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 「試想」の論文が書けずに悪戦苦闘していたのでブログの方、本当にご無沙汰していました。あまりブランクが大きいので、黒木さんが頑張って昨年のものを復刻してくれています。せっかくホームページを作ってもらったのに申し訳ないと思いつつ今日まできてしまいました。「試想」ももうすぐ6号が出ます。これからは少しずつまた文章を書いて載せていきます。

 最近、作家をめぐる緻密な実証研究をもとに作品を読む傾向が増えてきたように思います。ひところのカルスタ研究が隆盛だったときのように作品を恣意的に読む人は減ってきたようですが、ではどう作品を読むかという問題について、かつて記号論、構造主義が日本に入ってきたときに議論されたような読みの方法論をめぐる論議はすっかり消えています。かつてテクストか、作品か、などと盛んに議論されましたが、記号論、構造主義、テクスト論、受容理論、ポリフォニーの問題、語り手や視点の問題など、文学作品の構造をめぐる議論や問題意識は、現在の文学研究に消化されたのではなく消えてしまっているように思います。あの作品の構造分析をめぐる議論はもう時代遅れなのだろうか?つい誰かにきいてみたくなるような状況です。
 R・バルトは「作者の死」を宣告しました。日本でテクスト論が隆盛の頃にそれが盛んに援用され、作者は無視して読むのが自由なのだと思われた時期がありました。(いまだにそういう人がいますが)バルトのテクスト論は、テクストは記号として豊かな意味産出機能をもち、その意味・価値は読み手と作品との関係(読書行為)のなかに発生するもので、作品に内在するものではないという考えです。そこから作者の意図に還元する読みが否定されるわけですが、しかしバルトが作者還元的な読みを批判したのは直接作者そのものというよりも、それ以上に研究者が作者についての知識を独占し、作者の代理表象(作者という「真理」を研究者が代理するわけです)として作品を支配するという、その権力性の問題だった、というように理解しています。(記号論、テクスト論の革命性、日本に於ける思想的に骨抜きにされた恣意的解釈の問題については、「試想」誌上で前田先生がたびたび言及されていて、それを参考にさせてもらいました。)
 ところで日本では、作者の意図に還元することは語りの戦略にはまることだからダメだ、ということで、作者は無視してもいい、無視することがいいのだというふうになりました。そこで起こった事態はバルトの主張とは正反対の、読み手(研究者)の絶対化という現象だったわけで、作者の権力性を批判しながら、なんのことはない読み手である自己の権力性に対する自意識を欠落させていたのが日本のテクスト論の最大の問題だったと思います。
 結果的に読みのパフォーマンスは、文学に何らかの意味を見いだそうとする読者にそっぽをむかれて文学離れを加速させただけだったようです。また文学研究でもテクスト論は衰退していきましたが、それは研究スタイルが飽きられただけで、思想・方法としてどこが問題だったのかという反省があったからではありませんでした。
 その後、読みのパフォーマンスに飽きて、堅実な文学研究の必要性を感じてきた人たちに復活してきたのが、作者の伝記的事実や社会的背景を詳細に調べ作品を意味づけるという作者還元的な研究スタイルです。しかしそれはバルトのテクスト論が批判した地点に戻っているだけです。
 また少しでもそれまでのポスト・モダニズムの影響の下で文学研究を意味づけようとした人々は、カルチュラル・スタディーズの影響から、作品そのものではなく文学作品を権威化させる社会的な場を問題にしていきます。B・アンダーソンの国民国家論などの影響から、文学は国民国家に於いて国民統合の機能を果たすという権力作用を文学観の前提にしており、「作品の中へ」という視点は最初から排除されていました。
 現在でも、依然として文学研究の動向は記号論、テクスト論を顧みる気配はみえません。日本に於いてはやはり一過性の「流行」にすぎなかったからだとも言えます。
 しかしそれだけでないのではないか。テクスト論にとって、作品を書いた作家についての知識は、作品を読む場合のコンテクストの一部にすぎません。あくまでも中心となるのは作品の構造分析です。(もちろんどうでもいい情報だと言っているのではありません。)ということはそれまで作者についての情報を営々と集積してきた研究は、あくまでもテクスト論を基軸に据えた文学研究に於いては副次的な情報でしかないということになります。しかしそのことを直視することは、多くの研究者にとって耐え難いことでしょう。外部の思想の世界では「テクスト」という言葉がごく普通に口にされているのに、現在の文学研究であまり口にされないのは、研究者の自己防衛で、意図的に回避しているとしか思えないのです。
 そこで現在の日本の文学研究に於いて、テクスト論は〈異端〉の思想なのだという結論に至ったのですが、どうでしょうか。(高口)

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