魯迅『故郷』論覚書
ーー「手製の偶像」を超えて新しいステージへ向かう「わたし」ーー 前田 角藏
『故郷』は魯迅の代表作ともいえる短編小説である。1921年5月『新青年』に発表された。魯迅は1919年12月に故郷の紹興に帰省しているから、この小説は一種の魯迅の手記小説というイメージが強く、主人公「わたし」=語り手〈わたし〉==魯迅という図式で読まれてきたといえよう。
あらすじは大体こんな風である。主人公「わたし」は、二十年ぶりに故郷に帰ってくる。かつて大地主であったが今は没落していて、その生家の家財を引き払うための帰郷であった。故郷は寂寥としていて、想い出の中の美しかった故郷はすっかり色あせていた。そんなものさびしい故郷であっても、「わたし」は少年時代に仲良く遊んでいた小作人の息子閏土(ルントウ)との再会を楽しみにしていた。しかし、再会した閏土の口から出た言葉は、「だんな様」という言葉だった。その言葉は、地主階級と小作人という悲しい身分の壁を否応無く突きつけるものであった。「わたし」の帰郷は、二週間ほどのものであったが、「厚い壁」にはばまれ、いわば一種の失語状態に陥っていく。そして帰りの船の中でいよいよ自分だけが「高い壁」に取り巻かれて人々から「取り残された」ような「隔絶」感を強め、孤絶した「自分の道」しかないのだという絶望的な気持ちになる。あったと思っていた「故郷」のイメージ・記憶の中の閏土の姿もいつの間にか薄れていく。ただ、それでも、「わたし」は、祈りに近い形で次世代に期待することで世界とのつながりを希望するのであった。こうして、魯迅の『故郷』は、どんなにつらくとも諦めない、きっと道は必ず開けるという「〈希望〉の物語」(丹藤博文論文「地上の道のようなものーー中学生の読みから『故郷』(魯迅)を考えるーー」『国語国文学報』2010 愛知教育大学国語国文研究室)として読まれてきたのであった。たしかに、丹藤氏が指摘するように日本でも中国でも『故郷』は若者(中学生)を励ます歌として機能してきたのであろうし、そのことに間違いがあるわけではない。ただ、『故郷』は〈希望の歌〉などという一般的な物語に回収されていくような読みでよいのかどうか、丹藤論文をふまえつつ考えてみたい。
登場人物は、主人公の「わたし」(「迅」 四十歳位)で物語の語り手でもある。「わたし」の少年時代の友達の閏土(四十二歳位)で、かつて「わたし」の家の臨時日雇い農民の子供であった。後は、「わたし」の母と、隣の五十歳位 の楊おばさん。それに、子供の宏児(ホンル 八歳 )で、「わたし」の甥である。宏児は、閏土の五男である水生(シュイシュン 十歳)と友達になり、昔の「わたし」と閏土との関係を彷彿させる。登場人物はこんなものである。
私は中国の福州大学で今年も客員教授として中国の学生に日本の近代文学を教えている。今度、日本に帰ったとき、「故郷」についてのすばらしい丹藤論文に出会ったので、中国の学生や先生に紹介しようと思ってコピーした。ところが、東京を離陸する寸前に田中実氏の『故郷』論(「奇跡の名作、魯迅『故郷』の力ーー大森哲学との出会い、多層的意識構造のなかの〈語り手〉ーー」『日本文学』2013・2)に出会った。氏については一時、共同研究をして語り手論、他者論を詰めた仲なのでよく知っており、さっと読み、相変わらず難解だなという印象と、丹藤論文を深めたいい論文だなと思った。しかし、それ以上あまり深く考えることもなく、荷物になるので掲載誌ももってこなかった。「試想」同人の仲間の高口氏からのメールによると、先生の発想とよくにていますが、全然反対ですよということで、どこがどう反対なのかよくわからないまま中国にきてしまったようだ。この点については、私たちのやっている研究同人『試想』あたりでゆっくり全面的な批判なりを高口氏にしてもらいたいと思っているが、つい最近、メールで田中論文を送ってくれたので、少し、この論文も交えて、考えてみようと思う。
丹藤氏の論をまず紹介しておこう。
これまで、『故郷』は、「〈希望〉の物語」として読まれてきた。生徒の関心は閏土に向けられている。自分を閏土の立場(負け組)に置き、自分だったらあんなに卑屈でいたくない、そのためにもシュンのように前向きに生き、今、高校に入学するという「希望」をもって頑張りたいというわけである。こういう読み方に対して、氏は、「わたし」の「自分の道」とは何か、また水生は「新しい生活」を持たなければならないというが、それはどのような「生活」なのか、などが具体的に読まなければならないのではないかと指摘する。氏によれば、楊おばさんの登場の意味は、「纏足」という中国固有の「古い因習」を刻印しているし、閏土も「中国古来の世界観もしくは風習を体現した人物」として登場させられているということである。氏によれば、「「楊おばさん」にしろ「閏土」にしろ、〈モダン〉以前の中国古来の世界観なり因習的な風習なりを体現した〈前近代〉(プレモダン)に生きる人物として表象されて」いて、「わたし」の「自分の道」とは「楊おばさん」や「閏土」とはちがう正反対の〈モダン〉に生きているという自覚にもとづくもので、「楊おばさん」や「閏土」は「心が麻痺する生活」から脱出することはできないとし、「わたし」は、宏児や水生に「自分と同じ〈モダン〉による生活」を望んでいるという。
しかし、氏の真骨頂はここからである。この『故郷』は、「たんなる〈プレモダン〉批判なのではない」というところにある。
「希望という考えが浮かんだので、わたしはどきっとした。たしか閏土が香炉と燭台 を所望した時、わたしはあい変わらずの偶像崇拝だな、いつになったら忘れるつもり かと、心ひそかに彼のことを笑ったものだが、今わたしのいう希望も、やはり手製の 偶像にすぎぬのではないか。ただ彼の望むものはすぐ手に入り、わたしの望むものは 手に入りにくいだけだ。」
氏は、この一文の意味についてこう指摘する。「わたし」は、「自分の信じていた〈モダン〉も実は「偶像崇拝つまり虚妄なのではないかという考えに至っている」のだと。氏は「ここで起こっている出来事は、〈プレモダン〉では救われないけれど、〈モダン〉もまた福音とはならないのではないかという秀徹した思考なのである」というのである。そして、さらに、「ここで、問題とされているのは、「希望」がある・ないといった実在論(〈モダン〉)ではなく、世界は言語的に構造化されているという〈ポスト・モダン〉の地平である」とし、「『故郷』は〈絶望〉の深さにおいて読まなければならない」と提案する。まさに、「絶対主義も相対主義も斥けて、〈実体〉と〈非実体〉、〈希望〉と〈虚無〉のあいだに身を置き、そこから立ち上がる第三の審級を希求する。そこに、「ない」ものとしての「希望」は、人々の力によって「ある」ものとされる可能性が拓かれるのではないだろうか」とまとめている。
さて、この読みに対して、田中氏は、前出論文において、『故郷』の〈語り手〉である
〈私〉の「多層的意識構造」に着目し、その解体過程を祖述しつつ、最終的に次のような結論に到っている。
「『故郷』の驚異は一人称のこの〈語り手〉の語り得ぬ領域を〈語り手を超えるもの〉 が語るところにあります。デクノボーがいかなる生身の溢れる思いの深さを持ってい たか、纏足の足美女の楊おばさんが何故執拗に「私」を痛めつけているのか、それぞ れの人物の生きた歴史的な重さが現れてきます。それは返す刀で、〈語り手〉自身を 相対化し、その人物像を浮かび上がらせていきます。〈語り手〉の自覚し得ない自己 像を〈語り手を超えるもの〉が語っていたのです」
ここでいう〈語り手を超えるもの〉とは、テクストの中で例えば〈語り手〉の別のものとして想定しているのかどうか不明であるが、私流に言えば、〈語り手〉が語ることで〈語り手〉にも見えなかった流域(構造)がテクストの中に表出したのだ、つまり了解不能の他者の表出ということであろうか。(注1) しかし、たとえ『故郷』は、「〈語り手〉の語り得ぬ領域を〈語り手を超えるもの〉が語」ったテクストであったとしても、最終的に、「この世では全ての「希望」という「希望」、観念という観念、その底を一切合財浚い、棄てる、〈語るべき〉観念の最後の一片まで排棄した〈語り手〉が未熟な人間のまま、「語ることの虚偽」を超えて語ります。その時、世界の〈向こう〉から「希望」への「道」が現れてくるのです」とか「地上の一切の観念の残滓を全て葬り去る〈語り手〉はこの世の「悲しむべき厚い壁」を末尾、風のように超えます。閏土が消えて「希望」が現れるのです」と言われても、正直、何を言っているのかよくわからないのである。そもそも、最後のフレーズ「思うに希望とは、もともとあるものとも言えぬし、ないものとも言えない。それは地上の道のようなものである。もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」を素朴に読めば、「希望」とは、氏のいうように「世界の〈向こう〉から「希望」への「道」が現れてくる」とか「語り手〉はこの世の「悲しむべき厚い壁」を末尾、風のように超えます」とかさらには「閏土が消えて「希望」が現れるのです」とかいった何か呪文的で意味不明なものではなく、むしろその逆で、「希望」はテクストの外部すなわち地上から、「人」によって「道」のように下からつくりだされるのだという諦念が示されているのではないか。そもそも、『故郷』の読みの醍醐味とは、世界との〈つながり〉を喪失した「わたし」が次世代に「希望」を託したその瞬間におきた「わたし」の精神、思考の奇跡的なコペルニクス的転回のドラマをどう捉えるかにかかっていると考えている。閏土の「香炉と燭台」への偶像崇拝的な期待はもちろんだが、「わたし」の「希望」というものへの過度な期待も、どういう事情であれ、それを絶対化している点で差異はなく、精神、思考の堕落があり、弱さがあった。「わたし」は、このある物、出来事、観念を偶像、絶対化する精神、思考を堕落とし、またそれこそ中国民族、中国の農民あるいは人民の悲しい弱さなのだと認識し、そこから自立すること、立ち上がることこそ何よりも大切なのだと自覚したのであり、この時、一度失ったかに見える閏土との地上の〈つながり〉が再びオンラインでつながったのだと考えている。消えたはずのあの光景、「海辺の広い緑の砂地が浮か」び、「その上の紺碧の空には、金色の丸い月がかかっている」光景が現れてくるのはそのためである。『故郷』を読むとは、丹藤氏の指摘するように、この終末部をどう読むかにかかっているのであり、そこに読み手の思想性の全重量がかけられているのだと考えている。
これから、屋上屋を重ねる論になるこわさを自覚しながらも、乗った船なので、このまま私なりの『故郷』論を覚え書き風に書き留めておこう。細かなところはまた日本に帰って詰めるつもりである。
魯迅といえば、「革命」と結びつけて語ろうとする、そういう私小説的な読みをまず卒業する必要がある。主人公の「わたし」は『故郷』の中で「楊おばさん」から「迅ちゃん」と呼ばれているから、一応、この「わたし」は魯迅そのひとではないにしても近いと考えていいのだろう。ただ、この作者魯迅は、『故郷』を通して実際にあった自分(「わたし」)の帰省の再現を目指しているわけではなく、語り手〈わたし〉がある戦略性を持って「わたし」の帰省を語っているのは明らかであろう。
語り手の〈わたし〉は、「厳しい寒さの中を、二千里の果てから、別れて二十年にもなる故郷へ、わたしは帰った」と述べ、この帰省が二十年ぶりであること、しかし、村の風景を見るにつけ、「寂寥の感が胸にこみあげ」てくる。主人公の「わたし」は、「これが二十年来、片時も忘れることのなかった故郷」かと問い、財産整理で「故郷に別れを告げに来た」のだから、「今度の帰郷は決して楽しいものではない」はずだと説明する。しかし、そういいながら、語り手は、母の「閏土ね。あれが、いつも家へ来るたびに、おまえのうわさをしては、しきりに会いたがっていましたよ。おまえが着くおよその日取りは知らせておいたから、いまに来るかもしれない」という言葉を取り上げ、「わたし」がこの楽しくもない帰省で唯一楽しみにしていた閏土との再会へとつなげていくのである。
「この時突然、わたしの脳裏に不思議な画面が繰り広げられた──紺碧の空に金色の 丸い月がかかっている。その下は海辺の砂地で、見渡す限り緑の西瓜が植わっている。 そのまん中に十一、二歳の少年が、銀の首輪をつるし、鉄の刺叉を手にして立っている。そして一匹の「チャー」を目がけて、ヤッとばかり突く。すると「チャー」は、ひらりと身をかわして、彼のまたをくぐって逃げてしまう。
この少年が閏土である。彼と知り合った時、わたしもまだ十歳そこそこだった。も う三十年近い昔のことである。」
語り手は、「三十年近い昔」の楽しかった閏土と過ごした日々の記憶を語ることで、「わたし」にとって「二十年来、片時も忘れることのなかった故郷」とは、閏土と一体化した日々であったこと、また「わたし」にとって「三十年近い昔」の時間はそのまま〈今〉と接続していることを語る。そして、こう語る『故郷』の語り手は、その心待ちにしていた閏土との再会によって、友達閏土と過ごした三十年前の神秘的で幻想的な日々の記憶が、三十年後の再会の中でもろくも崩れ去っていく様子を語り出していく。
いろいろな人と「わたし」は、会っているはずなのに、ここでは、楊おばさんと閏土が特化されている。語り手の〈わたし〉は、楊おばさんを「纏足」という古い習慣に縛られながらきれいに「白粉」を塗り、「豆腐屋小町」ともてはやされたお嬢さんだったが、「わたし」の前に現れた女は、「まるで製図用の脚の細いコンパス」を思わせる「ほお骨の出た、唇の薄い、五十がらみの女」であり、「わたし」は「見忘れてしまった」のだと述べるとともに、「忘れた」ことに腹に据えかね、楊おばさんは「わたし」が「知事」になり「お妾が三人もいて」「お出ましは八人かきのかご」などとののし、「わたし」がそれに弁解する言葉もなく、一種の失語状態に陥っていく様子を語る。ただ、語り手は、「わたし」にさんざん悪態をついたこの楊おばさんが、悪態ついでに「母の手袋をズボンの下へねじ込こんで」「ゆっくりした足どりで出てい」く様子を何気なく書き留め、この女が盗む女であることをはっきり語っている。しかし、なぜそういう女になったかの三十年間は語らない。せいぜいこうだろうと暗示させるだけである。
閏土は、どう語られているのか。
「わたし」は、四、五日してから閏土と再会する。「わたし」は「思わずアッと声が出かかった」。あの輝いていた「小英雄」の少年閏土は見る影もないほどに生気をなくし落ちぶれていたからである。
「来た客は閏土である。ひと目で閏土とわかったものの、その閏土は、わたしの記憶にある閏土とは似もつかなかった。背丈は倍ほどになり、昔のつやのいい丸顔は、今では黄ばんだ色に変わり、しかも深いしわがたたまれていた。目も、彼の父親が そうであったように、周りが赤くはれている。わたしは知っている。海辺で耕作する者は、一日じゅう潮風に吹かれるせいで、よくこうなる。頭には古ぼけた毛織りの帽子、身には薄手の綿入れ一枚、全身ぶるぶる震えている。紙包みと長いきせるを手に提げている。その手も、わたしの記憶にある血色のいい、まるまるした手ではなく、太い、節くれだった、しかもひび割れた、松の幹のような手である。」
変わり果てた閏土を見て、言葉をなくした「わたし」は、「ああ、閏ちゃん──よく来たね……。」といったのが精一杯であった。「わたし」はどうコメントしていいか言葉が見つからなかったのである。この「わたし」の狼狽した様子を閏土もまた見えたはずで、彼は彼なりにどう反応していいか迷ったのであり、語り手は閏土の様子を「彼は突っ立ったままだった。喜びと寂しさの色が顔に現れた。唇が動いたが、声にはならなかった」と述べ、「だんな様」との言葉を書き留めている。しかし、この閏土の言葉で、「わたし」は「身震いし」、「悲しむべき厚い壁が、二人の間を隔ててしまった」ことをはじめて自覚したのであった。「わたし」が閏土の言葉で、目が覚めたように地主階級と小作人という悲しい身分の壁を知ったというのはうかつであるが、そういううかつな「わたし」を語り手が語っている点を注意しておきたい。
この「隔絶」された空白の三十年間の前で、『故郷』の主人公「わたし」は、一種の失語状態に陥っていく。楊おばさんは「豆腐屋小町」といわれた娘が欲張りで嘘つきで平気で人のものを盗む癖があり、楽しみにしていた閏土は、寒々とした貧しさが全面に表れた男として「わたし」の前に現れ、その変貌した姿を「わたし」は〈言葉化〉出来なくなっていく。語り手はその様子を以後、語っていくのである。
二人は村の〈いま〉を象徴していた。かつて村はスイカなどの盗みに対しておおらかであり、古い習慣の中で封建的な秩序がゆるやかに回っていたようだ。それが、こうぎすぎすとなり、荒れているのはどうしてなのか。その原因、背景について、語り手〈わたし〉は閏土にこう語らせている。
「とてもとても。今では六番めの子も役に立ちますが、それでも追っつけません…… 世間は物騒だし……どっちを向いても金は取られほうだい、きまりもなにも……作柄 もよくございません。作った物を売りに行けば、何度も税金を取られて、元は切れる し、そうかといって売らなければ、腐らせるばかりで……。」
この閏土の言葉に対して、「わたし」は、こう思う。
「彼が出ていったあと、母とわたしとは彼の境遇を思ってため息をついた。子だくさ ん、凶作、重い税金、兵隊、匪賊、役人、地主、みんな寄ってたかって彼をいじめて、 デクノボーみたいな人間にしてしまったのだ」
「わたし」と母は、閏土の気の毒な話を聞くことで、みんなあげられるものは全部閏土にあげようと決める。しかし、閏土の希望した物は、後に「偶像崇拝」といわれる「香炉と燭台」のような品と、後は、最低限な仕事上の道具、品物であった。「わたし」は、閏土を「デクノボーみたいな人間」と捉えているが、果たしてそうなのか。秤や灰を所望しているところを見ると、閏土はまだ農事への意欲を少しも失っていないとみるべきではないだろうか。
閏土はその日一晩泊まり、次の日には帰っていった。次に来たのは「わたし」が帰る九日目であった。『故郷』はこの九日間のことについて詳しくは語らない。親戚への挨拶などが主な活動であったろうが、そこからも「わたし」はいろいろなものが見えたはずである。しかし、それらは一切、語られることはない。閏土との夜の会話も「わたし」の認識を根本的に揺さぶるものではなかった。
ここで、改めて確認しておきたいことは、二週間ほどの故郷への帰郷を通して、「わたし」が深い絶望感に陥っていることだろう。かつて記憶としてある故郷、それは輝いていた閏土少年との思い出とともにあったものだが、帰郷で目にしたのは、すべてのあまりの変貌であった。「わたし」は村を離れて二十年、閏土と別れて三十年の月日が流れているのに、〈「私」の中の村〉=〈閏土〉は昔のままであり、「わたし」はそのあまりの変貌を前にして、一種の失語状態に陥っていて、ここにきてやっと「わたし」は、事情が飲み込めたというわけである。「みんな寄ってたかって彼をいじめて、デクノボーみたいな人間にしてしまったのだ」と。実際、「わたし」は楊おばさんのさんざんな悪態にも返す言葉もみつからなかった。しかし、それにしても、この「わたし」の閏土=「デクノボーみたいな人間」という一面的な人間認識は、村を離れる当日になっても変わることがない。都会に帰る船の中、「暮れてゆく外の景色を眺め」ながら、別れた水生のことを考える宏児の寂しさを思いやりつつ、「わたし」と母は閏土のことを話し合う。母は、「楊おばさん」が灰の中に皿などを閏土が隠したと密告し、そのご褒美にと「犬じらし」を勝手に盗むように持ち帰ったことが語られるが、そして二人は閏土=泥棒説に落ち着いたようだが、その根拠など詳しく語られることはなく、空白なのだ。ただ、そんなことががさらりと語られているだけである。「わたし」は楊おばさんを「他の人のように、やけを起こしてのほうずに走る生活」、嘘を平気で言い、盗みも平気で行う自堕落な生活者として見ているが、閏土については、「子だくさん、凶作、重い税金、兵隊、匪賊、役人、地主」に苦しめられることで無気力で「デクノボーみたいな人間」になり、「心が麻痺する生活」者となっているというマイナスイメージには変わりはない。しかし、ここで、閏土が楊おばさんと同じように、盗みさえも行う男になってしまったという解釈は、果たしてどうなのであろうか。何でも持って行ってよいといわれれば、逆に最低限必要なものを要求するというのが人情で、まして昔は地主の息子だと言っても友達なのだから一層いいにくく、選別して必要最低限の品物を要求したと考えられ、だから、閏土は自尊心等もあって「わんや皿」を要求せず、灰の中に隠したのだという読みも成り立つだろう。しかし、村の人々は、閏土が灰を要求したのかどうかも知らなかったかもしれず、村の誰か(楊おばさんを含む)が隠しておいたとも考えられる。村の人々は隙があればなんでも盗んでいくと母は言っているのだから。したがって、閏土犯人説は、村の中にある閏土への差別のまなざしさえ感じられるのであり、私にはそういうわけで閏土=泥棒説をにわかに信じられないのだ。そもそも、閏土=泥棒というのであれば、閏土=デクノボー説は撤回しなければならないのではないか。無気力でデクノボーの男が、そもそも手の込んだ隠し方をするものかどうか。ここでは、最後の最後まで、閏土はこの親子には〈気の毒〉、〈かわいそう〉という同情心のレベルでしか認識されなかったのではないかと思う。語り手は、閏土が来て、一晩泊まった後、水生を泊めずに一緒に帰り、また旅立ちの日には水生を連れてこなかったことをも書き留めているが、ここでもこの語り手はそれ以上のことは語らない。ここには、自分とあって落胆した「わたし」の姿を見て、「隔絶」の中でまた深い惨めさに追い込まれるわが息子の未来の姿が想像され、それだけは避けたいという閏土の親としての配慮があったとも読める。「わたし」は閏土を「西瓜畑の銀の首輪の小英雄」かデクノボーかの極端な形でしかみていないが、現実の閏土は、「わたし」が捉えている像のはるか向こうで、心優しい心を持ちながらも中国の未来に対して深い冷めた絶望感を持ちながら生きていたといってよい。ただのデクノボーではなかった。ただ、「わたし」は、閏土」=デクノボーという他者像のもと農事への意欲を持つ閏土の側面などを含めて全くそんなことなど知る余地もなかったようだ。
さて、こうして、「わたし」は、船の中で、自分だけが「目に見えない壁」で隔離されている孤立感を深め、一人、孤独な「自分の道」を歩いているのだという絶望的な境地へと落ち込んでいくのであった。「わたし」の中で、かつて〈あった〉「西瓜畑の銀の首輪の小英雄の面影は、もとは鮮明このうえなかったのが、今では急にぼんやりしてしま」い、いよいよ孤独感を深めているのだ。この時、〈あった〉と思っていた故郷は、実在としてそこにあったのではなく、「わたし」の心、脳裏にイメージとして記憶されていたものにすぎなかったことも見えてくる。三十年前、「わたし」はこの囲われた「目に見えぬ高い壁」を階級差別の壁とも思わず、外、外部をあこがれ、閏土を「西瓜畑の銀の首輪の小英雄」と思いこみ、崇めていたのであった。その「小英雄」の向こうにある夜も寝ずに小動物に荒らされないように見張らなければならない生活の厳しさ、貧しさなど想像することさえなかったのだ。おもしろおかしく話す閏土の話術(「神秘の宝庫」)に幻惑されて、「わたし」は場面を幻想的、神秘的な風景として塗り込めてしまっていたのであった。その限りで言えば、「わたし」には昔も今も閏土の何も見えていなかったのだともいえよう。
しかし、今、ここで、「わたし」は、「わたし」の中にかつて〈あった〉「鮮明このうえなかった」「西瓜畑の銀の首輪の小英雄の面影」さえもが「今では急にぼんやりしてしまった」ことを「たまらなく悲しい」と述べ、唯一、記憶の中に〈あった〉「わたし」の中の「故郷」さえも喪失するという痛みの中で呻吟しているのであった。
「わたし」は「故郷」とかかわるすべてのものをここで失った。そして、この現世での〈つながり〉を失い、いわば宙づりされた「わたし」は、はじめてここで、次世代の子供である宏児と水生とが「互いに隔絶することのないよう」期待し、祈るのだ。実はもう閏土はそんなことの限界はとっくにみえていたのにである。若い二人が「隔絶する」ことがない方策として、最低限、「一つ心でいたいがために、わたしのように、無駄の積み重ねで魂をすり減らす生活」をしないこと、また閏土のように、「心がまひする生活」を送ってはならないこと、そしてさらには、楊おばさんのように、「やけを起こしてのほうずに走る生活」などしてはならないと考える。「わたし」は、次世代の子供達がしてはならないその「生活」の向こうに、「わたしたちの経験しなかった新しい生活」が始まることを予想し、期待し、「希望」したのである。それは、「わたし」の一種の救いに近い祈りであった。
それにしても、「一つ心でいたいがために、わたしのように、無駄の積み重ねで魂をすり減らす生活」とか、閏土のような「心がまひする生活」とか、楊おばさんのように「やけを起こしてのほうずに走る生活」とかを語り、そこからの脱出を期待したこのもの言いは、実は多義的で何を言っているのか正直よくわからないのだ。特に、「わたし」の生活とは何なのか。「一つ心でいたいがために」に重きを置けば、「わたし」が階級対立の和解、あるいは緩和を目指して折衷主義的な政治活動を展開してきたようにも読めるし、知識人的な観念生活とも読めるだろう。また、閏土の生活を封建的な生活、楊おばさんの生活を資本主義的な欲望生活と置き換えて読み取ることができる。プレ・モダン、モダン、ポスト・モダン等々の意味の貼り付けを行うこともできる。いずれも間違っているとは思えないが、しかし、それは魯迅と魯迅の生きた時代からの意味の貼り付けではないかという印象を免れない。やはり、原則的には、語り手の語りを通して、「わたし」のことも閏土のことも、楊おばさんのことも考えてみるべきであろう。「わたし」は閏土をデクノボーというだけで、灰さえもほしいという生活の苦しみと、しかしその中でも生きようとしている姿が見えなかったし、同じ事は楊おばさんについてもいえるだろう。平気で嘘をいい、盗む野放図さの向こうに、「豆腐屋小町」では生きられなかった「三十年間」があっただろう。「わたし」は、「・・・のような生活」を列記し、そこからの脱出をただ期待、希望しているだけなのではないかという気もする。たしかに、「わたし」は、プレ・モダン、モダン、ポスト・モダン、あるいは新生中国の革命を予感させる「新しい生活」に入る必要性を語っている。しかし、その内実は、かなりおおざっぱな民衆理解のもとで語っていたといえようか。
それでは、『故郷』の語り手〈わたし〉は、新生中国の革命のこの予感をたとえおおざっぱにしても語ること自体に力を注いできたのであろうか。もちろん、そうではなく、魯迅の『故郷』はここから「わたし」の奇跡のような物語が語られるのである。なるほど、語り手の〈わたし〉は「わたし」の中に起きた奇跡のような物語についてここでも事細かく語ることはない。
『故郷』の終末部、次のように語られている。
「希望という考えが浮かんだので、わたしはどきっとした。たしか閏土が香炉と燭台 を所望した時、わたしはあい変わらずの偶像崇拝だな、いつになったら忘れるつもり かと、心ひそかに彼のことを笑ったものだが、今わたしのいう希望も、やはり手製の偶像にすぎぬのではないか。ただ彼の望むものはすぐ手に入り、わたしの望むものは 手に入りにくいだけだ。」
「新しい生活」を期待する「わたし」のまなざしと、閏土が「香炉と燭台」という〈物〉自体に古い伝統的な祖先崇拝による心の安らぎ、平安を求めるまなざしと同じではないかと思い、「どきっとした」というのである。(注2)これまで、「わたし」は、「わたし」のまなざしに優位感を持っていた。「わたし」は、閏土のまなざしは「あい変わらずの偶像崇拝」で「いつになったら忘れるつもりか」とその古さを笑っていたのである。しかし、「希望」が「すぐ手に入」るか「入りにくい」かという多少の差異はあるにしても、〈ある〉か〈ない〉かも確定できないものをあたかも〈ある〉ものとして崇拝し、絶対化しているという点では大差がないことを「わたし」ははじめて自覚したのであった。しかし、これにはもう少し説明が必要であろう。「わたし」は、世界との〈つながり〉を失うことで、逆に、祈るようにして次世代への希望を持った。この場合、希望は救いであり、それは疑う余地のない絶対的で崇高なもの、すなわち「わたし」のつくった「手製の偶像」であった。閏土がどうすることもできない日常から脱出するべく救いとして「香炉と燭台」に一部の一縷の救いを求めたように、「わたし」もあらゆるものと孤絶することでそこから救われようと、弱さから、若い世代への「希望」という「手製の偶像」にすがったのだ。「わたし」は、みんなから孤絶するという立場になってはじめてある物、ある出来事、ある観念を「偶像」化し、「崇拝」しなければ生きていけない〈人間の弱さ〉や哀しみ、苦しさがやっと見えはじめたのであった。もはやここでは、「わたし」のあの閏土=「デクノボー」という単純な認識は更新され、あの閏土への根拠のない優位性も崩れたのであった。「偶像」を「崇拝」しなければとても生きていけない本当の意味での〈人間の悲しさ〉のレベルで閏土の問題(〈閏土の絶望〉)は捉え返されたばかりか、〈ある〉か〈ない〉かも確定できないものを〈ある〉ものとして崇拝し、絶対化するという人間の心、精神、思考のもろさ、弱さもまた再認識されたのであった。もちろん、これらのことは語り手〈わたし〉が細かく具体的に語っているわけではない。ただ、読者は、語り手の語った語りの内容を通して語られていない領域(空白)をこのように読み取ることができるということである。
ここで、魯迅が、第一小説集『吶喊』(1923・8)に納めた「原序」(井上紅梅訳)
の中で、書くことの困難性について述べている点を想起しておきたい。魯迅は、「たとえば一間の鉄部屋があって、どこにも窓がなく、どうしても壊すことが出来ないで、内に大勢熟睡しているとすると、久しからずして皆悶死するだろうが、彼等は昏睡から死滅に入って死の悲哀を感じない。現在君が大声あげて喚び起すと、目の覚めかかった幾人は驚き立つであろうが、この不幸なる少数者は救い戻しようのない臨終の苦しみを受けるのである。君はそれでも彼等を起し得たと思うのか」と問うて、書くことの倫理に迫っている。魯迅は、ここで、たとえ、「臨終の苦しみ」を与える側面があるとしても、まず「鉄部屋」を壊して開けることこそ「希望」であり、先決だという友人の論理を受け入れ、〈書く行為〉を選択したようだ。魯迅は、若い頃、義憤、「慷慨激越」、人々からの疎遠による「寂寥」感、などから逃げるように「古碑を書き写し」て生き伸びていたという。しかし、ここにきて、友人の論理を受け入れ、「鉄部屋」を壊して開ける行為の一つとして〈書く行為〉へと転換したのであった。
ところで、『故郷』の語り手〈わたし〉の語りの中心は、「鉄部屋」を壊して開ける「希望」の方へシフトした「わたし」の「無駄の積み重ねで魂をすり減らす生活」そのものの現状報告のようなものであった。それは、語れば語るほど、「わたし」の「鉄部屋」を壊して開ける行為の無惨さを示すものとなっている。語り手が語れば語るほど、閏土との距離は深まり、決定的なものとなっていく構造となっている。そして、皮肉にも、語り手〈わたし〉によって「わたし」の現状が報告されればされるほど、「鉄部屋」を壊して開ける行為の善し悪しや、「希望」そのものの〈ある〉〈ない〉の問題を超えて、「希望」を云々する精神、思考そのものの偶像崇拝性の問題が顕在化し、テクストはこの偶像崇拝的な精神・思考の堕落性の告発から、やがて民族の自力更生、自主・自立の必要性を説くテクストへと転換していくのであった。むろん、そんな領域まで、この『故郷』の語り手〈わたし〉はカバーしていたわけではない。語ることで、読者にそういうテクストの読み取りを可能にしているのである。
「わたし」の閏土=「デクノボー」と、閏土の「わたし」=「だんな様」という言葉は、「わたし」と閏土の関係を一種のフリーズ状態にするものであった。たしかに、この二つの言葉の構図は、国内の停滞して動かない〈地主ーー小作〉の階級関係を暗示しているだろう。そしてこの状況を流動化するためには、二つの言葉を超える新しい言葉の獲得が不可欠であった。しかし、それは、「わたし」が「希望」した次世代による「新しい生活」の実践によって〈超える〉ことができるものなのかどうか。そんなことよりも、何よりも、閏土にしても、「わたし」にしても、ある物、ある出来事、ある観念を「偶像」化し、「崇拝」しているその人任せ性を何とかしなければ立ちゆかないほどそれほど中国の状況は絶望的なのであった。語り手〈わたし〉は、「希望」という言葉のはらむ人任せ性を感受し、そこから中国の〈今〉という状況のもとでの偶像崇拝の問題性を「わたし」に読み取らせたのである。「今わたしのいう希望も、手製の偶像にすぎぬ」と認識を深化させたのであった。反「偶像崇拝」という新しい言葉の浮上である。このとき、二人は、以前として国内の階級関係の呪縛の中にあるのだが、知識人と農民という対立あるいは優劣の構図を超えて、同じ中国で生きる人間同士という新しいレベルでの横の〈つながり〉を持つことができたのであった。もちろん、「わたし」は「わたし」の事情があり、また閏土は閏土の事情の中で、この受け身的で、偶像崇拝的な心、精神、思考の虜となっていたのであるが、ここにきて、やっと「だんな様」と「デクノボー」という縦の「厚い壁
」(構図)は溶け始めたのであった。「新しい生活」の実践という社会的、階級的な問題(「手製の偶像」)のレベルを超えて、「わたし」も「閏土」も宏児も水生も、母も楊おばさんも、中国人すべての人間が、何かを偶像崇拝するのではなく、自立し、自力更生することこそ大切なのだという民族としての共通の変革・解放課題(鍵)をつかみ取ったのであった。いわゆる魯迅の「原序」にならって言えば、鉄部屋(〈絶望〉の「壁」)が解き放たれ始めたのである。
『故郷』は、「わたし」の中で起きたこの思考のコペルニクス的転回のドラマをこそ語りかけているテクストであった。その時、「わたし」の中にあった故郷の幻想的な光景は中国の《原郷》と化して再び輝きはじめたのであった。(注3)
「まどろみかけたわたしの目に、海辺の広い緑の砂地が浮かんでくる。その上の紺碧 の空には、金色の丸い月がかかっている。思うに希望とは、もともとあるものとも言 えぬし、ないものとも言えない。それは地上の道のようなものである。もともと地上 には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。
「わたし」が見ているこの風景はもちろん地上には〈ありもしない〉ものである。ただ、「わたし」は故郷を喪失しながらも、〈ある〉か〈ない〉かもわからないものを絶対化し、崇拝し、信仰するという観念的な、偶像崇拝的な精神・思考の堕落、あるいはその弱さから解放されることで、一時、消えかかった閏土とも新しくつながること(=「地上の道」)ができたのである。
『故郷』は、誰か他人を元気づけるテクストとして書かれたのではない。『故郷』は「地上の道」への通路を一度は完全に見失った「わたし」が船の中で、中国人全体が課題として背負う精神・思考の奴隷性、堕落性からのコペルニクス的転回の必要性を発見することで、やっと「無駄の積み重ねで魂をすり減らす生活」から抜け出て、閏土とその向こうにいる無数の中国の人々との〈つながり〉を、観念や思いこみではなく、現実の地平で持ち始めるといった故郷への旅として語られていたのであった。
魯迅の『故郷』は、語り手〈わたし〉による「わたし」の故郷喪失の物語であるとともに、「わたし」の奇跡に近い再再生の物語であった。これが、地上の〈いま〉の現実の世界から〈地上の道〉つくりをしていくことこそ「希望」なのだという最終フレーズの力強い明るさの内実であった。
注1 この点については、筆者は、同人雑誌『試想』等において何度も述べている。
・「自我の複数性と近代文学史の転換」(『試想』創刊号 平13・10 「試想」の会)
・「意識の劇から関係の劇へ」(『社会文学』第18号 平15・1 日本社会文学会)
・「関係の劇を読むとはどういうことか」(『試想』第2号 平15・2 「試想」の会)
・「ファシズムと文学ーー〈いま・ここ〉の豊かな関係性の構築をめざして」(『試想』第3号 平16・8 「試想」の会)
・「新しい読みの技法ーー二項対立的思考から多項選択的思考へ」(『試想』第4号 平17・11 「試想」の会)
・「漱石・鴎外そして文学研究ーーポストモダンへの道」(『試想』第5号 平19・3 「試想」の会)
・「文学的価値=〈関係の豊かさ〉」論覚書ーー読みをめぐる原則的問いかけーー」 (『試想』第7号 平21・7「試想」の会)
要約すると、「テクストは、一般に簡単には語られない、わからない部分すなわち空白を抱えている」こと、テクストを読むとは、この空白を読むということであり「行間を読む」ということの意味であること、そして、この「再造された〈テクスト〉すなわち読み手によって〈自己化されたテクスト〉は、正解とは無縁であり、繰り返し再読されることで無限の変貌をとげていくことになる」こと、テクストの価値とは、この「再造された〈テクスト〉」の中で意識ではなく、作り出された〈関係の豊かさ〉によって評価されなければならないこと、さらに、そこでは「正解」はなく、「どのような角度、視点から見た時、〈テクスト〉の構造はこう見える」と公開、討論するか、歴史の審判にゆだねるほかなく、あくまでもテクストの構造の中にその客観性、普遍性の根拠をもとめてはならないことなどを筆者は基本的なスタンスとしている。
注2 井上紅梅訳では、「わたしはそう思うとたちまち羞しくなった」とある。
注3 井上紅梅訳「深藍色(はなだいろ)の大空」、竹内好訳「紺碧の空」との訳語がある。田中氏は、昼と夜が併存する「パラレルワールド」と捉えているが、夜の一光景で矛盾はないように思う。日本の三千メートル級の山でこうした光景をよく目にすることがある。
付記 『故郷』の引用は、竹内好訳版である。 2013/04/19 中国福州