最近、映画「ヴィヨンの妻」を見ました。原作をふまえたいい映画ですが、松 たか子演じる「椿屋のさっちゃん」像には少しばかり違和感を持ちました。こういう「椿屋のさっちゃん」=聖母像はこれまで解釈としてはありますが、本当に太宰はそんな男にとって都合のいい女をこの作品で描きたかったのかといえば、私にはそう思えないのです。
もともと、「さっちゃん」は自堕落で、酒飲みで、一ヶ月に一回くらいしか家に帰ってこない華族で詩人の大谷をひたすら待つ女でした。しかし、大谷が飲み屋の椿屋から5千円持ち逃げすることで、しだいにその責任を分担するということになり、家から外部、外へと出て行くことになります。多額の借金の肩代わりとして椿屋で働くことになります。障害を抱える子供とくらい借家でひたすら待つ女でしかなかった「さっちゃん」は「「椿屋のさっちゃん」として生き始めることになります。そうすることで、これまでみえなかった大谷がしだいに見えるようになります。大谷は目の前の欲望を抑えられない坊やで、5千円持ち逃げ事件もクリスマスの夜、京橋のバーにいってみんなにこれお祝いだよ、プレゼントとやってみたかったからでした。大谷はラストで妻「さっちゃん」にあの金は、君と坊やのためにとったのだよと嘘をつきます。「さっちゃん」はすでに嘘だとしっており、大谷がどんな人間かは見えています。多くの女はこの子供をかわいがる母を演じることでみんなぼろほろになっていきますが、「さっちゃん」だけは、そこから自立し、障害のある坊やを抱えて生きようとします。それが、「人非人でもいいのよ。わたしたちは生きていさえすればいいのよ」という決意の言葉になります。思えば「さっちゃん」はこれまでの人生でマイナスのカードばかりひいてきた女性です。しまいには大谷を慕う若い男に暴行されてしまいます。「さっちゃん」はどうか、神様、出てきてくださいと祈るしかない女でした。大谷のおびえる神とは異質です。裁く神ではなく救う神です。マイナスをひきつづけたらプラスになるようなそんなカードってないかしらと祈るほど「さっちゃん」は不幸でした。むろんそんな神もカードもあるはずはなく、だから生きることが救いという境地へとたどりつくわけです。こうして、「さっちゃん」は、ようやくだめな旦那から自立する女へとかわり始めます。ですから作品はとても明るい形で終わっています。
余談ですが、作品「ヴィヨンの妻」の怖さは、幼児性から抜けることができず女に犠牲をしいるほかない大谷の姿が「さっちゃん」の目を通して作者に見えたところにこそあるような気がします。死ぬしかどうすることもできない自我を持つ自分が、大谷の姿を通して作者太宰に見えてしまったこと、これが悲劇ですね。書いた作品が実生活の作者太宰治を責めるかたちになってしまったところに、この作品の恐ろしさがあり、私が演出すれば、そんなわけで幼児性を抱えた男にさようならをいう女を描くことになりますね。そうなると売れないということになるわけですが。(2009年10月 前田角藏)