でもなく極めて常識の領域のことであろう。ただ、しつこく述べてきたというのが一つの取り柄と言えるのかも知れない。
 それにしても、文学的価値を意識ではなく語り手、主人公あるいはテクストそのものによって作り出された〈関係性〉とその〈豊かさ〉に求めるといっても、それでは一体、関係の〈豊かさ〉とはそもそも何なのかとなると、これはなかなか難しい。ここで、私は、豊かな関係性を人との関係に特化して言っているわけではなく、世界(神・生・死・いのちなど)や自然(季節・風景・土地・生物など)との関係の中での〈豊かさ〉も含めて考えている。このことを前提として、では、その〈豊かさ〉とは、具体的にどのような内容を指しているのだろうか。
 明らかなことは、人間がお互い自由で平等な存在である関係、あるいは人間が他者や自然や世界を支配したり抑圧したりすることなく、共に助け合いながら生きる関係こそ、望ましい〈豊かな関係〉と言えよう。もちろん人を殺したり食べたりすることを悪として認めないというのもある意味人類共通の倫理規範であろう。言ってみれば、これらは時間や国家や民族を超えて 〈共有すべき〉価値観・倫理観である。世界の見え方は言語によってさまざまで単一の客観的世界などはないというのは事実だが、それは誰でもが容認し、共有できる価値観や倫理がないということではない。人間の実践的な社会的諸関係と切れた、あたかも形而上学的な地平に〈普遍的真理〉とか〈普遍的価値〉があるわけではないが、いわば人類の目標値として、人類の〈今・ここ〉の地上の世界から紡ぎ出し、構築すべきものとしてそれはあるということである。言語の差を超えて、自由と平等とか反支配、反差別の価値の共有のもと、それ自体を私たちの〈今・ここ〉の関係性の中から紡ぎ出し、構築していかなければならないということである。ただ、そうは言っても、もともと人間が他の人間や世界(神)、あるいは自然と取り結ぶ関係は、安直な価値の換算や交換などできないもので、〈豊かな関係性〉とは何かと言われればそう簡単に答えることはできない。たとえば、世界との関係における神との〈豊かな関係性〉とはどんなものをいうのであろうか。生あるいは死またはいのちとの関係における〈豊かさ〉とはどんなイメージを持つだろうか。同様に、自然との関係、季節・風景・土地・生物などとの〈豊かな関係性〉とはどういうものをさすのであろうか。ましてや友情とか愛とか誠実さとかいう場合、俺の愛は尊くて価値があり、おまえの愛は価値が低いと勝手に決めることなどできないだろう。何が価値あることで、何が〈豊かさ〉なのかなどはそう簡単に判断できないということである。そこで、大上段から、これが豊かで、あれは豊かでないと判定するのではなく、〈今・ここ〉のテクストの中の関係性の中から、〈豊かな関係性〉と思われるものを見つけ出し、議論し、確認し、共有し合う行為の中から、つまりこの地上から作り出していく作業こそが大切だということである。
 ところが、これまで、われわれは、関係の〈豊かさ〉というと、人間と人間との関係に限定しすぎてきたのではないか。われわれの関係の〈豊かさ〉とは、世界(神)、自然、人間との相互の諸関係一般をさしており、極端な例で言えば、人間と世界(神)と自然との三つどもえの関係もあるということである。しかし、関係と言えば、この人間と人間との閉鎖的な関係に限定され、しかも、関係の〈豊かさ〉とは何か?を問題にすることもなく、主人公の意識一般を問題にしてきたのであった。関係の内実さなど分析、検討されることは全くなかったのだ。そこでは主人公の意識の近代性、進歩性、主体性のみが問題にされてきたのである。いわゆる主人公中心の近代的自我論が読みの定理として幅をきかしてきたのである。
 あまり質の高い例ではないかもしれないが、主人公中心の近代的自我論あるいはその意識に注目して価値を判定する価値論からすると、芥川龍之介が高い評価をうけるのは当然だろう。「羅生門」では、下人が楼の下で飢え死にするか盗人になるかを懊悩しつつ、楼の中で、老婆の言葉と出会うことで、二者択一のジレンマから解放されるという人間のエゴのある断面を見事に切り取っていて、これまで高い評価を得てきた。しかし、表出された「意識の劇」ではなく、語り手の意識を超えた領域を「関係の劇」として果敢にその〈豊かさ〉を読み、評価するという〈関係の豊かさ〉論でいくと、まず、下人は老婆の何も見えず、ただ暴力、搾取を現出させているだけであり、他者とのいたわりとか助け合いという視点もなく、また、テクストそのものも下人と老婆の切り裂かれた闇を作り出しているだけで、そこに〈関係の豊かさ〉など全くみられず、高い評価など与えられないということになる。たしかに、下人のその後の行方は誰も知らないわけだから、そこに闇、罪、地獄に向かう下人を想像することができる。しかし、ただ、想像できるだけである。たしかに、闇を人間の原罪として捉え、「羅生門」を高く評価する読みもあるにはある。しかし、近代小説は、一般に、闇=原罪から神や仏を登場させ、そこから救い、献身の主人公の物語を紡ぎ出すか、それとも絶望のあまり死を選択するかという物語を作り出してきた。その限りで言えば、神への救済に向かうこともなく、ただただ、飢え死にするか盗人になるかという二者択一の道しか許されない下人の生の状況は、神なきモダンを抱え込んでいる新しさがあろう。しかし、下人をそう語る語り手の向こうに見えるのは、まさに、飢え死にもせず、また盗人になることもなく、仏像や仏具を薪の料として売っていきている人々の状況である。この人々の主体的な自己責任、判断を伴う倫理の世界とどうつながっていくかということこそ、下人の課題であったはずである。ところが、この下人が選択したのは、乱世の庶民の倫理を罪のいいわけとして捉え、あざ笑うようにそれを借用して一人盗人として生き抜くことであった。語り手も作者もこういう下人の行動にいささか軽薄な面を見ていたにしても、ただそれだけで、結局は、人々との乱世の倫理の共有という地平へと向かうことはなかった。せいぜい京都に強盗を働きにいきつつある事態の進行を、行方不明にしただけであった。語り手の向こうに見える庶民の〈仕方が無くする悪は許される〉という主体的な自己責任、判断を伴う倫理、そこには乱世を生き延びる庶民の生きる人権の主張(生の叫び)があるのだが、結果として下人はその庶民の主体的な自己責任、判断を伴う倫理も人権性も暴力的に封じ込め、深い倫理の闇へとテクストは向かうのだ。下人と老婆の位置関係は一度も横になることも反転することもなく、そこに新しい関係性が開かれる可能性はなかった。下人が、老婆の言葉(人の話)を自分の都合・文脈で聞き取る習慣から早合点することなく、どうして見え透いた嘘を俺に語るのだと問えば、老婆は嘘を語るほかない生活の惨めさ・過酷さを語りはじめ、そこに、この二人の新しい関係性が開かれたはずである。
 しかし、こんな、おぞましさで終わるテクストは「羅生門」だけではない。芥川の「鼻」を例にして考えてみよう。
 「鼻」の主人公禅智内供は、「傍観者の利己主義」というものに出会うことによって、自分の異常な鼻に劣等感を抱き、何とかしてそこから抜けだすという物語として読まれてきた。主人公は、一種、滑稽とも思えるほど己の鼻に過剰な自意識をもっているのだが、小説では、その主人公がその苦しい自意識の世界から解放されてるということになる。しかし、ここでは、本当に主人公の苦悩から解放されるドラマが重要なのであろうか。考えてみれば他者の視線にもうこれ以上翻弄されないという一見健康な生き方も、少し深いところで考えてみると、それは他者の無視ということになり、一種の唯我独尊になりうるのである。「鼻」は、そういう唯我独尊の世界を描いたテクストということにもなりかねない。他者はいつも「傍観者の利己主義」者によって満たされているわけでもないからである。そういう人もたまにはいるかもしれないが、ともかく全部ではないだろう。こういうわけで「鼻」は一見、人間の歪んだ一面を見事に捉えたテクストのように思われがちであり、事実そういうふうにも理解されてきたのだが、そもそもそういうテクストではなく、それどころか、そこには身体障害に悩む人を一種の滑稽として笑い飛ばす非情な感性が表出されていたのであり、それこそまず問題にされるべきであったのだ。芥川には、弱い、劣悪な立場にいる人々を愚弄するところがあり、それが最大の問題でもある。要するに感性的に言えば、芥川には、現在のいわゆる勝ち組の心裡があふれているのであり、そこが最大の問題なのだ。たしかに、禅智内供は自己の身体コンプレックスから解放され、はじめて幸せな気分を味わっている。しかし、その幸福感は、他者はみんな「傍観者の利己主義」者だという恐ろしい偏見によって生み出されているのであり、とても鼻を意気揚々と風になびかせる禅智内供の心は内面化された身体差別からどこまで解放されているのか心許ないかぎりなのだ。主人公あるいはテキスト総体が最終的に世界(神)、自然、人間との〈今、ここ〉の関係性においてどういうものを実現しているかというその構築された〈関係性の豊かさ〉で判定するとすれば、「鼻」は禅智内供のただの内面のドラマを描いたテクストでしかなかった。禅智内供の苦悩がいわば浅いのだ。「鼻」はそういう軽薄な人間を描いたのだと言われればそれまでだが、それでは「鼻」は底の浅い人間性をかいま見せただけのただの〈近代的〉なテクストということになろう。
 「藪の中」でもそうである。誰が犯人で、真相はどうかなど、闇に覆われ、虚無の極北といえなくもない。妻と旦那と盗賊の三者三様のいいぶんは、事件の殺人現場の目撃者の証言内容と矛盾するものではなく、したがって誰が真実をいっているのか判定不能なのだ。真実はあるだろうという前提を完璧に壊し、真実などないという虚無の底を見せつけている点ですばらしいテクストである。しかし、三者三様のいいぶんの向こうに見えてくるのは事実と認識の一致の不可能性であり、相対主義の虚無の世界を描いたという点では特筆できても、さて、その虚無の底を突破する方向性はどうなるのかと言えば、「羅生門」と同じで、〈闇〉なのだ。問題は、そこを出発点として、人と人、あるいは世界(神)、自然と〈今、ここ〉の関係性の中でどのような糸口を見つけて生きていくかということではないか。テクストがその糸口、ヒントさえもあたえないのでは、とても〈ポスト〉近代小説とはいえないのではないか。暗黒や闇や絶望の底を見せつけるテクストが最高というのは、その人の文学観が最終的には、神による救済か死かといった二者択一の選択しか示せないということを白状しているだけである。もちろん、救いや死がだめだといっているわけではない。しかし、みんながみんなそういう二者択一の選択しかないということになれば、それはあまりにも平板で無内容な、貧しい世界だということになろう。それこそ、神なき後の近代の世界だときめつけることもできようが、そんなことを語るのが近代の小説というテクストだということになると寂しい限りである。近代小説の可能性とは、神亡き後の、救いと死の二者択一の選択しかない許されない生の状況を、人と人、あるいは世界(神)、自然と〈今、ここ〉の関係性の中でどう切り開いていくのかを提示するところ、即ち〈ポスト〉近代小説性を指し示すところにこそあるのではないか。また、仮に、神による救済か死かといった二者択一の世界であったとしても、そこにはまた、さまざまな深い無数のバリエーションがありそうである。この神による救済と死の深い無数のバリエーションを指し示すだけであっても、〈近代的〉な近代小説は無限の〈ポスト〉近代の世界を指し示すことが可能だと思う。要するに、芥川の「藪の中」は近代小説の極北ではなく、ほんの入り口の小説だということである。実際、女が男を殺してくださいというその生の苦悩の深さ、あるいは逆に男の裏切った女へののろいや絶望の深さなど、物語はこれからおもしろくなるのではないかということになろう。「藪の中」は、真実は〈闇〉ですということを指し示すだけの〈認識〉をめぐるただの厚みも深みもないドラマとして語られているだけなのだ。もちろん、認識をめぐるドラマがどうでもいいというわけでもないが、男と女が殺人の真実よりも、ごまかしてでも自己のアイデンティティを保ちたいという地獄のような〈生〉の状況の方がずっとおぞましい世界であるように私には思われるのだ。しかし、「藪の中」のテクストはそういうところへと間違っても向かわないのである。そういう男と女のどろどろの〈生〉の世界、ドラマの方が、真実は〈闇〉です、はい終わりという〈認識〉をめぐるゲームよりもよほどましな〈豊かさ〉を持ったテクストだと私には思える。どうして「藪の中」止まりのテキストが近代小説の極北であることがあろうか。

        五 
 さて、ここまでくれば、私のいいたいことは明らかであろう。〈豊かな〉関係性、あるいは、関係の〈豊かさ〉とは、人間の意識の暗黒性、罪性、虚無性を暴き立てることではなく、そんなことはいわば当然のことと認識し、そこから人間が抜け出し、どう世界(神)と自然とさらには人間との〈今、ここ〉の関係性を豊かに取り結んでいくかというその具体相を指し示すこと、あるいはその困難性を暗示してみせることなのだということである。そうでなければ、人間の意識の暗黒性、罪性、虚無性といったものの個別性、多様性さえ見えないのである。そういう訳で、近代小説は、もはやかつてのような「意識の劇」ではなく、その奥にある「関係の劇」さらにはその奥へと転じなければならないし、評価もまたそれにふさわしい評価の価値基準をもたなければならないということである。
 たとえば、漱石の『こころ』では、「私」とKとお嬢さんをめぐる恋いの三角関係の中に、人間のエゴイズムの罪深さが読み取れるだろう。しかし、このテクストは、お嬢さんに自分の犯した罪の重さを背負わせたくないと優しい心遣いをする「私」を語りつつ、一方で、お嬢さんがそのことで悩み、愛されていないと思いこんでいる姿をまた語るのである。そして、さらに、学生の「私」は、そこに「私」=先生の虚偽を見つけ、もはやこの大先生の物語を語ることを断念するのであり、さらに作者は、そうすることで、新しい大正の時代に生きる若い「学生」に普通の人間の尊さと自分の向こう側にいる他者の問題とを重要な生きる課題として提供しているのであった。まことに、こうなるとそれが偶然かどうかの評価は分かれるが、構造の持つ空白によってテクストは、一層から二層へ、二層からさらに三層そしてさらにその奥へと光を当て続けているのである。同じ事は、またまた具体的な小説をだして恐縮だが、島崎藤村の「破戒」では、告白小説か社会小説かといったことが真面目に議論された時期があった。それは、言うまでもなく、小説を「意識の劇」のレベル、すなわち主人公中心主義のレベルで読んできたからである。われわれは、そういう意識の劇を読む時代から、「関係の劇」を読む方へ大きく転換しなければならない。そして、そうなれば、「破戒」は、告白小説か社会小説かといったことが問題の中心ではなく、ましてや土下座やテキサス行きが問題ではなく、丑松が、誰にも自分の出自を告白しないで飯山から去ることもあり得たのに、そうしないで、生徒の前で告白したことの意味の重大さこそよみとらなければならないのである。この〈告白〉という行為によって友人、同僚、生徒、恋人との間にどのような関係性が生まれたのかが問われる必要がある。告白しなければ、「部落」差別の問題は表面化・問題化することもなく、飯山の古刹にはいかなる変化も起こらなかったのだ。丑松の告白によって生じた〈今、ここ〉の共同体における人間関係の激震、その軋みこそ読み取らなければならなかったのである。ところが、「意識の劇」、主人公の意識にばかり重点を置いたこれまでの読みではそういうことにはならなかったのである。読むとはくどく述べてきたように語り手が直接語ってはいないこの部分を読まなければならないわけであるが、それには普段から「意識の劇」ではなく、ドラマを「関係の劇」すなわち語り手の語りによって引き起こされる登場人物あるいはそれを取り巻く状況がどう変化・変動しているかに想像力を働かす読みの手法、慣習が準備されていなければならないだろう。そうでないと、告白によって生じた飯山の古刹の激震は想像だにできないのである。また、同じことは、告白からテキサスへ向かう丑松の姿を「意識の劇」に重点を置いて読めば、逃亡という表層の読みとなるのは必定であろう。この場面を「関係の劇」で読み取るとすれば、丑松にテキサス行きの選択肢しか与えなかった明治国家の抑圧の構造が見えてくるのである。丑松の反差別の人間的な叫びを抑圧と排除によってしか解決できない天皇制国家の構造をみごとに照らし出していたのである。もちろん、主人公や語り手あるいは作者の意識、意図、思惑を超えてテクストがそういう世界を語っていたのであるが、その読みができるのも、「関係の劇」とその〈豊かさ〉を読むという作法があるからである。一層あるいは表層ではみえないその奥の二層、さらには三層という具合にテクストが指し示す世界へとはいっていく「関係の劇」を読む読みこそが、新しい読みの方法ということになろう。
 一般的に、語り手の〈語り〉は、ある視点から自分の見える、知っている世界を語りながら、自分でも意識しない出来事、風景、意味を書き込んでいく。ある時には、それは夢であったり、幻想であったり、天国や地獄の図としてしか語れないものであるかもしれない。読者は、そういう語り手の語る言葉にもならない世界をも含めて、テクストを読み込んでいくことで、語り手の語りを越えた領域あるいは語り手の無意識に隠した、ゆがめた領域をも自覚的あるいは批判的に眺めることで、語り手の語る世界から自由になることができる。いわゆる書かれていない行間、空間を読んでいくということである。今までの読者も、無意識には、語り手を越えた領域をも読んできたのであるが、しかし、圧倒的には、語り手の語る世界が真実の世界であり、その表の「意識の劇」を読むことがテクストを読むこと、正解に近づくことなんだという読みの慣習の中で、そういう受動的な読書を強いられてきたのであった。しかし、これからの読者は、むしろそういう受け身的な読者ではなく、語り手の語る表の世界だけでなく、語り手も自覚しない無意識の流域をも積極的に読むようになる。すなわち、これまで述べてきた語り手の語りを越えた無意識の領域あるいは語り手の無意識に隠した、ゆがめた領域をも自覚的あるいは批判的に眺めながらテクストを読むことで、「意識の劇」を相対化し、また、その際、関係の〈豊かさ〉とは何かという問題意識のもとに読むことで、テクストの深さ、新鮮さに美的感動を覚え、奮い立つことになるだろう。読者が、〈関係の豊かさ〉とは何かという視点からテクストにかかわることによってテクストそのものを〈豊かなテクスト〉へと作り替えていくのである。漱石の「こころ」のあの一層、二層、三層のさらに奥にある世界の深さ、〈豊かさ〉にふれるのは、実際、読者が「こころ」というテクストを〈豊かなテクスト〉へと再造していくということなのだ。

            六、
 文学教育は、〈読み〉の真偽をめぐるバトルではなく、どのような位置、角度、視点からテクストを眺めた時、どう見えるか、見透せるかということを多くの他の読者が生きている〈今・ここ〉の場所・地平において公開することである。そうすることで、相互の差異を認め合い、そこからまずお互いを尊敬しあういわば自立した〈個〉と〈個〉の関係が作り出されることになる。〈自〉と〈他〉が分離・独立し、主体的な個人が生まれる場所こそ文学教育の場ということになろう。そこに文学教育の最大の意味がある。もちろん、それだけでなく、その〈読み〉の公開を通して、一人では見えなかった、見透せなかったテクストの〈空白〉すなわち語られていない部分の読みをふくらませることができるのである。実際、この作業こそ、〈テクストそのもの〉を豊かにしていく道なのではないだろうか。そういう意味で、テクストの〈豊かさ〉は無前提にはじめからそこにあるのではなく、読者が関わることで、その〈豊かさ〉の相貌を見せ始めるのである。テクストにおける〈豊かな関係性〉は、テクストの〈外部〉にあるのではなく、〈内部〉に、《語られていない》空白として無限に広がっているのである。私たちは、このテクストの〈内部〉にある《語られていない》空白を求めて〈読み〉の永遠の旅を続けるほかないのである。
   一般に、テクストは、〈今・ここ〉の存在論的関係性を通して二様の関係のドラマを作り出していく。〈おぞましさ〉と〈豊かさ〉のドラマである。関係の〈おぞましさ〉の最大のものが、人間による人間の支配と差別である。平等に扱われたいというのが人間の根源的な願いであろうが、神の庇護から投げ出された近代の人間は、しばしば神による救いか死によってその解決を図ろうとする。通常、これがこれまで述べてきた「意識の劇」の行き着く果てである。しかし、人間はその魂の装置にもう一つのドラマ、すなわち関係の〈豊かさ〉、神ではなく、多くは人とつながることによる〈豊かさ〉のドラマを用意してきた。もちろん、この二つのドラマは程度の差はあるが、ともにテクストの中に、いわば、〈表〉と〈裏〉、〈見える〉と〈見えない〉、〈語られた〉と〈語られていない〉世界としてそれぞれ読者の前に姿を現してくる。ただ、これまで長く、テクストは、作家の内面の自己表出、自己表現として信じられてきたため、人間の魂の救済あるいは死の世界のドラマはその親近性故に、この〈表〉の「意識の劇」こそ真実の世界だと錯覚し、いわゆる〈見える〉〈語られた〉「意識の劇」へと傾倒してきたのであった。しかし、これまで、触れてきたように、テクストは、〈表〉の「意識の劇」=表層の劇だけでなく、そこに、世界・自然・人間の文脈・関係に縛られ、もがき、しかしそれらとつながることによる〈豊かさ〉の姿を見せることで、読者に、世界・自然・人間との〈豊かな関係性〉へのヒントを指し示してきたのであった。実際、人間の内面、自己さえも事後的、社会的に生成されてくるものだということがわかり始めるにつれて、表層の「意識の劇」への信仰は薄れ、逆にテクストは、内面や自己の語り得ぬ領域をも含めて、すなわち本質的には、この世界あるいは自然・人間の〈豊かさ〉〈複雑さ〉を想像力を働かせることで産出してきたのではないかと考えられるようになってきた。人間は想像力を媒介することによって、〈私〉とか〈自己〉といった狭さを超えて、世界、自然、人間の〈豊かさ〉や〈複雑さ〉の世界を紡ぎ、そうすることで、言葉によって構築された〈もう一つの現実〉=虚構空間、テクスト空間が作り出されてきたのであるという考えにたどり着いたというわけであり、その結果、読者は、小説における表層の「意識の劇」=〈救いの劇〉に埋没することなく、この想像力によって紡ぎ出された世界、自然、人間の〈豊かさ〉〈複雑さ〉をテクストの中から読み取る行為こそ読者に与えられた最後の特権であり、それはまた読むことの楽しさそのものなのではないかと思い始めたのである。これが、これまで述べてきた《語られていない》空白を読む行為の内実である。
 それにしても、このテクストの内部に入り、〈関係の豊かさ〉にふれることで、テクストの価値を見いだしていくという新しい〈読み〉の道は、これまでのテクスト評価を一変させ、新しい文学史への構築につながらざるを得ず、それは営業妨害という面からも激しい非難にさらされざるをえないであろう。しかし、テクストの中に、〈関係の豊かさ〉とは何かを問い続けることは、この地上での私たちの〈豊かさ〉、特に原発事故以来、問われている近代の〈豊かさ〉〈幸せ〉とは何なのかの問いかけが避けられなくなっている状況を見れば、一層、切実な行為というほかないであろう。そして、飛躍した言い方になるが、こうした地道な問いかけを通して、地上での〈自〉〈他〉の差異の容認から異質な他者との共存ーー民族、国家、階級、性別を超えた相互補助を原則とした人間としての共存、すなわち、普遍、絶対、中心、唯一、権力なる〈世界と観念〉の復活を願う亡霊との対峙を通して異質性、差異性が容認され輝く世界、その人間の〈豊かさ〉の世界への具体的な道筋もまた見えてくるのではないかとも思うのである。
                                                                               2013/06/01 筆  修正アップロード 2016/05/13     福州にて
  注1
・「自我の複数性と近代文学史の転換」(『試想』創刊号 平13・10 「試想」の会)
・「意識の劇から関係の劇へ」(『社会文学』第18号 平15・1 日本社会文学会)
・「関係の劇を読むとはどういうことか」(『試想』第2号 平15・2 「試想」の会)
・「ファシズムと文学ーー〈いま・ここ〉の豊かな関係性の構築をめざして」(『試想』第3号 平16・8 「試想」の会)
・「新しい読みの技法ーー二項対立的思考から多項選択的思考へ」(『試想』第4号 平17・11 「試想」の会)
・「漱石・鴎外そして文学研究ーーポストモダンへの道」(『試想』第5号 平19・3 「試想」の会)
・「文学的価値=〈関係の豊かさ〉」論覚書ーー読みをめぐる原則的問いかけーー」 (『試想』第7号 平21・7「試想」の会)


 

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