昨年の秋以来、ご無沙汰していました。あまり忙しくない私ですが、昨年11、12月には発表報告を二つ抱え、そしてこの1月には修学旅行の引率と大きな仕事があってブログの記事を書く心の余裕がありませんでした。管理人の黒田さんには社会文学会の宮崎大会ではお世話になったうえ、ブログをご無沙汰して申し訳なく思っていました。これからは定期的に頑張って書いていこうと思っています。
その修学旅行先は実ははイタリアでした。とくにお金持ちでもない一般家庭の子供の通う私立高校の行事としては、費用の面でかなりきついものがあり冒険的な行事でもあります。それ自体の問題はいろいろありますが、まあイタリアに行けたこと自体は決してマイナスではありませんでした。
ところで実は私としては初めての海外旅行で、いろいろ驚きの体験もありました。文化遺産は別にして、イタリアで一番印象に残ったのは、買い物をしたときの店員の態度の横柄さです。個人経営の店舗はいいのですが、市内のスーパーマーケットや空港の売店など、買い物をするたびに横柄な店員の態度にはずいぶん不愉快な思いをしました。これは私が出会った人がたまたまそうだったというよりも、生徒達も全体的にそういう印象を受けたので、偶然ではなかったようです。不愛想で、買う場合の向こうルールをわきまえていないと露骨に不愉快な表情をされます。(舌打ちされた生徒もいたとか)あたかも売る側の事情も考えろと言わんばかりの傲慢な態度が印象的でした。
他には、BAR(バール)という個人経営の、立ち食いのファーストフード店を至る所に見かける代わり、日本ではごく普通に定着した自動販売機、コンビニ、ファースト・フードのチェーン店が見られないのも街の光景の大きな違いです。後で帰って島津菜津という人の書いた「バール、コーヒー、イタリア人」(光文社新書)という本を読んでみたら、やはりマクドナルドがあるくらいで、スターバックスなど外資の大型チェーン店はないそうです。ジェラートの本場に鳴り物入りで進出したサーティーワンはあっという間に閉店してしまったという話です。街の構造もあるのでしょうが「簡単便利」を旗印に世界を席巻する外資の大型チェーン店の進出しにくい国なのだそうです。実際スーパーの規模も都心にありながら、それほど大きなものではありませんでした。
そういうことから、帰ってローマでの不愉快な経験をよくよく考えてみたのですが、サービスを受ける側からすれば不愉快なことですが、売る方があれほど横柄で、それでありながら商売が成り立っているということは、視点を変えれば売る側にそれだけストレスのかからない社会だといえるでしょう。日本のように、とにかく客に快適さを与えるための至れり尽くせりの、どこまでも過剰なサービスを追求、提供する社会は、売る側(社員)にものすごく大きな負担がかかります。そのことが最終的にはどこまでも会社のため、顧客のための奉仕を強いられサービス過剰で挙げ句の果てには過労死を生み出す遠因になっていくわけです。(江戸時代の経営思想の影響もあるでしょう)しかしイタリアでそういう雰囲気が感じられず、しかも商売が成り立っているのは、彼らは売る立場と買う立場を別々のものとして切り離して考えず、買う立場がもしサービスを要求し続けると売る立場の自分たちにそれが同時に跳ね返ってくるということを知っているからではないでしょうか。もちろん島津さんの本には地域に密着して経営努力をするバールの経営者の話が出てきます。だから一般化はできないかもしれませんが、雇われる労働者にそのような努力を強要しない、また労働者の側もそんな努力までしようとは思っていない社会のように思いました。そういう意味で彼らは売る立場と買う立場を切り離して考えず、飽くなき利潤追求への努力がやがては我が身を滅ぼすということを知っており、働くバランスを大切にしている人々のように思いました。
生徒達はコンビニも自動販売機もなく、都心でありながら飲料水を手に入れるにしてもホテルから歩いて十数分かかるスーパーまで行かなければならないイタリアに、ずいぶん不便さを感じていました。たしかに買い物をするにもいつでもどこでも簡単に手に入り、しかも店員に不愉快な思いをしない日本社会に比べたら不便きわまりないところです。端から見ると、彼らはよく言えばおおらかだけど、なまけものでいい加減、そのために社会が「発展」しないんだということになるのでしょう。
得体の知れない物売り(明らかにイタリア人ではないマイノリティーです)や物乞い(老人でした)をよく見かけました。もちろんイタリアの社会問題についてはよく知りませんし、たがが数日の旅行というお客さんの目で見ただけで、調子に乗ってイタリアを日本に比べて良い社会だと言おうとしているのではありません。
今書店に行くと、アメリカのサブプライムローン問題に端を発して世界恐慌に突入するといった話題の本がやたらと目に付きます。今私たちは戦後の経済成長終焉の地点に立っています。昨年、自動車産業が軒並み赤字決算に転落したことは、戦後資本主義の終焉が一際強く印象づけられる事件でした。だからアメリカ化を頑なに拒否するイタリアの資本主義社会をみると、急速な経済発展を「民族の優秀性」の証とし、そのために経済の発展を支え、社会を支配してきた日本人の価値が、人類の長い歴史のなかで本当に人間を幸福にする普遍性を有する価値なのかどうか、それを反省させられます。
今日本の社会の貧困化が問題にされています。たしかに失業したり、派遣で労働法を無視した仕事に従事せざるをえない当事者にとっては深刻な問題です。しかし振り返ってみると、90年代に「リストラ」という言葉が登場したとき、経済誌などでこれから企業は「リストラの時代だ」という見出しを肯定的にかかげていましたし、労働者も会社のためにそれを肯定的に受けとめていたのを記憶しています。「リストラ」されるにしても、それは自分ではないはずだと、会社を守るためには仲間が「リストラ」されるのもやむをえないと自らの立場を忘れ、多くの労働者が会社に加担したのではなかったのでしょうか。
現在の社会問題の原因となった小泉新自由主義改革をやすやすと進行させてしまったのも、社会にまだ余裕があったときに、私たちは経済的な価値を優先させ、そのためには多少の犠牲もやむをえないと重要な価値を手放してしまったのだろうと思います。
だから景気が再びよくなれば、失業者がいなくなれば、経済的に豊かになれば、戦後日本の問題はかたがつくのでしょうか?今、社会の不平等に声をあげる人々が増えてきて、それ自体は評価できます。しかし依然、そういう声をあげている人たちが要求している問題も、日本の労働運動が高度経済成長とバブルのなかで解体したように、彼らの要求が満たされれば解体してしまうようなものではないのだろうか、これまでの日本人の過ちを根本的なところで反省しているのだろうか、そんな危惧をイタリアの社会を見ながら抱きました。(高口)