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お久しぶりです。関東はまだ梅雨が明けませんが、セミが鳴き始めたので真夏に入ったようです。ただ暑くても30度がやっとで、今年は関東は冷夏のようですね。一学期の仕事がやっと終わり、また近代部会での報告も終わり、今一息ついています。しかし夏休みには入ったとは言っても、午前中は赤点補習と進学課外、午後は三者面談で一日追われています。私立高校なので三者面談は必ずやることになっていて、1クラス40人を今月中にやらなければならないので大変です。

 小林照幸という人の「ドリームボックス―殺されていくペットたち」というノンフィクションを読みました。現在、捨てられて「殺処分」される犬、猫のペットが日本で年間40万匹以上いるそうです。ガス室で殺されるところなど生々しく語られています。著者もアウシュビッツを想起すると書いていますが、まさに動物版ホロコーストそのものです。ただし単純に行政は残酷だと批判しても、現代社会の構造的な問題として考えなければどうすることもできない問題です。

 ふと異様に思ったのは、私たちの人間と動物の死についての感じ方、考え方のあまりにもの落差です。先日宮崎でも鳥インフルエンザがありましたが、インフルエンザが起こると鶏舎内のニワトリはすべて「処分」されます。そういうニュースを見て感じるのは、一万羽を「処分」したというニュースを報じる側に何の痛みも感じられないことです。

 毎日何万頭という豚や牛が屠殺され、食卓に上っています。いろいろな宗教で殺生を禁じていたりしますが、宗教の戒律の問題である前にやはり同じ生き物を殺して食べるということに対する罪の意識が土台にあったろうと思います。命に対する畏怖があったと思うのです。

 昔子供のときに父親が鯉をもらってきて、風呂のなかで泳がせていました。生きている鯉を間近に見ることなどなかったので、夕方まで眺めていました。夜、その鯉が食卓に上がったのですが、さっきまで活き活きと泳いでいた鯉のことを想像すると食べられませんでした。誰しもそういう経験はあると思います。昔の人は自然のなかで生き物と共生していながら、それを捕まえて、殺して食べるということは、子供の私が感じた以上のいやな感じがあり、その気持ちを押し殺して食べていたのかもしれません。そこには当然罪の意識も生まれます。殺生をめぐる宗教の問題は、まず宗教の問題というよりも、日常のそういう罪の意識、業からどうしたら救われるかというようなところから生まれてきたのではないかと思います。

 近代になって、人間が地球の支配者になったとき、スーパーに並ぶ生き物の肉片は生の痕跡を失い、「食品」「食材」というモノになってしまいました。もはや命に対する畏怖のかけらも感じられません。犬、猫の「殺処分」と鳥インフルエンザの「処分」、そしてスパーに無機質に並ぶ「食品」「食材」には共通する心性がそこにあるように思います。

 殺生はいけないなどと宗教がかったことをいうのではありません。問題に思うのは、他の生き物の命にあまりにも無関心だということ、生き物を殺すということに対してあまりにも鈍感になった現代の私たちの人間中心主義的感性について、本当にこれでよいのかということです。生態系破壊という問題もありますが、私が今深刻に思うのは、そういう感性はホロコーストに直結するのではないかということです。動物と人間は違うという人がいるかもしれませんが、ホロコーストは他者をモノと見る感性から発生するものです。だから戦争のように人間(他民族、他人種)をモノとして見下す契機さえあれば、その人達を殺害することには何のためらいもなくなるのだろうと思います。つまり他の生き物の生命を奪うと言うことにあまりにもためらいのない現代の人間の心性の奥底には、いつ大量虐殺を招いてもおかしくない暴力性が潜んでいるのではないかと思うのです。

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