「試想」のホームページが新しくなりましたね。黒木さんご苦労様です。今年の前半は、宮崎は口蹄疫の問題で大変でしたね。もう落ち着いたでしょうか。
こちらはこの前夏休みが終わったと思ったら、いつの間にか10月も半ばで中間テストを迎える時期になりました。「夏の花」の授業は迷走したまま終わりそうです。どうしたら生徒の認識を切り開くことが出来るのか、彼らは答えしか求めようとしません。思考することになにか頑固なほどに臆病な感じがします。「夏の花」自体はそれなりに新しく読む方向性が見えたかなという感じがしますが、肝心な授業がそうはいかずちょっと空しい感じがしないでもありません。生徒の積極的参加をどう導き出すか、自分の授業スタイルももう限界だなと思っています。
とりあえず今回「夏の花」で考えたことを書き留めておきたいと思います。
教材として収録されているのは今日『夏の花』三部作と言われる短編集のなかで最初に発表された短編「夏の花」です。そこで話がややこしくなりますが、この「郷里全体」を支配していた「崩壊」の予感については、二年後1949(昭和24)年に発表された、原爆投下までの出来事を語った「壊滅の序曲」を念頭に置くかどうかでずいぶん違ってきます。
「壊滅の序曲」では戦争末期に郷里広島帰省した正三を中心に、ふたりの兄と妹とのエピソードが語られます。3月の硫黄島「玉砕」の報道から始まり、地方都市が次々と空襲されていくなか「防空要員」として疎開することもできず、ただ無抵抗に敵の空襲を待つしかないという終末的時間のなかでエゴイスティックになって亀裂の入っていく4人の兄弟の関係が語られ、それだけでなく戦争末期の、隣組の防火演習の残忍な教官をはじめ、すさんだ人々の姿が、状況に適応できず厄介者として不器用に傍観者として生きる正三の視点から捉えられています。
この解体していく家族である4人兄弟をはじめ、広島の人々の姿は、戦争末期の追いつめられた状況のなかで共同性が腐敗的に解体していく日本の比喩にほかありません。そして物語は、最後の清二がつぶやく「どうか神様、三日以内にこの広島が大空襲をうけますように」という戦争末期の広島、そして日本の「壊滅」を待ち望む祈りに収斂していきます。
「三部作」を念頭に置くと、短編「夏の花」の主人公が「郷里全体」に感じていた「やわらかい自然の調子を喪って、何か残酷な無機物の集合のよう」な感じは、戦争末期の腐敗していく日本人の共同性を受けるかたちになり、このような状況に「夏の花」では原爆が投下されるということになります。この場合「原爆」とは「壊滅」という言葉が世界の消滅を連想させるように神による最後の審判のような意味合いを持つわけです。
しかし作品の書かれた順序を考慮すれば、「壊滅の序曲」の世界は原爆が投下される前に「夏の花」の主人公が「郷里全体」に感じていた「やわらかい自然の調子を喪って、何か残酷な無機物の集合のよう」な感じについて、原爆体験の手記を書き終えたあと、遡行的に見い出されていった「過去」であることが分かります。
もちろん「壊滅の序曲」と「夏の花」とを連動させて三部作として読む意味はあるにせよ、「壊滅の序曲」は、作者が「夏の花」を書いたときに感じていた「崩壊」となにか微妙に違うのではないかと思うのです。原爆体験直後にはあって、その後戦後の時間の経過の中で逆に消えていってしまったものがあるように思います。
もちろん「夏の花」のなかでは「崩壊」の予感について具体的なことは何も語られていませんが、逆にそのことが読者の自由な想像の介入を許します。そこで「夏の花」で語られた「崩壊」の予感をもう少し広く1945年という歴史的コンテクストの中で考えてみたいと思いました。
なぜそんなところにこだわるのか、自分でもまだよくわからない点があるのですが、どうもそこに、これまでの「原爆文学」をめぐる戦後日本人の読みの枠組みの持つ問題があるように思うのです。
(高口)