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 前田先生もお元気そうでなによりです。しかし連日大企業が千・万人単位でリストラを発表しています。ひどい社会です。イタリアに行ったから調子にのっているわけではないですが、私たちが自然に思っていた価値が如何に日本でしか通用しないものか実感しました。前田先生のいう「一国主義的な価値」を日本で言うことがなぜ問題なのか、それは日本では国民の間で共有されている価値が、如何に一国主義的なものか相対化されることがないというところが問題なのだということだろうと思います。
 高校生と話をしていると、世間のなかで形づくられた彼らの社会観、人生観を揺るがすことが困難かということで日々実感させられます。真面目にコツコツと勉強する、働くということが侮蔑され、「清貧」がたんなる「ビンボー」で惨めでしかない。勉強も、それは自分が出世する手段でしかないというエゴイズム、できなくてもなんとかなるさという何の根拠もない楽観主義が支配しているこの社会(だから現実に直面したときのショックは大きいです)は、おかしな社会です。まさに新興宗教の世界です。私ですらあんな短い時間でそういうことを感じたのですから、明治に海外体験をした漱石、鴎外、荷風らはもっと深刻だったのでしょう。

 ところで1年生の授業で夏目漱石の「夢十夜」の「第一夜」をやりました。この作品は指導書を見ると男女の永遠の愛が成就するロマンチィックな物語として読まれているようです。私もこれまでいろいろ論じられてきたように、それこそ漱石のかなわぬ恋の幻想的な夢の物語ではなかろうかと思ってきました。しかし一つだけ引っかかることがありました。愛の成就の物語と読むとすると、他の夢が文明批評的な寓話であるのに対して、この「第一夜」だけが異質な物語として挿入されていることになるからです。そういう引っかかりをもとに考え、また男女の永遠の愛の成就の物語では生徒にちょっとインパクトが足りないと思い、第一夜の表現を再度検討していったところ、まったく違った物語の姿が浮かび上がってきました。ちょっと自分でも面白いなと思ったのでブログに載せてみることにしました。
 
 この物語で不思議なのは、「もう死にます」と男に別れを告げる女の枕元にいる男が、「これでも死ぬのか」と女の死を実感できないという点です。男は「とうてい死にそうには見えない」と言い、女が「もう死にますとはっきり言」うと「たしかにこれは死ぬな」といったん思うものの、女の「透き通るほど深く見えるこの黒目のつやを眺めて、これでも死ぬのか」と思い、「死ぬんじゃなかろうね、大丈夫だろうね」とききかえす。また「じゃ、私の顔が見えるかいと一心に聞くと」、女は「見えるかいって、そら、そこに、写ってるじゃありませんかと、にこりと笑って見せ」る。それでも男は「腕組をしながら、どうしても死ぬのかなと思」う。
 この冒頭場面では、女が死に直面しているのに対し、男はアホなくらいそれが実感できません。二人の意識のすれ違いが際だっています。愛し合っていないわけではないのに、最後まで二人の感覚がぴったり噛み合わない――この齟齬がこの物語の基調をなしています。
 死の間際、女は男に遺言します。「死んだら、埋めて下さい。大きな真珠貝で穴を掘って。そうして天から落ちて来る星の破片を墓標に置いて下さい。そうして墓の傍に待っていて下さい。また逢いに来ますから」と。そして女の死後、男は遺言通りに「大きな真珠貝で穴を掘って」、「天から落ちて来る星の破片を墓標に置」きます。さらに穴を掘るとき「土をすくうたびに、貝の裏に月の光が差してきらきらした」、土を「掛けるたびに真珠貝の裏に月の光が差した」と、「月の光」が強調されます。
 これら女の指示した「真珠貝」「星」、そして墓標に差す「月の光」などここに溢れているのはキリスト教のシンボルです。「真珠貝」「星」「月」――これらはすべて聖母マリアの象徴であり、純粋な愛、真実の愛を表すものです。女は自分の死後の空間を、愛の象徴で埋め尽くそうとするのです。埋め尽くそうとするだけではありません。男に「大きな真珠貝で穴を掘」り、「天から落ちて来る星の破片を墓標に置」くことを命じて、同時に男に永遠の愛を確認させようとするのです。
 そして「墓の傍に待っていて下さい」「百年、私の墓の傍に坐って待っていて下さい。きっと逢いに来ますから」と言う女の願いが、男との永遠の愛の契りたいという女の切なる願いを表していることは言うまでもありません。
 そして女を墓に埋めるとき「きらきら」差す「月の光」が、「永遠に私はあなたを愛する/永遠に私をを愛せ」という女の両義的なメッセージだと言えましょう。
 そしてそのようなコンテクストで考えれば、毎日東から西へ上っては落ちる「太陽」が女の復活を意味していると考えてもおかしくありません。
 このように考えていくならば、男は女の死後も女の意志の支配する象徴空間で待ち続けることになります。女が毎日永遠の愛と復活のメッセージを発しているとするならば、女は死後もこの男の待ち続ける時空を支配しているのです。つまり女はどこに行ったのでもない、〈ここ〉にいるのです。にもかかわらずなぜ彼女がいなくなったのかというと、それは「待っていられますか」と女の言葉に明らかなように、男の愛を試すためなのです。 (続く)         高口

 

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