この日曜日(11月14日)、水道橋の後楽園・函徳亭で午後一時から東京学生会館のOB会が開催された。私は宮崎にいたのでたびたび参加することもできず、残念に思っていたが、大学を定年退職し、東京に戻ったので、早速参加した。参加の前に、実はこの会の中心である杉田享二氏から在京の記念碑事務局のメンバーに加わってほしいとの要請があり、快く引き受けていて、実はぬけるわけにもいかなかった。
集いには全国から30人の元館生が集まった。平均年齢65歳になったので、地方から参加するのはなかなか大変で、今年は亡くなった方が10名もいて、まずみんなで黙祷する。
次に、一部の会として経過報告や会計提案あるいは集会アピール案、その質疑、討論だが、そう激しい議論はなかった。それるようだが、ここは各大学のセクトが集まり、しかも学生運動のメッカと言われながら、誰もゲバルトはなく、みんな紳士的であった。闘いのスタイルが荒廃するのは、学館闘争以後のことで、これはどうしてそうなったのかまたひとつの課題でもある。
さて、本題にもどると、この一部のメーンは記念碑の設置場所と碑のカンパの要領であった。私たちは1966年11月20日の明け方、突如、強制執行にあい、東京学生会館(北の丸公園はかつて代官町とよばれた。旧近衛兵兵舎)から追い出された。そこは東京オリンピックということもあり、壊され、更地にされた。碑でもないと誰もそこに600人ほどの青春があったのだという事実さえわからなくなってしまうという危機感があり、それが記念碑建設となっていった。設置場所は田安門側が一番いいが、区用地ではないので、中村つねお区議のお力もあり、地下鉄竹橋駅から公園に向かう坂道のしだれ桜のあるところに決まった。後はどう建設費を集めるかということである。
第二部は参加者の現況報告である。いろいろなあの当時のことが話され、記憶をまた豊かにすることができた。驚いたのは昭和34年頃、全国の学生会館の館生100人くらいで北アルプスの縦走をやっていたことだ。写真もみせてもらったが男女がたのしそうにフークダンスもしている写真もあった。あの当時、合ハイ、すなわち男女の合同ハイキングがあった。嘉悦のお嬢さんは、貧乏学生の館生には興味もないらしく、すげなくことわられたと苦い笑い話もあるし、堀に酔っぱらって落ちてしまい、もう少しで死にそうになった話などいろいろである。この頁を借りて、このつどいのことなどを書かせてもらおうと思っています。(前田角藏)
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