前田先生から高口先生が記事を書いているので読んで、それに応えてみなさいと言われて、いま読んだところですが、先生がわざわざ読みなさいとおっしゃった意味がわかったところです。本当なら、コメント欄に書けばよいのですが、ちょっと長くなりそうなので記事として書きたいと思います。
その前にひとつ。記事を復活させたのは実は前田先生です。前田先生が昔の記事のデータを偶然に保存していらしたようです。これで前田先生も消してしまった罪の意識から解放されたことでしょう(笑)
さて、本題ですが実は僕も最近、高口先生のように文学研究の手法やあり方、歴史的背景を自分なりにまとめたところでした。といっても、国語を勉強している後輩の学部生向けにまとめたもので、先生の書かれたような問いかけは含んでいません。もっと初歩的な、テクスト論って何?語り手論ってどういうこと?バルトって誰?というようなものです。多くは前田先生から学んだことですが、そこに僕自身が勉強したことを少し加えてまとめました。
なぜそのようなことをしたのかと言うと、僕は前田先生の講義でティーチング・アシスタントという役割を与えられているのですが、ティーチング・アシスタントとは学部生の勉強の手助けをするのが仕事ですので、少しでも前田先生の講義が分かりやすくなれば、と思ったからです。僕自身、前田先生の講義は学部生のときに受けており、他者論やテクスト論、語り手論のお話はちらほら聞いてはいましたが、正直なところ講義を受けただけでは理解しきれていませんでした。文学部でもありませんし、講義の中ではそこまで深く文学理論を勉強することはなかったのです。僕は、その後前田先生のゼミに入り、卒論を書く頃にやっとテクスト論や語り手論のおおまかなことが分かったくらいでした。それで、学部生のときに簡単にでもテクスト論や語り手論といった文学理論を知っていれば・・・という思いがあったのです。それに加えて、教員養成課程ということもあり、先生になったとき、教育実習のときの教材研究のために多少の文学理論は知っておいたほうが役立つだろうし、知らないまま教師になるのはいかがなものかという思いもありました。とにかく、そういう僕なりのいろいろな思いがあったのです。
僕は、高口先生がお書きになったようなことを運よく直接に前田先生から学ぶことができたので、そういう研究のありかたが当たり前だと思っているところもあり、正直、テクスト論が<異端>なのかという問いに対して、「え?そうなんですか?」と逆に問いかけてしまうような感じであります。つまり、僕にとってテクスト論は<異端>ではないというのが答えになってしまうので、僕がお答えしたところであまり意味はないものと思われます。
話はまったくかわってしまいますが、僕の今の関心は、文学研究と<複雑系>にあります。複雑系というのは、僕もあまり詳しく知っているわけではないのですが、数学の分野で起こった考えかたで、端的に言えば「複雑なものを複雑なまま理解する」ということのようです。そういう考えが起こってきたのには、実は化学の研究手法への限界と反省があったようなのですが、それは、今までとにかくモノを小さく分解することを中心にやってきたことへの反省です。モノは分子で出来ていて、分子は原子で出来ていて、原子には原子核があって・・・というような具合に、とにかく分解して小さな要素に分けていくのが化学の基本だったわけです。ところが、それでは解決できない問題が出てきた。「天体の三体理論」というのがその典型のようですが、詳しくは池谷裕二『進化しすぎた脳』をご覧ください。とにかく僕は、この本を読んで<複雑系>の概念に出会ったとき、それが前田先生のおっしゃる<主人公中心主義>の概念と急速に結びついたのです。主人公の心理や性質を細かく分析していくことで、その主人公のみならず、ひいてはその物語全体さえ分かったような気になっていたのではないかと思ったのです。その段階で、さらに<関係性>の理論が頭をよぎりました。関係性の読み、構造的な読みといったものは、「複雑なものを複雑なまま理解する」という考えに近いような気がします。多面的、多層的といってもいいかもしれませんし、いろいろ言い方は出来ると思いますが、文理を問わず、知の体系の全体的な流れは分解主義・個別主義から複雑主義・関係主義への向かっているのだということは確実だろうと思います。
しかしながら、「複雑なものを複雑なまま理解する」というのはそう簡単には出来ないことだと思います。具体と抽象、マクロとミクロ、部分と全体・・・それらのはざまに存在しているのが<複雑>なわけですが、そういうはっきりしない部分というのは、人間が根源的に嫌う部分でもあり、多くの人は<ゆらぎ>や<あいまいさ>というのを否定的なものと捉え、肯定的に受け入れようとはしません。そういうわけで、複雑なものを複雑なまま受け入れるには相当な訓練が必要だという気はしています。ですから、そういう力を学校教育や文学教育でどう養っていくのか、というのが僕の次の課題になります。採用試験前で、あまりラディカルな発言をするのは怖いのですが(笑)、少なくとも今の教育のあり方では難しいだろうと思います。教育課程全体を考え直す必要もあるかもしれません。まだそれは考えている最中です。
複雑なものを複雑なまま理解するというのは、人間にも言えることで、目の前の人間をありのまま受け入れるというような考えにつながるものでもあると思います。そしてそれは、簡単に相手を切り取らないということであり、他者論にもつながっていくものだと思います。「この人(あるいは作品)が分かった」と思った瞬間、我々は神になってしまうというのは前田先生から良く言い聞かされている話ですが、今はそれが身にしみて分かるような気がします。
まとまりのない文章になってしまいましたが、僕は今こういう考えをもっているというのを以て、高口先生へのお答とし、また、僕のこういう考え方はいかがでしょうか?という問にしたいと思います。(黒木豪)