今度、宮崎出版文化賞特別賞を受賞した「阿万鯱人作品集」(2分冊全四巻鉱脈社)の阿万鯱人のことについて、これもこの巻の付録として書いた文章を転載する形でみんなに紹介しておきます。結論的には、私はこの作家をもう少し日本の戦後文学史の中にちゃんと位置づけたいと考えています。
阿万鯱人と「新しき村」
私ごとを述べて恐縮だが、私は平成12年の秋、宮崎大学に赴任した。赴任してまず行ったのは、「新しき村」と都井岬であった。武者小路実篤の「新しき村」は専門に研究している流域とも重なるところがあり、来る前から興味があったためで、都井岬は高校の授業の教材として扱ったことがあり、印象に残っていたからである。高鍋から狭い道を車で通り、途中の峠の展望台から「新しき村」を見たときの感動は今も忘れることができない。まさに桃源郷という感じであった。ただ、同時に、水をどう引くかが難しい地形なのでここでは米は作れないだろうなとふと考えたりした。武者小路たちが農業に適しているかどうかよりもともかくこの景色が気に入り、決めたにちがいないと思ったりした。
ところで、阿万鯱人という作家の存在を身近に感じたのは、恥ずかしいことだが、宮崎にきてからである。 大津山国夫『武者小路実篤研究ーー実篤と新しき村』(平成9・10、明治書院)、奥脇賢三『検証 「新しき村」』(平成10・5、農村漁村文化協会)などとともに、阿万鯱人氏の『一人でもやっぱり村であるーー杉山正雄と日向新しき村』(昭和60・8、鉱脈社)を知っていたはずであるが、なかなかユニークな視点からの「新しき村」研究だなという程度の認識であったと思う。しかし、赴任してから、氏の『アンデルセン盆地』を英語教育講座の岡林稔先生から紹介していただき読んでからは、この作家への認識が一変した。こんなすごい書き手がいるのに今まで自分はどうしていたのだろうという暗澹たる気持ちになった。この気持ちは今でもあり、宮崎にかき゛らずたまたま読む機会がないため、あまり高い評価を受けることもなく、そのままになっている作家や作品はあるにちがいない、有名になり文学史に載っていたりするのはごくごく恵まれた作家や作品にすぎないのだという思いへとつながっている。
阿万鯱人氏の『アンデルセン盆地』は、敗戦後の宮崎の農村が舞台となった作品で、都会にあこがれつつも、自分の住んでいる〈いま・ここ〉の世界を「アンデルセン盆地」として輝かしいものにしようとして揺れ動く青春の群像を描いたものである。戦後の一時期を描いた小説と言えば、インテリの転向体験や傍観者的な戦争体験でとぐろをまく小説が多いが、ここでは、そういう観念的な青春とは全く無縁な、今、自分の住んでいる〈場〉=足下から何かをしようという地に足がついた青春像が描かれている。そして、この小説を読むことで、どうして氏が「新しき村」、特に〈杉山正雄〉にこだわったのかの理由が少しわかってきたのである。
阿万鯱人氏の『一人でもやっぱり村である』は、武者小路実篤の元妻房子の夫として生きた一人の男の誠実な人生の記録でもある。それは、一カ所に根を張り続けた、あるいははり続けることを宿命づけられた男へのバラードという印象を受けるが、私には阿万鯱人と 杉山正雄とが重なって見える。『アンデルセン盆地』との関係でそう思うのかもしれないが、私にはそう見えるのである。 阿万氏と「新しき村」との関係はかなり古いようだ。一九四七(昭和22)年に初めて訪れ、それ以後、生涯続いている。氏は「新しき村」への関心について、「未来豊かな一人の旧制高校生が、武者小路実篤の『新しき村』建設に感動し、学業を投げ打って以後その生涯を『村』とともに終わろうとしている・・・すべてが流動していたあの大正期の、情念的なといっていいのか、夢想的なというのか・・・自分を駆って憑かれたように没入していったそのことに、わたしはただ理屈抜きに引かれたのだ、というほかない」と語っている。みんなが時流に乗って自分の出世とか名誉を求めて都会へと飛んでいく時、そこへと飛ぶことなく、むしろ逆の価値観、生き方の中で生きようとしたモノへの哀惜がそこにはあったからと言えそうである。阿万氏は無骨とも言えるその生き方の典型を杉山正雄の中に見ていたのではないか。そしてそうした杉山正雄を見続けることは同時に 阿万鯱人という自分を自己確認することでもあったのではないか。
阿万氏は、『一人でもやっぱり村である』において、杉山正雄についてかなり詳しく調査し、その経歴、足跡について書き留めているので、ここで紹介することはしないが、杉山正雄が入村したのは、1922(大正11)年である。ただ、まもなく、武者小路の妻房子と恋いに落ち、一時、村を出て、正式に二人が結婚するのは一九三二(昭和7)年で、二人がまた日向「新しき村」に戻るのは昭和十二年頃である。村は昭和13年、ダム工事に絡み、翌年には埼玉の毛呂山に移住し、十五年には杉山夫婦だけになった。二人は戦争の時期を挟んでこの西の「新しき村」を支えたのであった。村に立ち戻った杉山正雄は「僕も「新しき村」に根を深くおろしたい。村の人間になりきりたい」と『新しき村通信 第128号』に書いているという。杉山は一九八三(昭和58)年、八十歳でこの世を去るが、この初志を貫いたのであった。 阿万鯱人氏がこの村に訪れたのは、一九四七(昭和22)年で、それ以後ずっと夫妻と交流している。本書はそれにもとずく書である。「新しき村」研究といっても、実際は初期に集中していて、とくに戦後の西の「新しき村」研究は手薄だという印象は免れない。その空白を埋めているのが、この『一人でもやっぱり村である』である。しかし、本書の研究上の意義はさておき、この書でもっとも印象に残る場面は、「下の章」の、武者小路が昭和二十五年六月、「新しき村」を訪れた際の房子夫人の攻撃の場面であろう。
「ーー杉山をこのまま生涯ここで生活させるおつもりなのですか?と切り出す。 ーーあなたさまは八年ぽっきりいらして、なんの未練も無げに皆といっしょに『村』を見捨てておいきになってしまわれたけど・・・昨日耕地のあたりにお立ちになって「寂れたな」とぽつんとお言いになりました。/わたしどもをお責めになるつもりでお使いになった言葉でないことは重々わかっておりますけど・・・それでも房子かなしゅうございました・・・日がな一日杉山は畑のあいだを駆けずりまわって荒れないよう努力しているんですもの・・・それなのに杉山の前であんな無神経な言い方なさるんですから・・・。/あたしは仕方ないと思っておりますけど、ええ、そうです。けれど・・・あなたさまのユートピア論を聞いて『村』にとび込んだ杉山が可哀相でございます。」
ここには杉山正雄に悪いことをしたという房子夫人の悔恨の気持ちがあふれている。しかし、阿万氏は、こういう房子像を描くとともに、房子夫人のいう〈可哀相〉な、一女性への犠牲的な生涯を送ったといった何となく哀れっぽい人物とは無縁な、自分の人生に誇りを持ち、充足した人生を生きた〈杉山正雄〉を本書で語っている。阿万氏は、「『村』を生きぬくことと、房子というひとりの『女』を守るということは、杉山正雄の場合同じ重さと意味を持っている」と指摘し、杉山正雄という男は房子を大切にするという「師への盟約」をひたすら守って生きていたのであり、そこには大筋において迷いはなかったのだと説いている。氏は、戦争期の一時期、師武者小路の理想主義への疑念を瞬間的感じたかもしれないが、概ね何の後悔も不満もなく、師の教えのまま生涯を全うした杉山正雄という男を描いている。「貧乏でも自然のままに生き安心立命の境地に自分を置きたい」と願った男を描いたのである。そしてこの杉山像は、戦後の宮崎という地で、出世や名誉を求めて都会へと飛ぶような青春とは異質な、いわば〈いま・ここ〉の世界を「アンデルセン盆地」とするもう一つの人生を堂々と生き、また作品を書き続けた作家阿万鯱人にそのまま私の場合、繋がっていくのである。
阿万鯱人氏には、『歴程』のメンバーが企画した 『アンデルセン盆地』を訪ねる文学散歩の時、お会いすることができた。大変品のいい老作家という感じで、もう今はなくなられた江戸文学研究者の広末保や戦後文学の本多秋五に似ているなあと思った。しかし、その作家阿万鯱人とももう会うことはできない。たくさんお聞きしようと思っていたので、残念でならない。(「阿万鯱人作品集」 分冊第2 4巻付録 2008・10、鉱脈社)
私のこの作家への思いは最後のところにあり、残念でならない。彼の文学が生成した村は、今も周りを山で囲まれて一種の盆地のようなたたずまいをうしなっていない。この近くに温泉センターがあり、私はいつもいくが、通るたびにこの作家と一緒に村を文学散歩した思い出が去来する。2009・3・10
前田 角藏
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