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普段なら外出して帰ったら必ずうがいをするんですが、1時間ぐらいの外出だったのでうがいを怠ったら、寝るときになってノドが痛くなりました。それに追い打ちをかけるように先週火曜日マラソン大会で吹きさらしの中に半日いて、体を冷やし風邪をこじらせてしまいました。腰が抜けたみたいになって二日間寝ていました。風邪は、ちょっとの油断が大事に至ります。みなさん、お気をつけください。
今年は暖冬といいながら、二月下旬になって関東の方は連日10度に届くか届かないくらいの、雨や曇りの日が続いています。天気予報を見ながら宮崎、岡山をうらやむ反面、会津の後藤さんから見れば贅沢をいうな、ということになりそうです。
ところで前回までの書きかけの「文学教育のなかの反戦平和について考える」の続きを載せたいと思います。

(承前)
 問題を具体的に今日の問題である文学や教育の問題に絞って論じていきたいと思います。本来は過去の教科書に一つ一つあたるという実証的な作業が必要ですが、ここでは私の提言を理解してもらえればよいので、その時間を省略し、自分の体験と記憶を頼りに文学と反戦平和教育の問題についての反省を行っていきたいと思います。
 
 私はこれまでに次のような作品を教材として取り上げてきました。

「俘虜記」(大岡昇平)
「野火」(大岡昇平)
「黒い雨」(井伏鱒二)
「火垂るの墓」(野坂昭如)
「祭りの場」(林京子)
「桜島」(梅崎春生)
「蘭」(竹西寛子)
「れくいえむ」(郷静子)

 そしてこれらの作品の内容の傾向は、①原爆・空襲の悲惨さを問題にしたものと( 「祭りの場」「黒い雨」「火垂るの墓」「れくいえむ」)と、②国家、軍隊の抑圧性・暴力性を問題にしたもの(「俘虜記」「野火」「桜島」「蘭」)に大別できます。
  ただし今、「作品」と言いましたが、これらの作品が教科書に収録される場合、分量的に制限があるためにやむをえないにせよ「火垂るの墓」「蘭」以外は全文収録ではないという問題があります。これまで余り問題にはされませんでしたが、切り取られた物語は物語全体を代表するどころか、むしろ切り取った編集者の意図の方が強く反映され、場合によってはもとの作品とまったく異なった物語になると言えます。ですから切り取られた作品は、文学作品であるよりも「教材」です。(この問題はもっと検討されてもよいと思います)
 もちろん戦争教材ですから、言うまでもなくそれらの作品を教材化する編集者の側に不当に戦争像を歪めようという意図はないでしょう。それぞれが戦争の悲惨さを切実に訴えるものであることは言うまでもありません。
 しかしそれでも問題にしなければならないのは、その「悲惨さ」の内実――これらの教材の表象する戦争像の問題です。このように教材を並列して振り返ると抜粋の仕方にある類似性があることが明らかになってきます。

 まずこれらの教材には、①「敵」(アメリカにしても中国にしても)との戦闘場面はほとんど登場しません。上記の作品では、唯一「俘虜記」のあの有名な冒頭で若い米兵を撃つかどうか主人公が逡巡する場面に、「敵兵」の存在が語られるだけです。
 ②だから戦争の悲惨さと言っても、語られるのは戦闘場面ではありません。「祭りの場」「黒い雨」「火垂るの墓」「れくいえむ」などで語られるのは、空襲・原爆といった「敵」の姿の見えない戦争災害です。さらに「火垂るの墓」「れくいえむ」などはそれに付随した深刻な生活問題を語っています。「野火」「桜島」などは軍隊の抑圧性を、「蘭」は抑圧的な社会のなかでひっそり生きる庶民を語っています。
 ③そしてそれらは物語性よりも記録性(しかも加害性ではなく被害性)が重視されています。これは部分抜粋のためにやむを得ない部分がありますが。
 ④さらに何よりも題材として取り上げられる戦争の時期は、15年間あった戦争のなかでも、「太平洋戦争」の末期だけだということです。

 このように教材として教科書に収録された戦争文学に表象される戦争は、「戦争」であるにもかかわらず、①のように戦闘場面が語られない、つまり交戦相手の見えない戦争ばかりです。戦争は、空襲や原爆のように市民にとってはあたかも一方的な災害のようなものとして語られ、戦争被害を伝えるにしても、空襲や原爆による被害や食糧難など国内の問題は非常に克明に語られるものの、帝国主義戦争での最も重要な戦場の問題はほとんど触れられることがないのです。「野火」や「俘虜記」のようにフィリピンの戦場が舞台となったにしても、語られるのは日本軍から離脱して戦場を彷徨する孤独な主人公の物語です。
 その代わり自国の国家や軍隊の抑圧性、暴力性は「野火」「桜島」「蘭」がよく語っています。「野火」の冒頭や「桜島」では理不尽で横暴な上官が登場します。また「蘭」は戦時下で自由にモノも言えず息を潜めて生きている庶民が語られ、これらは戦時下において如何に人間の自由や尊厳が抑圧されたかを告発しています。
 いずれにせよ教科書に収録される文学作品の取り上げる戦争像はある類似性――言い換えれば偏りがあるのです。「戦争」という非常に茫漠とした現象に対して、国語教材の表象する戦争像はあまりに一面的で狭隘なものなのです。
 ここに多くの問題が含まれていることはいうまでもありません。(続く)
(高口智史)

 

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