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試想の会のブログです。
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 ツバメが研究棟の廊下の片隅に巣をつくり、たんぼには水がいれられました。もう宮崎では本格的な春がはじまりました。山桜はかなり前からもう咲いていて、今は満開を過ぎました。霧島の大浪池にはいつもマンサクの花が一杯さきますが、今年もマンサクの群生地に雨の中、みてきました。僕一人だけ雨にうたれたマンサクの花を堪能してきました。そうそうついでに、NHKテレビで放送された肥薩線真幸駅の幸福の鐘もついてきました。「試想」の発展とみんなの健康を祈ってついてもきましたよ。だから゜、病気になったらそれは本人の不摂生ですね。風邪には注意しましょう。さて、みなさん、メール討論ではくたくたですが、他の原稿書いていますか。僕は「走れメロス」論書きました。これは、去年の三月に現職教員セミナーで話し、報告集にまとめたものを論文としてまとめたものです。「大造爺さんと雁」も去年の六月には書き上げていたのですが、『地域文化研究』第2号の発刊が遅れ、まだ世にでていませんが、両方、戦時下における表現の二重のメッセージという視点から読み解いたものです。時候の挨拶という名目で、原稿がんばりましようというちょつとしたプレッシャーですね。日本社会文学会の宮崎大会の宣伝もよろしくお願いします。ではでは。
                         前田角藏
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 高口氏の民衆主義あるいは外来文献に依拠した「帝国主義」論の狭さの問題は大変重要な指摘だと思います。氏の指摘は、僕もそうですが、お前は右か左かという批判にさらされる性質の問題をはらんでいると思いますが、趣意書でも書いているようにわれわれは自前の思想を構築しなければならないし、そうでないといつまでも戦争の反省さえまともなものになっていかないのだと思います。そういう意味で、氏の問題提起は勇気があり、刺激的だと考えています。こういう氏の考えがブログでどんどん公開されるのを楽しみにしています。
                                                     前田角藏

12月の掲示板に、「種蒔く人」「文芸戦線」を読む会で黒島伝治について報告したことを書きました。黒島の民衆主義の問題は、現在の私たちにとっても意外に根深い問題として残っているのではないか、そんな感じが払拭できません。同じことを繰り返しているのですが、自分としてはきちんと片付けたい気持ちがあります。これについて考えたことを述べさせてもらいたいと思います。その続きです。

 黒島の民衆主義の問題点は、吉本隆明の言うように民衆から遊離したということではなく、民衆の加害責任を問う視点を欠落させたことです。
 帝国の平和と自由を享受しているとき、帝国の内部にいる人間には帝国の抑圧、暴力は見えません。被害者としての他民族の視点から反照したときに自国の帝国主義は内部の人間に相対化できるものです。(内部矛盾を徹底的に弾圧し、また国外に転化して、国内問題を消去することで、平和で豊かで自由な社会の現出した80年代のバブル期は、帝国主義のひとつの表れだといえましょう。)そして、それが見えたとき、帝国主義的膨張を支える民衆=我々の欲望が問題となるはずです。
 ところが「民衆=善」という信仰は、帝国主義的膨張とは支配者の問題であり、民衆はその被害者に過ぎないということになります。「パルチザン・ウォルコフ」にはシベリアで略奪行為を働く民衆兵士の姿を語りながら、しかし彼らも権力によってそれを強いられている被害者なんだという思想が見えます。確かにそれは半面の真実だとは思います。しかしそうであっても「抑圧」をシベリアの民衆に暴行、略奪というかたちで転嫁した日本兵たちの、より弱者に向かった戦争犯罪の問題は看過しえないものです。暴行、略奪された被害者の側から言えば「民衆=被害者」という理由は、国内でしか通用しない理屈であることは言うまでもないことです。
 結果的に黒島は民衆の他民族に対する戦争犯罪の問題を物語の中から隠蔽してしまったといえます。なぜそうまでして黒島は民衆像を守ったのだろうかと考えると、自分も民衆の一員だという意識があったように、岸田秀風に言うならば民衆信仰が価値として彼の自我に組み込まれていたからです。それが民衆をリアルに見る目を黒島から奪ったのだと思います。結果的に黒島は日本の帝国主義戦争に対する批判的問題意識をもちながらも、民衆のナショナリズムの問題には踏み込めず、帝国主義とはたんに資本家の利己的な欲望によるものであって、民衆はその欲望の犠牲者にすぎないと、帝国主義に対するとらえ方を見誤らせることになりました。
 ただ誤解のないように言うならば、黒島を否定したいのではありません。私は戦前の軍国主義に傾斜していく中での黒島の帝国主義戦争批判を高く評価しています。水準の高いものであるために、逆にそれを貴重な反省材料として振り返る必要があると思うのです。この民衆主義と帝国主義観の誤りの問題は、一黒島の問題に留まらず、今日に至るまで日本人の思想的死角として私たちの歴史観とその延長としての現在を見誤る原因を作っていないかと思うのです。ヒューマニズムの限界でもあります。それは依然私たちを呪縛する、加藤典洋の言う「ねじれ」の問題です。戦死者たちへの追悼と日本の戦争犯罪の問題と、どちらかを取るとどちらかが否定されるという、この問題の本質には日本人が、とくに戦争を批判する側であった左翼の知識人がレーニンの「帝国主義論」などの外国文献によって歴史を理解してきただけで、実際に起こった事実として日本の帝国主戦争の問題をしっかり見据え、反省してこなかったということがあるのではないかと思うのです。
(なんて書くと批判したくなる人もいると思います。もし私の理解に誤解があればそれは素直に認めたいと思います。誤りについては教えていただければ幸いです。)

 

2月15日(金)から21日(木)まで、宮崎大学の「異文化交流体験学習」(韓国学プログラム)を利用して韓国の順天市に行ってきました。僕がこのプログラムを利用するのは2度目です。
このプログラムは、韓国の順天大学と日本の宮崎大学との間で1週間、学生10名の交換留学を行う企画で、お互いに、それぞれの国に言ったときに世話をしたり、遊んだり、一緒に講義に出たりと、とにかく学生同士の交流がメインのプログラムです。費用は交通費だけで滞在費も食費も要りませんし、何より通訳付きですから、個人的にはとても良い企画だと思っています。しかし、毎年参加者は多くなく、今回も定員10名に対して参加9名というもので、非常にもったいない気がしています。宮大の学生は多少引っ込み思案なところがあり、それが影響しているのかもしれません。
それはさておき、今回のプログラムでは韓国にたくさんの友人ができました。これは普通の旅行には無い醍醐味だと思います。今回参加した韓国の学生に社会科教育を専攻している学生がいましたので、僕は、彼女が宮大に来たときに、宮崎と百済の関係、それからパク・ユハ氏の『和解のために』(平凡社)を紹介しました。嬉しかったのは、彼女が韓国に戻ってからそれをきちんと勉強し、本も読んでいてくれたことです。正直、前回参加したときは遊んでばかりの感がありましたが、今回は少しは大学生らしい(?)学問的な交流ができたのは大きな収穫でした。民族や国家や政治を超えて、僕ら若い世代が新しい韓日関係を築いていけそうな気がします。
これを機会に、韓国語の勉強も始めようかなと思っています。通訳なしで韓国に行って、今回友達になった友人と韓国語で会話するのが目標です。

ところで、ホームページのデザインを変更しましたが、いかがでしょうか?
どうも検索サイトにひっかからないようで困っていますが、もう一度検索サイトに登録してみようかなと思います。ご感想、ご要望などあればまたおっしゃってください。(黒木豪)

http://shisou.michikusa.jp/

今年の年末年始は地球温暖化とグローバリゼイションの問題を関連化させて地球の危機を訴えるというような報道番組が多く見られました。地球上でバラバラに起こっていた現象が、実は急速に進行する資本の〈帝国〉化に原因があるのではないか、というようなことが目に見えるかたちで表れてきたということは相当深刻な状況ではなかろうかと思うわけです。
さらに経済ジャーナリスト内橋克人の対談集「経済学は誰のためにあるのか」という本を本屋でたまたま見つけて読んだのですが、これもショックな体験でした。これは新刊ではなく、もう11年前に出た本です。しかもその最初の宇沢弘文との対談は阪神大震災の直後に行われており、もう13年も前のものなのです。内橋はネオリベラリズムに席捲されたアメリカでの取材をもとに、バブル崩壊後、日本経済の行き詰まりを打開するためにネオリベラリズムを思想的支柱に喧伝されていた「規制緩和」が、如何に人間の生活基盤そのものを破壊していくか、様々な経済学者たちとの対談を通して警告を発しています。
なにがショックだったかというと、こういった類の本はふつう10年で古びてしまうのですが、こうなると予想され警告が発せられていることがことごとく10年経って現実化しているということです。こうなることは心ある経済学者たちはわかっていたわけで、問題は彼らが見て見ぬふりをしてきたのではなく、体制やマスコミがこういった「都合の悪い」人たちの声を隠蔽してきたということでしょう。
私の住んでいる周辺では、相変わらず大型駐車場を備えた大型店舗の進出が止まりません。低所得者向けの一戸建て住宅、マンションの建設も進んでいます。昨年の参議院選挙の自民党大敗は、小泉政権であまりにも露骨化した市場万能主義に対する民衆の拒絶反応がその背景にあります。しかし「景気回復」ということが依然選挙公約の第一に掲げられるような状況はあります。人々の価値観もいまだ高度成長期へのノスタルジーに支配されているように思います。アメリカの住宅バブルの崩壊の問題についてはずいぶん以前から指摘されていたことですが、結局崩壊を待つだけで為す術はなかったように、そこに破滅があるとわかっていながら吸い寄せられるように日本が進んでいるのが不気味です。
冷凍食品への農薬混入の問題ではからずも露呈したのは、あれが犯罪かどうかということではなく、私たちが日常に口にしていた食品の多くが製造元のよくわからない輸入品だったということです。食品の安全性の問題だけでなく、食糧自給率が4割に満たないということは、私たちの生を保障するはずの共同体としての国家が非常に歪んだかたちで溶解しはじめているのではないかということだと思います。(だからと言って国民国家が止揚されるなんて楽観的なことではなく、国家は戦後の福祉国家とは異質な、「資本のための」もっと暴力的な権力に変貌していくかもしれません)
もう資本は国民国家という共同性すら破壊して、なりふり構わぬ暴走を始めたように思います。権力が人間の根本的な生の基盤さえ保障しないというのは狂気以外の何ものでもないでしょう。この暴走にどれだけのブレーキをかけられるか、どういう方向に軌道修正していくのかという問題に、現在人間一人ひとりは直面しているのだと思います。放っておけば、おそらく近未来の、僕らの子供たちの時代には、20世紀が世界大戦と革命の時代だったように、SFの世界でしかありえなかった人類滅亡とか地球滅亡という問題が現実化し、それとの闘いになるのではないかという予感がしています。授業でこんな本があったと内橋の本のことを生徒に話したら、「10年前に分かっていてどうすることもできなかったんだから、もう今気づいても遅いということだよね」と言われてしまいました。少し前までは「大人のやつらが」と言えたのですが、そういう責任回避できない年齢になって、なにか大人のひとりとして子供に対する責任を感じてしまいます。

文学や思想の問題に目を転じてみると、文学や思想の領域では信じられないほどグローバリズムを批判する言説であふれかえっています。グローバリズムに対して批判的意識を持つことはいいとしても、そういう分野で口にされるのは、ネグリとかハートとか横文字の名前で、日本のグローバリゼイションの問題を冷静に見据える内橋克人の名前などどこにも見あたりません。しかも文学や思想のグローバリズム批判は、他の文化圏で生じている問題を語っているものの(確かにそれは意味のあることでしょうが)、地域社会の崩壊、雇用崩壊、貧富の格差、知の二極化、9年間三万人を超える自殺者の問題、孤独死などなど、私たちの現在の日本という足下の問題とどう接続していくのかよく分からないものばかりです。
八〇年代のポスト・モダニズム、九〇年代のポスト・コロニアリズム批判、カルチュラル・スタディーズ、現在のグローバリズム批判と経て、日本の知は八〇年代からのこの三十年間、高度化し、グローバリズム化する資本主義を問題にしながら、その資本の暴走に対して無力でした。その問題を真剣に反省しなければならないところに来ているのではないかと思っています。
先日の日文教近代部会の帰りの飲み屋で、久しぶりに元気なお姿を見せられた伊豆利彦先生が、戦争の時もそうだったけど日本は自浄能力がないから、わかっていながら決定的なところまで行ってしまうんだ、というようなことをおっしゃっていました。前田先生は自浄能力のない原因として、日本人の自他未分の意識を指摘され続けています。「みんな一緒」という感性が容易に運命共同体に結びついてしまう。前田先生の指摘を粗っぽくまとめるなら、この運命共同体は、異質な他者を強引に同化させるか暴力的に排除するかで、他者を容認するコードもないために、他者の痛みを感じ取ることができない非常にタチの悪い人間集団であり、しかも破滅がわかっていても、死なば諸共という恐ろしい集団だということになるでしょうか。
この30年間の日本の知の反省とは、私たち日本人自身に対する反省でなければならないはずだと思います。現在必要なのは現実に働きかけるための知の共同性を構築することであって、知(文学)の優越性、正当性を争うことではないと思います。文学理論にしても世界的に精密化することが自己目的化してしまって、大変観念的なものになってしまっているように思います。難しい理論を必死で学んだ結果、なんの役にも立たないなんてことになるのではないかと思っているのは僕だけでしょうか。


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