つい先日、いろいろ諸事情があって、久々に芥川の「鼻」を授業でやりました。(あまりやりたくはなかったのですが、諸事情があって)前田先生が以前「鼻」批判されましたね。改めてやってみて、つくづくやったことを後悔するような作品でした。
久々に読み返してみたのですが、「傍観者の利己主義」のところで僕もやっぱりひっかかりました。久々にブログに書いてみようと思った次第です。次がその問題箇所ですね。
――人間の心には互に矛盾した二つの感情がある。勿論、誰でも他人の不幸に同情しない者はない。所がその人がその不幸を、どうにかして切りぬける事が出来ると、今度はこっちで何となく物足りないような心もちがする。少し誇張して云えば、もう一度その人を、同じ不幸に陥れて見たいような気にさえなる。そうしていつの間にか、消極的ではあるが、ある敵意をその人に対して抱くような事になる。――内供が、理由を知らないながらも、何となく不快に思ったのは、池の尾の僧俗の態度に、この傍観者の利己主義をそれとなく感づいたからにほかならない。
私が問題にしたいのは、語り手の「傍観者の利己主義」と決めつけたこの解釈自体です。人々は禅智内供の「幸福」を妬んで笑ったのでしょうか。前田先生のコメントにもあるように、人間は「不幸」から抜け出した人の「幸福」を妬むだけではないし、一歩意地悪い見方をして妬む気持ちがあったにしても、それを露骨に笑ったりしないだろうと思うのです。そう考えると、人々が露骨に笑ったのは、その身分の高さから人々を見下していた人物が、しかも徳の高い悟りを開いたはずの人物が、内心は顔の障害を苦に病んでいて普通の人間だったということを露見させたからだと思うわけです。禅智内供が自覚的だったか否かは別にして内供に威圧されていた人々の反抗――それこそ弱者のささやかな抵抗が「笑い」の一番の原因だったと考えます。実際「今昔物語集」では権力者を笑い飛ばす弱者の視点から内供のエピソードが語られています。
ところが芥川はこの人々の振る舞いを「傍観者の利己主義」として、人間にはみんなこのような意地悪い心があるのだと人間一般の問題に整理してしまうのです。人間個々の立場や事情といった〈差異〉を考えずに人間をひとしなみに見る――「ひとしなみ」というのも、自分を超越的な位置に置いて人間の卑小さを暴くことに終始する、人間に対する不審、人間に対する侮蔑的視点です。
もちろんそれは意地悪い見方で、作者はたんに他者に振り回される自意識をもった人間の愚かさを語ろうとしたと見る人もいるかもしれません。たしかにその通りで、芥川に悪意なんかもちろんなかったし、エリート僧侶禅智内供の権威の衣をはぎ取るという点に於いて芥川の心理分析は近代的ヒューマニズムの王道ではないかという人もいるかもしれません。
しかしこの語りの問題は、様々に解釈できる内供への人々の「笑い」の可能性を排除してしてしまい、語り手自身の個人的にすぎない人間観=自己の人間不信を、あたかもそれが〈真理〉であるかのように読者に押しつけるところです。たしかにここには人間皆な同じという見方もありますが、この根底にある冷ややかな人間不信は「人間皆平等」という「ヒューマニズム」とは全く別ものです。何が違うかというと、人間をまなざす、その主体の位置です。
近代のヒューマニズムに於いては、「人間皆平等」という「人間」に、当然それを語る主体も含まれていますが、「鼻」の語り手のまなざす「人間」には彼自身は含まれていないのです。なぜなら、芥川の特に初期作品に共通する語りのスタイルは、主体と客体を分離して、特権的な位置から客体を〈モノ〉として分析する近代科学の方法をそのまま文学に模倣したものだからです。それは〈人間〉という同質性に於いて、と言う限界はありますが、連帯を志向するヒューマニズムとは全く異質なものといえるでしょう。
このスタイルの問題点は、主体の位置が特権化されることによって主体のまなざしが権威化され、そのイデオロギー性が隠蔽されてしまうことです。だからそれをそのまま受け入れた読み手によって、芥川文学の評価が「人間の本質を見抜いた」というふうにまとめられてしまうのです。
文学は人間の暗い部分を暴き出す必要もあります。しかし問題は、でもそういう風に捉えられた〈人間〉の問題が、まなざした自分自身の問題なのかとうかと言う自意識が作品の中にあるかどうかだと思いますが、芥川の作品にはそれが欠落していると思います。それは人間っていろんな人がいるよ、という人間に対する謙虚さが彼の作品に欠落しているのと表裏一体です。
弱者の現実を冷静にリアルに捉えているのだと言うかもしれません。しかしプロレタリア文学と決定的に異なるのは、人間を観察対象としてしかとらえない、その冷ややかなまなざしでしょう。まさにそれは必死に弁解する老婆に注がれた下人の「冷ややかな侮蔑」のまなざしにほかならないのです。
芥川作品が日本文学のなかでありがたがられるのは、読み手が彼と同じ神のまなざしへの欲望を内面化しているからです。芥川作品の語りのイデオロギー分析をしないことが芥川神話を支えているのです。ポスト・モダニズムとは、西洋の新しい思想を引用することではなくて、なによりも隠蔽された主体の権力性を問うことだったはずです。(前田先生の表現を借りれば、近代の「普遍」とは「勝ち組」の意識にすぎなかったわけで、ポスト・モダニズムはそれは「勝ち組」の見方にすぎないじゃん、と暴いたわけです)そういう意味で、逆に芥川神話は、近代権力を温存し、依然そのなかで命脈を保とうとしている文学研究の古さ(多分、確信犯的)を象徴していると思います。思わず自浄能力を失って8月の選挙で歴史的敗北を喫した自民党と現在の近代文学の研究状況を重ねて見てしまうのですが。
芥川研究者は、もし教室で生徒から「コンプレックスがあって整形しようとすることは愚かなことなの?」と聞かれたらなんと答えるのでしょうか。もし芥川と芥川研究者の鼻が長かったら、絶対こんな残酷な小説を書かなかったし、評価しなかったでしょうね。
久々のブログです。いま7号制作中です。これからまたブログにも文章を書いていきます。(高口)