久しぶりに書きます。夏休みに書けると思っていたら、今年の夏の気候はおかしかったですね。夏バテでなにもできませんでした。
前田先生の芥川批判を受けて芥川龍之介をめぐる文学教育、文学研究について思うことを書いてみたいと思います。「試想」5号に書いた「羅生門」論も授業の現場で「羅生門」について批判的に思い始めたことに端を発して、前田先生の「羅生門」論に刺激を受けながら、そこから芥川批判に至ったものでした。これを書いているとき、芥川について象徴的に表れているように、現在の文学研究にしても教育にしても大変異常な状態にあるなと思いました。
前回私はテクスト論は日本の文学研究では異端だ、と書きました。そんなことを書いたのも、「テクストの読みは多様だ」「読みは十人十色」だという言葉をよく聞きますが、その「多様な読み」というのは、そのテクストに対して批判的な読みを含めての「多様さ」であるはずです。ところが文学研究や文学教育の分野で、芥川についての批判的な発言はほとんどお目にかかりません。「芥川の作品がダメだと思うなら無視すればいいし、そこに意味を見出すものだけが発言すればいいじゃないか」という人がいるかもしれません。しかしマイナーな作家ならそれでいいと思うのですが、芥川龍之介は事情が全く異なります。なによりも「羅生門」を日本全国のほとんどの高校生が読まされるように、「芥川龍之介」は一部の研究者が独占していいような作家とは違います。
だからこそ「羅生門」にしろ芥川龍之介にしろ、自由に議論することが必要だし、むしろ教育や学問の場こそ、特定の作品や作家が特権化していく事態に対して健全な批判精神が発動されなければならないはずだと思うのです。
しかし芥川についても「羅生門」についても、自由に議論するような場はありません。あたかも芥川龍之介が文豪で、「羅生門」が名作であることは自明のことであるかのような雰囲気が支配して、批判的な言説はほとんど見あたりません。(特に文学教育の領域では、文学は無前提に「いいものだ」という文学至上主義が支配的な感じで、教材化される作品をめぐって議論する自由はもっと狭められます。)
前田先生が「鼻」で指摘するように、私も芥川の感性は非常に差別的だと思います。それは吉本隆明が指摘したように出自への劣等感への裏返しとして、出自を消してひたすら上昇しなければならないという衝動があったからでしょう。(この問題点については、私も具体的に作品をあげて書いていきたいと思っています。)そう言う意味で「羅生門」は文明主義者?芥川の「普遍信仰」という差別意識がもっとも明瞭に表れた作品だと言えます。
なぜそれが研究者・教育者に感じられないのか。その先は書きませんが、そこが現在の知の状況の抱えている大きな問題でしょう。哲学の大原則が「懐疑する」ということであるとすれば、現在の研究者なり教育者に一番欠如しているものは哲学だと思います。作品評価、作家の評価など、時代や状況が変われば変わってしまうものです。ですから状況に迎合するという意味ではなく、その状況に対して個々の作家、作品がどういう批評性を持つのか、それは状況との対話のなかでたえず検証されどんどん読み変えられねばならないと思います。
しかし研究者・教育者ともに自己の認識の特権性を疑うことはありません。問題は、そのために文学の研究状況や教育状況と現実との乖離は拡大していきます。「蟹工船」ブームはジャーナリズムがつくり出した側面は大きいものの、政治の問題を切り捨ててきた文学研究はこの状況に沈黙するしかありません。
授業の現場で、「羅生門」の下人に「自己解放の叫び」(関口安義氏)など言っても共感する生徒はいなくなっていました。その後、ポストモダニズムが隆盛の頃、「読みの多義性」なんていって、どう読むのも自由だなんて、読みに責任をもたないごまかしの指導書がしばらくは幅をきかせてきました。しかし「蟹工船」がブームになるような現在の不穏な状況をみると、リストラされた下人が生きるために自分の暴力性に目覚めるという物語は「自己解放の叫び」として再び読み返され評価される可能性もあるなと思うのです。でも「自己解放の叫び」がダメなのは、下人は「自己解放」の物語を獲得するために、より弱者である老婆を踏みつけにしているからです。そしてそのことに「羅生門」の語り手は気付くことがありません。
差別・抑圧される人々が差別される屈辱から逃れるために、より弱者を差別・抑圧するということは人間世界の至る所にみられる現象です。そのような構造的な差別・抑圧を問題化するどころか、芥川は弱者を抑圧する下人の視点に同調したのです。(それは「芥川」ではなく「語り手」だと言う人がいるかもしれませんが、その語りを相対化する視点はこの作品にはありません。)そういう問題を抱えている芥川のテクストを「懐疑」しないことは大変な問題があるのではないでしょうか。
「羅生門」は研究者や教育者、教科書会社の欲望の生み出した正典だと私は思っています。日本のカルチュラル・スタディーズ研究者など、体制に批判的なスタンスを持とうと思っている研究者、教育者は、ここにこそ切り込まねばならないはずです。それなのに、この事態を看過しているのは不思議なことです。(これは心ある芥川研究者なら、芥川が権威化される事態に批判的であらねばならないだろうという意味も含めてです。) (高口)