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  前に東京学生会館OB会のことを書きました。今日は、学生会館の初代委員長であられた白鳥真澄さんに昨年暮れ、何人かとインタビューした結果をふまえて、〈貧困学生=学館生、文部省=援護〉といった単純な図式について考えてみたいと思う。
   白鳥さんはまずしい学生であったことは事実らしいが、除隊の前の経歴を聞けばわかるように陸軍中野学校出身者で満州で活躍、陸軍大尉であった。貧困学生といっても、学徒動員で勉強したくとも無理に動員されたいわゆる学徒動員生ではなく、したがってきけわだつみの会の犠牲者的イメージとはかなり異なっている。学生会館の成立過程の物語・・・貧困学生が戦地で放り出されて、都会に浮浪者のようにやってきたがすむところもなく、やっと旧兵舎であった学生会館にたどり着いたといった物語・・・は事後に作られた物語のような気がする。国家によって連れ出された学徒、そしてそれだけに二度と戦争はしてはならいと反戦平和に燃えた・・・こういう反戦学生のイメージも全くすべてが嘘だとは思わないが、後から作られた物語のようなきがするのだ。白鳥氏らは九段の兵舎は開いているはずだ、水も電気もあるはずだとというかつての諜報知識があって兵舎後にやってきたのであり、また諜報活動もお手の物であったので二ヶ月くらいでわっと都内の貧乏学生が集まってきたというのが事実に近いだろう。彼らの意識の中には、戦争では負けたが、これからは勉強して技術、科学でアメリカに一泡吹かせたいという共通のメンタリティを持っていたとも言えようか。ようするに戦争=犠牲=平和と民主主義という図式は、完璧に誤謬というわけてせはないが、一面的であり、表面的であったということなのだ。意地悪く言えば、戦争=犠牲=平和と民主主義ということによって、それ以前に自分は何をしてきたのかを問わなくなった、つまりこの図式は、過去のことを不問にしたという機能をはたしたのではないかということなのだ。
話はかわるが、密かな研究会をやっていて、そこでシベリア抑留体験のある石原吉郎のテクストを読んだ。詩はなんとも言えない重々しさを感じたが、エッセーでは、満州でやってきたことの意味についてほとんど語られていないことが気になった。もちろん、石原を責めるのではないが、日本あるいは日本人は、これは小生の持論だが、戦争のこと、特にアジアで自分らが何をやったか本質的に詰めてこなかったのだ。いろいろな事情があったにしても、戦争の忘却であり、健忘症にかかってきたのである。国家があの戦争に対して責任をとらなかったばかりか、あったことはいうなという箝口令をしいたため、国民は戦争の罪を一人一人あの世までもっていくような事態に陥れられたのである。恐ろしい失語状態に追いやられたのであった。国家が戦争の罪を背負うのではなく、一人一人の国民に背負わせるといった国家がどこにあるのだろうか。どこにもないだろう。だからこそ、われわれは、国家の品格などという前にずっと品格がなかったのだということを自覚する必要がある。そしてこの自覚のもと、もっともっとかっての戦争のことを語るべきなのだ。(前田角藏)



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