そうこうしているうちに授業は終わってしまいました。今回は授業をしているときには着地点が見い出せず、考えながらやっていったので苦しい授業でした。
実は「なにか違う」と言う違和感だけがあって、それがよく見えない、だから同じところをぐるぐる回っているしかないというのが正直には前回まででした。前回の最後に「崩壊」をめぐって「戦後の時間の経過の中で逆に消えていってしまったものがある」と言いました。そう気がついた時、少しずつ読みが整理できてきたように思います。そこで授業ではうまく展開できませんでしたが、「夏の花」の読みを書き留めておきたいと思いました。
「夏の花」は「私」が亡くなった妻の初盆で墓参りをした8月4日から6日に被爆し、8日に八幡村に疎開するまでの「私」を中心とした「私」の親族の記録と、その後日話に、最後に妻の遺体を見つけて広島市を三日三晩さまよったNという男の話から構成されています。
まず前半部では二回目に問題としたように、「崩壊」の予感が語られます。この予感は作品内には具体的に語られていません。もちろん作者が原爆投下を予測していたわけではなく、この「崩壊」の予感については歴史的なコンテクストを参照するしかありません。もちろん「崩壊の序曲」を無視する必要もありません。「郷里全体」を覆う「何か残酷な無機物の集合のように感じ」と喩えられる息の詰まるような緊迫感が、戦争末期の敵の本土上陸が現実の日程に上ってきたことと、より身近な問題としてはいつ広島が空襲を受けるかわからないということに原因があることは言うまでもありません。
そしてそれが8月6日の朝、「長い間脅かされていたものが、遂に来たるべきものが、来た」わけです。そのときの「私」の心境については2回目に引用しましたが、「さばさばした気持で、私は自分が生きながらえていることを顧み」て「今、ふと己が生きていることと、その意味が、はっと私を弾」き「このことを書きのこさねばならない、と、私は心に呟いた」とあります。
ここで留意したいのはそのあと「けれども、その時はまだ、私はこの空襲の真相を殆ど知ってはいなかった」と語るように、「私」が書きのこさねばならない」と決意したのはこの事態が原爆だと知っていたからではないということです。「アッシャ家の崩壊」とあるように「私」がこのとき書き残そうと思ったのは「家」(「私」の家、「郷里」「日本」)の崩壊だったのです。
ただ、それ以降の原爆文学が事後的に原爆被災を振り返ったものであるのに対し、この時の「書きのこす」という強い使命感があったことによって、「夏の花」はまさに意識的なルポルタージュの視点によって被災の状況が記憶にたよらず、その内側から同時性をもって、克明に(もっともこれも事後的に構成されるわけですが)捉えられたという稀有な作品だということです。
そのために、この後語りからは物語性が後退し、「私」の体験したり目撃した出来事が体験した順番に、なんの脈絡もなく次々と語られていきます。ただそれらの出来事の羅列をつなぐ細い糸(プロット)がないわけではありません。これは偶然に「私」の避難過程と、これがただの空襲ではなく、想像を絶した恐ろしい出来事なのだということに気づく過程とが重なっていたからでもありますが、「夏の花」は「私」が原爆の恐怖に目覚めていく認識の変化が物語の軸になっています。
最初家で被爆したとき「私」の眼に見えた被害は家屋の倒壊や「私」や周囲の人々の怪我です。それから川に避難するのですが、そこでは男女の判別もつかない「悲惨醜怪」な重傷者のことが語られていきます。被災した翌日、「私」は東練兵場の加療所に向います。姪が見つかった東照宮下の施療所では炎天下の下一時間以上も治療してもらうのに待たされている人々、さらにはその周囲に放置され助けを求める重傷者の姿が目撃されます。そしてさらに翌日にはそのような人達は次々に息絶えていき、しかもその遺体も放置されたままという救いのない光景が語られていきます。
そして嫂の疎開先に行っていた長兄が荷馬車を雇って戻ってくると、「私」たちは八幡村という田舎に向けて広島市街を後にすることになります。そのときに「私」は爆心地近くの光景を目の当たりにすることになるのです。(まだまだ続いてしまいます)
(高口)
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