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(承前)
 戦場で雄壮に戦って帰還した兵士の記憶にも、その人にとっての真実はあるでしょう。しかし野坂昭如の「火垂るの墓」の清太や節子のように、空襲で親を失い、そして社会から見放され息絶えていった戦災孤児たちの真実は、真実としては同じ重さでありながらも後世に記憶される事はありません。また目取真俊の「水滴」の徳正のように戦争体験の真実を誰にもうち明けずに墓場まで持っていく人も少なくないことでしょう。これら記憶のの差異は〈差異〉として対等に我々の前に現れることはありません。権力の意志によってつねにそこには取捨選択の論理が働いているのです。
 したがって戦争を考えることは、まず権力の要求する大きな一つの物語によって隠蔽-排除された差異を明らかにすること、同時に我々の社会にそのような透明な政治力学が働いていることを明らかにしていくことが重要な問題となります。
 歴史が物語るように、近代文学がナショナリズム、戦争に奉仕する有効な手段として機能してきたことは間違いありません。しかしその一方で、かき消されるマイノリティーの声や証言の残らない死者の声、証言を残さない生者の記憶など、実証性を必要とされる歴史学に比べて文学は想像力によって声なき声の世界に自由かつ容易に分け入って、その声を解放してきました。声をあげることの出来ない個――権力のコードから排除された存在を私は〈非在〉と呼びます――に添って、それぞれの差異を解放していくところに文学の大きな力があるということを重視し、そこに文学や文学教育の今後の可能性があると私は思います。
 歴史と文学との関係は一般に「真実/作り事」という枠組みで捉えられて、文学作品に語られた物語は歴史より真実性が乏しく、一段劣ったものと見られてきました。しかしこのような文学蔑視を支えてきたのは、皮肉にもそこに語られた出来事が「本当にあった事かどうか」ということを問題にする生徒たちの価値観を背後から支配する、制度としての近代文学観=リアリズム信仰(作品はどれだけ現実を忠実に反映しているかどうかを尺度とする)だったのではないかと思います。
 文学観の問題についてはここで論じることができませんが、制度としての近代文学観によれば〈非在〉の物語は「作り事」として貶められてしまいます。(近代文学観では泉鏡花が評価できないのも同じ理由です)したがって〈非在〉の声を解放するためには、文学観の変革を必要とします。〈非在〉の声を抑圧して、〈真実〉を標榜してきた歴史に対する批判としての文学を新たに構想する必要があるのではないかと思います。(ただし表象としての歴史(歴史の物語性)の問題については、文学研究よりも歴史学の方がはるかに自覚的であり、文学研究はむしろ自閉的で立ち後れています。)

 これから大切なことは戦争文学がナショナリズムに奉仕することのないように、教員、研究者を初めとした読者が徹底的に抵抗することだと思います。「悲惨な体験」の想起も、他者を喪失し国民の共有体験として共苦を忍ぶというだけなら、やがてそれは反転して「敵」への憎悪につながっていく可能性を持ちます。そうならないためにはナショナリズムに収斂する力に抵抗し、ナショナルな枠組みを相対化するために、〈他者〉の視点を通して意識的に戦争文学を批判的に読みかえていくことが重要なのではないでしょうか。(ナショナルな枠組みとは、例えばここで述べた「自業自得史観」であったり、「軍部=悪/民衆=善」という二項対立的枠組みであったり、それと通底した「戦後解放史観」です。これらは日本の置かれた国際状況への判断停止を促し=戦争責任問題を回避し、戦後体制を強固に支えたイデオロギーだったと言えます。)
 
 数年前、写真家星野道夫の「アリューシャン、老兵の夢と闇」というエッセイを授業で取り上げました。(桐原書店「国語総合」に収録)そのなかの星野の言葉は、これからの文学に於ける反戦平和教育の方向を考えるうえで大きな示唆を受けました。

「戦後生まれのぼくにとって、太平洋戦争は遠い。いったい何が起きたのか、その時代を生きなかった者には、ただ昭和史の一ページとしての記憶である。歴史を後から学ぶ者にとっては、なぜ三百十万(日本側)の人間が命を落とさなければならなかったのか、その答えを見つけることはできない。人々は、どうしようもなく、時代とともに生きている。そして気の遠くなるような戦死者の数も、決して悲惨さを伝えてはこない。それを知るためには、死んでいった無名の数々のかけがえのない生涯と、残された者たちのそれからの戦後を、一つ一つたどる途上でしかわかりえないのだろう。戦争とはそういうものだ、とはどうしても言い切れない理不尽さを知るのであろう。」(傍線=引用者)

 穏やかではありながら、星野の言葉には、死者や沈黙を守る生還者たちの一般化できない体験や記憶を大きな一つの物語に収斂させたり、またそれらを排除する力への強い抵抗の意志を感じとることができます。了解不可能な〈他者〉である彼らの、個としての一回性を尊重しつつ、ぎりぎりのところで彼らを理解しようという真摯な姿勢をうかがうことができます。そしてそれぞれの個を尊重することが、大きな一つの物語としての戦争の表象を解体していくことになるのでしょう。
 たしかに戦争に唯一の真実があるとしたら、「理不尽」な暴力、それ自体が反物語的な出来事なのではないかと思います。個の視点から、反物語的な戦争の真実を暴露し、戦争の大きな一つの物語化にどこまでも抵抗していくことに、これからの文学に於ける反戦平和の一つの方向があるのではないかと思います。(終)
〔高口智史〕
 
 

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