忍者ブログ
試想の会のブログです。
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。


 このように1945年の67万人の虐殺という視点で考えるとき、日米を呪縛する、「戦争を終わらせるためにはやむを得なかった」という戦後の原爆神話の抱える問題性が見えてきます。この原爆神話は、原爆を政治の延長の手段(物語)として捉えようとするものです。アメリカがそのような物語を必要としたのは、原爆の暴力性、犯罪性を隠蔽するためです。そのためには空襲と原爆を切り離し、空襲の記憶を隠蔽する必要がありました。
 それに日本の支配者が加担したのは、自らの保身のために67万の人間の虐殺を見て見ぬふりをしてきた自己の戦争犯罪を隠蔽するためです。軍部にすべて責任転嫁をして、自分たちと日本国民はアメリカに救われたという物語によってアメリカの戦争犯罪の隠蔽に加担し、戦後の支配の正統性を獲得したわけです。
 
 第二次世界大戦では、戦争という暴力を開放した人類がそれを終結させる理性を喪失し、むしろ理性をその暴力の開放に使用し、最終的には自らを消滅させる力を持ってしまったという体験でした。近代的な人間信仰にとどめをさした体験が第二次世界大戦であり、その象徴がアウシュビッツであり、ヒロシマ・ナガサキであったわけです。しかしこのような問題性は、戦後、原爆の当事国では、権力のヘゲモニーによって隠蔽され、皮肉なことに当事国以外の方が見えるという倒錯が起こってしまったわけです。
 
 「夏の花」では、被爆した当日、避難した河原で出会った一人の兵士が「ふと、「死んだ方がましさ」と吐き棄てるように呟」き、そして「私」はそのときの心境を次のように語ります。
 
私も暗然として肯き、言葉は出なかった。愚劣なものに対する、やりきれない憤りが、この時我々を無言で結びつけているようであった。

 この「愚劣なもの」とは何を指しているのでしょうか。授業で生徒に質問したところ、いろいろな答えが返ってきました。「アメリカ、日本、日本の戦争指導者、戦争、原爆、被害の光景そのもの」、そしてそのような状況に対してまったく無力な人間というのもありました。「愚劣なもの」という抽象的な表現であるだけに、この言葉は一元的な意味に回収されない多義性を持っています。
 「死んだ方がましさ」という兵士の実感は、この現実世界総体を否定した言葉です。広くとれば、人間そのものに対する憤りとも考えられるでしょう。この「愚劣なものに対する、やりきれない憤り」とはこの生活世界を破滅させるものに対して二人が共有するものにほかありません。それは個人的なものではなく「我々を無言で結びつけている」と「私」には感じられますが、しかしこれもまた「愚劣なもの」としか表現できないもの――「これ」と名指すことのできないものであるに違いありません。
 
 しかしまた別の考え方も出来ます。なぜ「私」たちは、この「愚劣な」状況を出現させたものを見極め、そして糾弾できないのでしょうか。それはこの生活世界の崩壊の予感のなかで、ただ息をひそめてその時を待つしかない「郷里」の人々のありかたとも対応しています。そしてこれは「郷里」の人々の問題だけではなく、67万人という人間が無抵抗に虐殺されていきながら日本人の側からなんの動きも現れなかった歴史とも対応しているでしょう。
 なぜ日本人は滅亡の運命を座して待つしかなかったのか、「一億玉砕」に抵抗できなかったのか、なかなか難しい問題ですが、その原因を戦後の思想家は日本人の封建的心性に帰していました。しかし私はそれは単純に「国民」を挙げてこの戦争を支持したからだと思います。そういう意味でいえば「愚劣なもの」の中に日本人も含まれるのです。つまり「愚劣なもの」とは「我々自身」でもあるということで、そのために「私」は「愚劣なもの」を対象化できなかったとも考えられます。

 ふつう原爆文学と言われる作品は、これまで記録文学としての側面が重視されてきました。ここにきて私が苦しんでいたのが、記録性は重視しながらも、文学作品(特に語りの構造や文学言語のレトリック性などの側面)として読むということでした。なぜなら記録性の部分だけでは、生徒にとってグロテスクではあるものの、あまりに見慣れたものであるために心を動かされるような新鮮味に欠けると思いました。彼らにとって大切なのは、悲惨さを知るということだけではなく、どのような悲惨さなのか、その意味を考えるということなのではないでしょうか。
 そこで戦後の比較的早い時期に書かれた、しかもその記録を直後に書かれた手帳のメモをもとにして書かれた「夏の花」の場合、「戦後」の視点によって分節化されない原爆体験の衝撃性を書き残すことができたという点で稀有な作品だと言えるでしょう。随所に詩的表現が使用され、文体に一貫性がありませんが、それは原が詩人だったからということではなく、むしろ対象化しえぬものを表現しようとする作者の苦悩の表れとも言えるでしょう。そういう意味でこの詩的表現を考えることには積極的な意味があるのです。「夏の花」は原爆の記憶を共有していくという意味で、原爆の記録としてだけではなく、その文学的表現に着目することによって、原爆に対する認識を新しく切り開く可能性を持った作品なのではないかと思います。(ただこれを授業でどう教えるのかというと難問ですが)  (終わり)
(高口)

PR
お名前
タイトル
文字色
URL
コメント
パスワード
Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
この記事にトラックバックする:
Copyright © 試想の会のブログ All Rights Reserved
Powered by ニンジャブログ  Designed by ピンキー・ローン・ピッグ
忍者ブログ / [PR]