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試想の会のブログです。
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 おかげさまで無事に「試想」6号を発行することができました。ほっとしてブログを書く余裕もできましたので、前回の黒木さんの文章を受けてというよりも、自分が文学教育や文学研究について考えていることを書いてみました。

 黒木さんがなぜ〈複雑系〉という概念に注目するのか、文学教育の問題点を例に述べられていました。「学校教育において……読解は主人公の言動や心情の読み取りという一点に特化され」、「その結果とし、主人公が他の登場人物とどういう関係を結んでいるか、などの<関係性>が無視され、加えて、語りのもつ抑圧や排除の問題が見えなくなっている」、「「作者の言いたいことは何か」とか「作品の大意は何か」という終着点に読みが収斂してしまう」ということでした。
 そうですね。僕も賛成しますが、文学教育とか文学研究の現在を見回すと、もっと悲観的にならざるをえない状況があるように思います。それは教育にしても研究にしても、〈読み〉を、自明の前提として論じることがそもそも可能なのだろうかという疑問です。「主人公中心主義」のように、批判の対象としてでも、そういう〈読み〉の方法でもいいのですが、教育現場でしっかりと教えられているのでしょうか。「テクスト論という〈異端〉」で述べたことに重なるのですが、現在の文学研究から教育に至るまでポスト・モダニズムの影響から〈読み〉を拒否してきた結果、いつしか教員が作品を読めなくなってしまい、そして生徒も読めなくなってしまったという、もっと危機的な状況を招いているのではないかと思っているのです。なぜ「危機的」かというと、物語に対する批評性を失うと言うことは、権力の作り出す物語への抵抗力を失い、その結果人間はただ流されるしかないという状況を招くからです。(小泉改革に日本人はただ流されただけではなく、自ら進んで流れに乗ったと言えます。)
 文科省はPISA調査で世界水準で日本の子供の読解力の低下に危機感を抱いて、現在、読解力を如何に向上させるかということにやっきになっていますね。しかし皮肉にも現在の文学研究の周囲にはあまりそういう危機感は感じられません。そちらではどうですか?
 もちろん僕がこのような問題を述べているのも文科省が騒いでいるからではありません。しかし文科省の提唱する「PISA型読解力」というのは、批評性、実用性、対話性などを重視し、たんにこれまでテキストに何が書いてあるのかを読みとる読解力から、それに対する評価(批評性)が出来る主体性の育成を目ざす新しい「読解力」であり、かつての日文協国語教育部会の「対話の教育」が主張していたことを完全に吸収してしまったかの感じがします。戦後の正解主義教育に対する反省から「生きる力」を掲げた国家の教育改革も、総仕上げの段階に入ってきたという感じがします。権力の方が皮肉にも革新的な教育を掲げています。でも露骨に教育格差の広がる状況のなかでこのような教育の恩恵を被ることができるのは、生活に余裕のある家庭の子供であり、また教員が研修する余裕を持てる学校でしょうし、この教育の目論見も国際的に活躍できるエリートの養成にあるのですから、教育の民主性は無視された提言のように思います。
 読解力の低下は、かつての学習指導要領の改訂での露骨な文学教育の軽視(敵視?)削減の結果も一因しているとも言えますが、それはそのような流れに対して文学研究や文学教育自体が文学の存在理由をめぐって積極的に抵抗できなかったこと――自ら武装放棄したかのような――こそ問われねばならないことだと思います。前回述べたように、ポスト・モダニズム、カルチュラル・スタディーズ以降、研究者自身が文学の存在理由について懐疑的になってしまって、自分の足場を掘り崩してしまったことについて、今日まで何も反省がなされていないということです。また抵抗する動きがあったにしても、社会を納得させるまでの論理は持ち得なかったのだと思います。
 文庫の「カラマーゾフの兄弟」や「蟹工船」が文庫売り上げランキングの上位に躍り出るような時代ですが、逆に教員(これは大学、高校を含め)がそのブームに乗じて、それらの古典の意味をもっと深く語れるような状況はあるでしょうか。文学に再び注目が集まってはいますが、そこにあるのは〈読み〉ではなく依然〈消費〉にすぎないのではないかと思います。学校ではテストでいい点を採るために文学作品を読む。日常では、その時々の自分の世界を肯定してくれる物語(人情系、癒し系?)、もしくは非日常性によって現在のストレスを発散させてくれるもの(バイオレンスやホラー?)などなど、よかった、感動した…で、暫くすると忘れてしまう。だからわかる作品しか読まない。難解な作品は読まない。作品をひとつのメッセージ、あるいは批評として捉える力はものすごく衰退しているように思います。
 しかし〈消費〉だからダメだというのではなく、見向きもされなくなるより〈消費〉があるだけまだいいです。そこに出版資本の誘導があったにしても、この文学再評価の背景には、この息苦しい状況のなかでの解放を求めて、感覚的にではあっても文学の中に状況の突破口を求めているような若い人たちの蠢きのようなものが感じられます。ですから問題なのは、そういう潮流に教員や研究者が、残念にも火をつけることが出来ないことです。(もちろん自分も含め)研究者、教育者はこれをいま深く反省しなければならないのではないかと思っています。
 悔しいながら、僕もこんな状況に有効な手だてを欠いています。今再び文学を、生きる指針としてどう読むのかということが求められています。(僕も小さい試みを始めていますが、それはもう少し形になったとき改めて書いてみたいと思います。)研究者、教育者が文学を自己目的化せず、この社会で踏みつけにされている子供や若者の生きる指針として新しい文学像を提示できるかどうか、「PISA型読解力」なんてものに席巻されないためにも大切なことなのではないかと思っています。

 

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