ところでこれまで様々な人の死を見送ってきましたが、16歳の少年というのは初めてでした。棺のなかで横たわる彼の顔を見ていると、やはりその子の運命について容易に納得できないものが残ります。お母さんと二人暮らしで、お母さんこそあまりの突然のことに僕以上に納得のいかないものを抱えておられ、そしてこれからそのような想いを抱えていかれることと思います。
人の死に巡り会うと、いつもそこには納得しようとしても納得しがたい〈なにか〉が残ります。
死という出来事は絶対性をもっています。どのような最期を迎えるかは全く予測がつきませんし、その最期は生き残った者にとって容易に納得できない場合もあるでしょう。またそれ自体、世界観を揺るがしたり、〈関係〉を必要として生きる人間にとっては関係(小さな家族から共同体までの、精神的な部分だけでなく秩序さえも)を毀損する出来事であるわけです。だからそこから再び家族なりが共同体のリズムに復帰するためには〈喪〉という長くゆっくりした期間が必要だったのだと思います。
死というものが残された人間の心や関係に与える影響ははかりしれません。だからこそ戦争を遂行する近代国家にとて、死をめぐる問題は、権力にとって管理統制すべき重要な問題だったということだと思います。
この数十年の日本の資本主義の繁栄は、容易に世界の裂け目をみせることがなくなりました。したがって資本のイデオロギーだけを信仰していれば生きていくことに不都合はなくなったわけです。それまであった人間と自然との関係、営みは、文明のもとに自然を管理、商品化することで、私たちの目の前から自然の持つ予測不可能性を排除していきました。死はたんに生命活動の停止という現象でしかなくなってしまい、死は病院から葬儀会場、そして火葬場へと自動的に流れるベルトコンベアーのように消費される出来事になり、死を受けとめ納得していく家族の想いとは無縁な、そして共同体とも無縁なものになってしまいました。このように資本のリズムは人間の自然な営みを無視し、〈喪〉などという精神的な意味で遺族が共同体に復帰するゆっくりとした自然な時間を許してくれません。遺族はあっというまに日常のなかに復帰しなければなりません。
前近代の思想や秩序を人間は非科学的だと排除したのですが、しかしむしろ前近代の方が人間の自然に即した部分があり、人間に忠実で、人間の自然を無視し管理統制するようになった近代こそ〈非人間的〉なのかもしれません。資本主義社会というものは、人間のなかに大変なひずみを生み出しているのではないかと思います。
久々の投稿ですが、あまり明るくない話ですみません。なんか内山節っぽい文章ですね。(高口)
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