しかしそうやって金銭的余裕が出来て、いろいろな指揮者や演奏家のものを聴き比べることが出来るようになると、同じ曲でもそれを指揮したり演奏したりする人間でまったく違ったイメージをもつことがわかってくるし、自分の持つイメージが、ある指揮者や演奏家のある一つの解釈でしかないことがわかってくる。
そうこうしながら次第に最高の演奏とは何だろうかと考えるようになる。そういう欲望を掻き立ててくれるのが「CDの名盤100」などと銘打った評論家による推薦盤のカタログ本だ。ところがそういう本に何冊か目を通していると、著者によって紹介されるCDが全く異なっていることがわかる。しかも読んでみると、音楽はもっとも言語から遠い芸術だから、評価についてもどうしても技巧的なものについての評価が多く、それ以上中身に踏み込むと主観的で抽象的な言い回しが多くなる。だから評者が個人の好みを「通ぶって」めいめいに主張しているだけじゃないかとも思える側面もある。
ただもう少し冷静になって考えると、このようなカタログ本の横行が示しているのは、一曲の解釈をめぐっても演奏の評価をめぐっても「絶対」というものが存在しないということである。存在しないどころではない。かりにただ一つの「ほんとう」が存在してしまったら、その後に続く者はただの亜流にすぎなくなる。
もしそんなことがあって、ただ一つの尺度しかなかったら、それに納得できない人間は二流の感性しか持っていないのだからダメだというのならファンは一斉に離れるだろうし、芸術は本当につまらないものになるだろう。芸術の活性化のためには曲のイメージ、評価を「唯一」に収斂させることは自殺行為なのであって、「差異」こそが命なのだ。
もちろん指揮者や演奏家、聴き手にも唯一の「ほんとう」を求める欲望は存在している。しかしその結果が「唯一」に収斂していくことはない。「私」を主張するためには、徹底的に「差異的」でなければならないからだ。なによりもそのような「ほんとう」のものを自分こそは手に入れたいという欲望自体が、記号としての音楽、芸術の持つ意味産出機能、あるいは想像性と、「表現」という差異、あるいは解放への欲望に支えられているからだ。
……続く (高口)
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