「で、ここで問題なのは、このクソガキの「ホームレスなんか犬や猫と一緒」だから「殺してもいい」っていう理屈だ。この理屈からも分かるように、このクソガキは、ホームレスに暴行を始めるまでは、ずっと犬や猫を殺し続けて来たそうだ。(略)中学時代の同級生の証言によると、(略)毎日のように野良猫を殺し続けるので、何度も注意したそうだけど、本人は「野良猫なんか世の中のゴミだ」「オレが街をキレイにしてやってんだ」って言って、聞く耳を持たなかったそうだ。/同級生の話によると、このクソガキは、中学時代だけでも100匹以上の猫を殺していて、それは、中学を卒業してからも続いて行ったそうだ。そして、それが、どんどんエスカレートして行き、とうとう人間に対しても暴行や殺人未遂を犯すようになって行ったんだと思う。」
読む人が構えないように「生き物を大切にしよう」なんてふざけた題をつけたのがそもそも失敗だったようで、まずかったですね。実は僕の意図したことは逆で、きっこさんのような発想の人を批判しようとしたのです。(もちろんタイル工の少年も悪いですよ)そこで僕が前回のブログで考えたことを整理しなおして述べてみたいと思います。
わかりやすく、僕ときっこさんとの一番大きな違いから述べます。ここで筆者のきっこさんはタイル工の少年をものすごく感情的な言葉で糾弾罵倒していますが、きっこさんは自分とタイル工とを同じ人間とは見ていないことが問題だと思います。タイル工の少年の心の闇の問題はここでは置いといて、僕から見ればタイル工の少年もきっこさんも、そしてもしかすると僕も同じなんですよ。どういうことかといえば、二人はどちらも、自分を「正常」の側に置いて、かたやホームレスを、かたやタイル工を「異常」の側に追いやって、「異常」を糾弾することで自分が「正常」であることを確認しているという強固な二項対立的発想を持っているんです。きっこさんは自分が「正常」、もしくは「正義」の側にあるという絶対的な確信があるから、あれほど慎重さを欠いた感情的かつ暴力的な言葉で少年を一方的に糾弾罵倒できるので、彼女にとっては爽快かもしれないけど、それは僕に言わせれば、きっこさんのやっていることは、「このクソガキの「ホームレスなんか犬や猫と一緒」だから「殺してもいい」っていう理屈」と大して変わらない暴力なんです。このように人間の怖いところは自分を絶対的正義、正常の側に置いたとき、「異常」な他者に対して無制限に暴力を振るえると思ってしまうことで(アメリカがそうですよね)、そういう「正常」な人間の、自己の暴力性に対する自意識の欠落こそが問題だということを言いたかったのです。
だけどきっこさんの中に、私は犬猫を簡単に殺したりするような人間ではない、ましてや人間だなんて、という思いがあることはわかります。でも毎日の食事で僕らは動物の肉を食べるために膨大な数の動物を殺しているし、しかもそれらを残飯として大量廃棄したりもする。鳥インフルエンザが起これば健康な鳥も「処分」されるし、捨てられた犬や猫も捕まって五日後には「処分」されてしまいます。そのような僕らの意識とは無関係に構造的な暴力を内部に持つことによって僕らの「正常」な社会は維持されているんですね。
そして僕らはそれを日常生活の場から遮蔽し見ないことで「正常」な世界を作り上げています。(これを「第三項排除」と言ったと思います)それは自分で直接手を染めなければ、「正常」な生活が維持されるのであるならば、見えないところで何が行われていてもかまわないということでもあります。それは自分が兵士になるのでなければ戦争をしてもかまわないというエゴイズムと通底しています。だからホロコーストは容易に起こりうる可能性があると思うのです。「正常」という観念や世界は非常に欺瞞的で、またとてつもなく暴力的だと言えます。
前回書いたように、前近代では、人間の生活のなかに暴力は目を背けることのできないものとして存在していたわけです。だから昔の人は食べるために生き物を殺すというときに、罪の意識を抱えざるを得なかったのでしょう。罪の意識を抱えた人間は、自分を「正常」の側に置くことなどできないのです。だからこそ宗教による救いを必要としたし、罪を重ねないために、それだけ逆に自分の暴力に対する抑制が働いたのではないでしょうか。(よく時代劇では昔の人を野蛮で暴力的に描いていますが、あれはきっと大きな間違いで、やはり僕らは理性ある「正常」な人間として自己肯定したいために昔の人を暴力的な野蛮人に仕立てたいのでしょう。)
現代人が宗教を必要としないのは、私たちの生活から暴力が抑圧され構造的なものがそれを代行しているからで、それで私たちは罪の意識をもたずにすむのでしょう。しかしそんことがどこまでも人間を傲慢な存在に仕立て上げていくわけです。その傲慢さも行き着くところまできているような気がします。そういう意味で、私たちの社会の構造的暴力を自分の問題として考えるために、生き物を簡単に殺す人間社会(私自身も含まれるところの)の罪を見据える必要があるのではないかと思ったのです。
ところで
宮崎の方、台風がひどかったようですね。僕はちょうどその日に福岡にいたのですが、福岡は外れの方でしたが夜中の雨はものすごかったです。やっぱり九州の台風は関東と違い災害という感じですがします。
僕はやっと面談が終わりました。しかし梅雨時が寒かったので冷夏になると思ったら猛暑が続いています。みなさんご自愛ください。
PR