早速、コメントありがとうございました。
テクスト論は異端とは感じられないとのことでしたが、文学研究者の問題について述べたのは一つの具体例です。僕が言いたかったのは、テクスト論の持つ民主性?というようなものを、歪めたり排除してしまう日本の知的磁場の問題があるぞといいたかったのです。これは学問の問題にとどまらず、教育とは無関係な問題ではなくて、むしろ現場でテクスト論を展開することは(「十人十色の読み」)、正解主義と闘うことですから(しかも正解主義は僕の中にもずいぶんと浸透していますから)もっと厳しい問題としてあるのです。ちょっと言葉が足りませんでした。
また黒木さんから「どうでしょうか」と振られたので、今度は返事をしなければなりませんね。〈複雑系〉ですか。聞いたような、ないようなことなので、それについては何ともいえませんが、「目の前の人間をありのまま受け入れる」「簡単に相手を切り取らないということ」ならわかります。でも「関係性の読み、構造的な読みといったものは、「複雑なものを複雑なまま理解する」という考えに近いような気がします」というところは、ちょっと違うかなという感じです。
僕も前田先生からずいぶん教えてもらった人間ですが、「関係性」や「構造」がどういうものなのか黒木さんと前田先生の正統性を争ってもしかたがないので(笑)、僕なりの理解を述べさせてもらいます。
「関係」や「構造」という言葉を使用するとき、それはたとえば作品を客観的に分析するということではなくて、そこには「評価」の問題が入ります。つまり「関係」や「構造」といったとき、そこには必ず抑圧や排除の問題があって、それを明らかにすることが「関係」や「構造」を読むということになります。
作品には、語り自体が社会の抑圧や暴力を告発している(プロレタリア文学のように)見えやすいものから、語り自体が誰か(何か)を隠蔽排除して(たとえば「羅生門」の老婆を)見えにくいものもあります。
では語りが権力を告発しているからいい作品なのかというと、それが何かを隠蔽していたりします。たとえば石川淳の「焼跡のイエス」は戦災浮浪児を題材としながらも、彼らを作者の思想的関心から都合良く捉えているだけで、現実の戦災浮浪児の存在を直視しているわけではありません。ブログにも書きました「渦巻ける烏の群」は日本兵の悲惨な現実を語りながら日本の支配階級の暴力性を告発していますが、日本の支配階級の「被害者」である日本兵によって占領、抑圧されているシベリアの民衆の視点は語りの中から排除されていました。(登場人物の日本兵は、シベリアの民衆と敵対しているという意識もありません)
だから文学の場合、作者が既成の人間解放のイデオロギー(たとえばマルクス主義、フェミニズムなど)に立っているからいいかというと、そこには本人の自覚しない人間観の歪みが表現されてしまいます。ですから読者の前には、作品世界がフラットなかたちで読者に開示されるわけではなく、語りの権力構造によって見えたり見えなかったりするために、作者のイデオロギーで大雑把な切り方をするのではなく、緻密な語りの構造分析が必要とされるわけです。作品の構造分析とは、ひとつには語りのイデオロギー分析なのだと理解しています。
そこから〈複雑系〉の話に戻ると、どうしても人間は自分の関心や興味のないところは、目の前にあっても見ないというところがあります。「<ゆらぎ>や<あいまいさ>というのを否定的なものと捉え、肯定的に受け入れようとはし」ないという、そういう自分たちが陥りがちな偏見に対する反省、戒めとして「複雑なものを複雑なまま理解する」という姿勢はわかりますし、とても大切なことだと思います。しかし「複雑なものを複雑なまま理解する」ということが反省ではなく、認識能力の問題になって、「複雑」さという「ありのまま」の真実を捉えることが可能だというならば、それはテクスト論とは本質的に違うのではないかと思います。また、なにか「絶対矛盾の自己同一」なんて言葉をイメージしたり、「複雑なものを複雑なまま受け入れるには相当な訓練が必要だという気はしています」というと、「修業によって曇りなき認識を得る」そんな感じを抱いてしまいます。
また「複雑」さをフラットなものと見てしまうと、逆にそれは抑圧や排除を見て見ないことになりはしないか、そんな感じもいだきます。〈複雑系〉についての知識がなく、黒木さんが書かれていることからしか判断できないので、断定的なことは述べることができません。その〈複雑系〉のなかで、人間の視点の問題や僕が述べた意味での「構造」や「関係」の問題はどう考えられていますか、教えてください。(高口)
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