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 今、定番教材、丸山真男の「「である」ことと「する」こと」を授業でやっています。
最初の「権利の上に眠る者」で丸山は憲法第12条「この憲法が国民に保障する自由および権利は、国民の不断の努力によってこれを保持しなければならない」という「不断の努力」という表現をめぐって、それは「自由獲得の歴史的プロセスを、いわば将来に向かって投射したもの」であり、「「主権者であることに安住して、その権利の行使を怠っていると、ある朝目ざめてみると、もはや主権者でなくなっているといった事態が起こるぞ」という警告」だと述べています。そして民主主義の油断から独裁者を生みだしてしまった事例としてナポレオン三世とヒットラーをあげています。
 今回久々に読み返してみて、このくだりは先頃2005年9月の郵政民営化選挙で圧勝し、それから2007年7月安倍内閣が参議院選挙で自民党が敗北するまでの約2年間、自民・公明政権の独裁状態が出現し、教育基本法改悪、防衛庁の省への昇格、憲法改正法の成立などの悪夢を経験した後になってみると「身に染みて」わかりますね。
 現在の、バブルから急転直下の長期不況もそうですが、歴史的な経験を踏まないとわからない先人の教えというものは確かにあります。
 今回政権交代が実現しましたが、たしかに「国民の勝利」だなどという言葉に浮かれて民主党政権へのチェックを怠ると、衆議院で3分の2の議席を獲得し、さらに参議院でもそれを狙う民主党が独裁化する可能性は十分にあるということです。そのように考えると、たとえ自分の支持政党であったとしても、その政党の独裁化を認めていいわけではないと思います。
 そう考えると丸山の言う「民主主義とはもともと政治を特定身分の独占から広く市民にまで解放する運動として発達したもの」で、「非政治的な市民の政治的関心によって、また「政界」以外の領域からの政治的発言と行動によって初めて支えられる」という言葉は、政治の問題だけでなく、「正しい」ことを語りながら難解化していく学問、思想についても、何度も立ち戻って考えなければならない大切な〈原則〉だと思います。
 ところが生徒からは「難しい」と、ぼそっと言われてしまいました。ふと周囲を見渡すと、みんなひたすらノートをとっているだけで、表情からは生気が消えています。丸山の言葉が届かなくてはいけない子供たちに、まるで無縁な言葉のように聞こえてしまう。日本の教育問題、子供の学力低下の本質というのは、カリキュラムや方法論ではなくて、こういうところにあるのではないか――要するに子供がどうこうではなくて、丸山の言う「自由と民主主義」の問題を教育のなかから失ってしまった教員と教育の退廃に問題があるのではないか。現在の高校3年生を見ていて、進路に対しておよび腰でしか対応できずに、未来に対して明るい展望を描けない、活き活きとした主体性を失ってしまった子供たちを見て(自身への反省を込めて)つくづくそう思います。
                                               (続く・高口)

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戦後民主主義について
最近、僕は江藤淳ではないが、戦後言説の危うさのようなものを感じています。戦後の自由と民主主義は、ある一面で、戦前の反省を隠すための機能を果たしてきたのではないかという危惧です。この自由と民主主義でみんな過去のことを忘れてしまったという意味ですね。もっと深めたいとおもいますね。
前田角蔵さん / 2009/12/01(Tue) /
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