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試想の会のブログです。
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 2012年の2月から約4ヶ月、中国福建省の福州大学で日本の近代文学の講義をした。6月に日本に帰ってきたので、例の尖閣列島でのデモ騒動に遭遇することがなく、内心ほっとしている。聞くところによると福建省はそれほどひどくもなかったということである。もともと福建省は反日感情が比較的薄いところで、日常生活で不安を感じたことはあまりなかったが、尖閣列島の問題では、石原都知事が変な動きをしていたので、正直心配だった。尖閣列島は福建省のすぐ近くにある。
 中国では現在の日本の情報はあまりテレビでは流されない。ちょつとニュースの映像として見るくらいである。基本的には日本人は戦前の悪い日本軍そのもので、日本が戦後、軍隊を放棄した平和憲法を持っていることなどあまり知られていないようだ。もちろん、他方で、日本の漫画、アニメは絶対的な支持を受けていて、日本に行きたいという多くの学生がいることも事実で、私が教えた学生のほとんどは日本びいきであった。ただ、すべての学生が日本の事情に精通しているわけではないので、たとえば、私は学生に、日本は、昔、中国大陸で大変な過ちを犯したので、その反省として、国家ではふつう軍隊がないというのは考えられないのだけど、われわれは過去を反省して「片肺の国家」となり、戦争ができない「憲法」もつくったのだよと教えている。そういうと学生はそれなりにうなづいてくれる。ただ、いい悪いは別として戦後の日本の現実が中国では紹介されていないのだという現状をしっかり押さえておきたいし、それを押さえれば、尖閣を国有化することがどういうリアクションを中国で呼び起こすかすぐ想像できるはずである。また、これも押さえておかなければならないことだが、中国ではアメリカは「美国」、アメリカ人は「美国人」と書く。ここから読み取れるのは、中国人の心の深いところでは、アメリカは憎悪の対象ではなく、むしろ親和性の強い民族なんだということである。中国の革命もアメリカの支援なくしてありえなかったから当然でもあろう。その後、東西冷戦で両国の関係は冷え切ったとしても、基本的には中国人にはアメリカ人への嫌悪感は薄い。ところが、残念ながら、徹頭徹尾、日本人は中国人に嫌われている。これは何も中国共産党の政策のせいばかりではない。今、例えば、日本かアメリカかと二者択一を中国に迫ったらアメリカを必ず選択するということである。悲しいけど、これも、われわれが百五十年という近代化の中で、中国を侵略しつづけた罪として甘受せざるをえないということである。こう考えることを安部政権の人たちは自虐史観と考えているようだ。しかし、百五十年もの間、虐待・暴行を受け続けた民族の記憶が五十年そこそこで消えるはずもなく、ましてやまともに謝罪もしていなければ、常識的に日本人って何だろうと不信が増幅することはあっても、許されたり忘れられたりすることは金輪際ないということではないか。それどころか、こちらが強い時はまだしも、弱くなったときは、いい気味だとして見捨てられるのが人情というものではないか。アジアの人々の深層にはこういう日本への不信感なりが潜在的にインプットされていることをわれわれは片時も忘れてはならないのだと思う。そしてこういう真摯な姿勢をもつことではじめて中国やアジアの人々と「人」として向かい合うことがゆるされるのではないかと思う。
 数十年もしたら中国が世界の中心になるだろうといわれている。ところが、その新しい世界秩序の中でどう日本の立ち位置を構想するかという視点をもたず、それどころか、核武装さえ欲望する政治家が「日本」にはすべてではないがいる。この流れは、もちろん中国・アジアからも見放されるほかないだろう。それどころか、このままではアメリカやヨーロッパをはじめとして全世界からそっぽを向かれてしまうほかないのではないか。それというのも、戦後直後の日本は、残念ながら「片肺の国家」を宣言することでかろうじて世界の仲間入りを許されたのであるから。どんなにそれが屈辱的なことであっても、四島をばらばらに統治・占領されるよりはまだましな選択だったのだ。この事実を忘れてはならない。ところが、いわゆる配給された民主主義論者、「与えられた憲法」論者、自主憲法論者たちはこの戦後日本の厳しい立ち位置を忘却して威勢のいい目先のナショナリズムをあおっている。彼らは、戦前の日本帝国が、内外で多くの人の血を流してしまった経験を本当に反省し、そこから新しくピュアに新生日本を前進させようとした先達の心意気を忘れて、のんきなことを言いまくっているのだ。世界の政治あるいは政治リアリズムはそのことを忘れているほど甘くはないのだ。そもそも、核武装などということは口が裂けても言ってはならない、あるいは言えた義理ではないのだ。
 悲しいけど、日本はこういう世界構図の中でどうするかということを真剣に構想すべきなので、自虐史観などといって暢気な愛国のムードの中で自己陶酔している場合ではないのではないかと思う。
 中国から帰り、特に安部政権の誕生によって、日本の政治が世界の〈孤児〉という「亡国」的な方向をたどっているのではないかと深い危機感を持っている。原発は、日本人が住む土地を奪ってしまう「亡国」の産業ではないかと教えてくれた。本当に原発が全国で同時多発的にメルトダウンを起こしてしまえば、それこそわれわれはすむところがなく、海外にでも避難するほかないのであるが、安部政権の誕生によって、土地だけでなく、世界での日本の存在さえ喪失するのではないかという二重の危機感を持っている。日本の近代百五十年の中で、深刻に総括すれば、常識的に反原発、反核の平和憲法を世界に掲げることによって世界の中で、その存在感を発揮していくほか生きる道はないのではないか。実際、敗戦と被爆そして地震・原発事故による犠牲者の尊い命は、そういうわが国の一筋の生きゆくための許される道を指し示してくれているのではないだろうか。しかし、そう言ってよければ天の予示ともいえるその唯一の可能性を、悲しいことに安部政権の政策、すなわち外交、エネルギー政策(二つの亡国政策)は、未来永劫そのチャンスを日本から奪い、結果として、世界、アジアからの鼻つまみものになっていくそのはじまりであるような気がしてならない。いったい、どうして若い人々はこうした自分たちのなくなっているかもしれない老後・未来を想像して、今の「亡国」の流れに抗議の意志をあらわさないのであろうか。不思議である。
       前田 角藏 2012.12.31
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