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やっとゴールデンウイークを迎えました。やはり4月はきついですね。
しかし北朝鮮の「人工衛星」発射や今回の新型インフルエンザの政府の危機管理や報道など、どこか政府もマスコミも常軌を逸していて、報道される内容よりも不気味です。私の拙い思考を状況の方がどんどん追い抜いていっているような感じがします。
ところでこのエッセイもこれで終わりにしようと思っていたのですが、長くなってしまい二回に分けて載せることにしました。すみません。

(承前)

 そこで現在、「反戦平和問題」をめぐって文学にどのような可能性があるのかという問題ですが、ここではその方向性しか提示できません。その具体的展開はこれからの私自身の課題ということにしたいと思います。

 まとめるとこれまでの戦争文学の読みは、戦争の悲惨さ、軍隊の暴力性を強調し厭戦観を煽る教育でした。そうなると文学作品で重視されたのは、どれだけ現象面で戦争被害を悲惨に描いているか、軍隊の暴力性を告発しえているかという問題だったわけです。そこでは戦争文学はこうあって、こう読まねばならないという読みが制度化されていて、それを誰も疑わない状況がありました。55年体制下での反戦平和教育はマニュアルにしたがって、それを「普遍的正義」として教員は教えることができました。しかし現在ではそれが不可能な状況に突入しています。
 文学という仮想現実体験を通して反戦平和の問題を理解するということは、今後も変わらないでしょう。しかしこれから問い直されねばならないのはその「悲惨さ」の中身です。これまでのように現象面で悲惨だというとき、それは国民体験という枠の中での「悲惨さ」であって、日本人の体験した戦争体験を人類にとっての普遍的な経験へと開いていくような視点は欠けていました。日本は「唯一の被爆国」ということが繰り返し言われても、その被爆体験を国家、国民レベルで国際的な反核アピールへと広げていくことができなかったのがよい例です。
 また戦争の悲惨さを想起するといっても、それは「なぜ戦争を起こしたのか」「自分たちはアジアの他者に何をしたのか」という戦争犯罪、戦争責任を日本人が自ら反省するという方向には開いていかない。戦後体制下に語られた戦争の記憶とは、アジアの犠牲者、闘って死んだ戦死者、その他の戦争の犠牲者など、現在の日本人にとっての〈他者〉を隠蔽-疎外した物語でした。戦後の共有化された戦争の記憶を支配していたのは生者のエゴイズムであり、〈他者〉を隠蔽-阻害するという共犯関係を結ぶことで共同体の一体化を図っていたのだといえないでしょうか。
 今日重要なのは、戦後体制を支えてきた我々自身であるところの生者のエゴイズムを超えて人類の普遍的視点に立った反戦平和思想をどうしたら持つことができるのか、人類の普遍的教訓としての反戦平和教育をどう展開できるかということなのだと思います。

 しかしもう一つの問題は、思想内容の問題とは別に、反戦思想の展開を阻害してきた政治的な力学の問題です。
 「正義のための戦争」と言う言葉が象徴するように、戦争という暴力は、暴力の反倫理性を隠蔽するために、つねに倫理的擬装を必要とします。また戦争が泥沼化すればするほど暴力は自己目的化し増殖していく狂気も孕んでいます。したがって戦争が政治として正当化されるためには、アナーキーな暴力の反倫理性は徹底的に隠蔽される必要があるのです。言い換えれば戦争が国民の合意を得るためには、戦争の表象は本質的に観念的、作為的なもの――所謂政治的なものにならざるを得ないのです。したがって戦争の記憶は選択、排除、捏造され、そして如何に表象としての戦争をリアルなものに偽装するかが、今日までの情報統制、情報操作の歴史だったと言えるでしょう。
 これは国民国家そのものについても言えることで、文化統制による〈想像の共同体〉の創出は、戦争によって生誕し、また戦争装置である国民国家が、その正統性を確保し=出自を隠蔽し、存立するために必然的に背負わなければならなかった問題だったのです。
 つまり国民国家に於ける戦争をめぐる言説や記憶は、つねに政治的な非対照性のなかに置かれつづける運命にあるということです。
 戦争の記憶の「風化」という問題も、それは人間の生理的現象に帰因したものではありません。「風化」も、アメリカ神話がまだ健全であった戦後体制のパラダイムでの極めて政治的現象であったといえるでしょう。しかし戦後体制が終焉を迎え、新たなナショナリズムによる新たな国民の一体化が求められる状況を迎えています。権力がシフトチェンジすれば、それに合わせて再び戦争の記憶が呼び覚まされるのであり、ナショナリズムの昂揚のために使用されるのが戦争の記憶であることは日本に限ったことではありません。
 したがって戦争の記憶や言説が、状況のなかでのどのような関係性のもとに置かれているのかというのは重要な問題なのです。(続く)
〔高口〕

 

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