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試想の会のブログです。
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前に、「基調報告提出。その後、二、三ヶ月
寝かして、4月から6月討論、七月まとめということになりました。これ
と平行して各自、論文を書いてもらい、七月末に原稿を締め切ること
になりました。発行は八月末の予定です。」と書きましたが、
基調報告が遅れましたので、予定を変更することになりました。
一応、メール討論は、発月末から始め二ヶ月間の予定で行います。雑誌発行は、メール討論の
進捗状況にもよりますが、年末に予定しています。皆様には今少しお待ちいただきますよう御願い申し上げます。 前田角藏
後藤康二氏が亡くなってから同人仲間の中で、一種の空虚感がひろがり
「試想」も休刊状態に陥っていました。その後、再刊への努力をした結果
、やっとめどがたちましたことを報告します。八月十九日、横手さんも
加わり、まずメール討論のテーマを相談しました。一、文学的価値の問題、
二、戦後文学史の問題、三、戦中から戦後へ が上がり検討しました。
その結果、二の戦後文学史の問題を取り上げることになりました。
取り上げる作品は「五勺の酒」です。
スケジュールは、高口氏が12月末までに基調報告提出。その後、二、三ヶ月
寝かして、4月から6月討論、七月まとめということになりました。これ
と平行して各自、論文を書いてもらい、七月末に原稿を締め切ること
になりました。発行は八月末の予定です。
 しかしそうやって金銭的余裕が出来て、いろいろな指揮者や演奏家のものを聴き比べることが出来るようになると、同じ曲でもそれを指揮したり演奏したりする人間でまったく違ったイメージをもつことがわかってくるし、自分の持つイメージが、ある指揮者や演奏家のある一つの解釈でしかないことがわかってくる。
 そうこうしながら次第に最高の演奏とは何だろうかと考えるようになる。そういう欲望を掻き立ててくれるのが「CDの名盤100」などと銘打った評論家による推薦盤のカタログ本だ。ところがそういう本に何冊か目を通していると、著者によって紹介されるCDが全く異なっていることがわかる。しかも読んでみると、音楽はもっとも言語から遠い芸術だから、評価についてもどうしても技巧的なものについての評価が多く、それ以上中身に踏み込むと主観的で抽象的な言い回しが多くなる。だから評者が個人の好みを「通ぶって」めいめいに主張しているだけじゃないかとも思える側面もある。
 ただもう少し冷静になって考えると、このようなカタログ本の横行が示しているのは、一曲の解釈をめぐっても演奏の評価をめぐっても「絶対」というものが存在しないということである。存在しないどころではない。かりにただ一つの「ほんとう」が存在してしまったら、その後に続く者はただの亜流にすぎなくなる。
 もしそんなことがあって、ただ一つの尺度しかなかったら、それに納得できない人間は二流の感性しか持っていないのだからダメだというのならファンは一斉に離れるだろうし、芸術は本当につまらないものになるだろう。芸術の活性化のためには曲のイメージ、評価を「唯一」に収斂させることは自殺行為なのであって、「差異」こそが命なのだ。
 もちろん指揮者や演奏家、聴き手にも唯一の「ほんとう」を求める欲望は存在している。しかしその結果が「唯一」に収斂していくことはない。「私」を主張するためには、徹底的に「差異的」でなければならないからだ。なによりもそのような「ほんとう」のものを自分こそは手に入れたいという欲望自体が、記号としての音楽、芸術の持つ意味産出機能、あるいは想像性と、「表現」という差異、あるいは解放への欲望に支えられているからだ。
……続く   (高口)

 
 学生会館のことは、前田先生と北の丸公園・千鳥ヶ淵に花見に行ったときに話を聞きました。しかし知らない僕らには昔から現在のような場であったように思えるから驚きです。
 とくに東京と言う場所に住んでいると、大資本によって町がありえないような変貌を遂げて行きます。そして10年も経つと、以前そこになにがあったか忘れ去られ、あたかも昔からずっとそうであったようなことになってしまいます。だから権力による歴史の捏造には気付きにくいし、だからつぶされていく、消されていく者の側の記憶に固執し、それを問い続けていくことには、私たちを支配している権力が何なのかを問うことでもありますね。

 ところで職場の高校の二学期と言うのは、夏休みが終わって生活のリズムが壊れ、しかも暑さで体が弱っているところに怒涛のように学校行事が行われるので、10月下旬の中間テストまでは息もつけません。最近、その緊張から解放され、たまった疲れが出たのか体調がいまひとつという感じです。心のリハビリではないのですが、僕も自分の趣味について文章を書いてみました。個人的なことばかりダラダラ書いていますがご容赦ください。


 30代の頃はジャズに関心があって、ジャズばかり聴いていたが、40代の後半になると再びクラシックが聴きたくなって、クラシックのCDを図書館で借りたり中古屋で安く買ったりして聴くようになった。クラシックの面白いところは、好きな曲に出会うと無数の異なる演奏家の演奏を聴き比べることが出来ることだ。最近ではブラームスの交響曲第二番やシベリウスのヴァイオリン交響曲が気に入って、いろいろなCDを聴き比べてみた。 ただ私は音楽はもっぱら聴くだけで、理論や演奏技術のなど専門的なことについてはわからないので音楽評論など書けない。ただ音楽を聴いていて文学を考える上でのヒントをもらうことがある。クラシック好きの人からすれば自明のことでも、それが文学にくるとそうではないということがある。そんなことで気づいたことについて書いてみようと思った。

 先日、市の図書館でやっとパブロ・カザルス指揮の、モーツァルトの後期交響曲を集めたCDを見つけた。借りたいとは思っていたのだが、いつも誰か借りていたのでお目にかかれなかった。昔レコードで聴いていたマルボーロ音楽祭でのライブ録音のCD版で、レコードはA面が38番「プラハ」でB面が39番だった。「プラハ」の第一楽章の第二主題の木管楽器の掛け合いがきらきらした木漏れ日のようで(――なんて気取っているのではなくて、音楽の言葉で表現する術を知らないので)大学生の頃、最も好きなレコードだった。それからレコードが聴けなくなって、他の指揮者の「プラハ」を聴いたがカザルスに及ぶものはなく、CDの存在は知っていたがめぐりあう機会はなかったのだ。
 懐かしかったので早速借りてきて、大きな期待をもって聴いてみた。だが実際聴いてみてがっかりした。なにか「やたら威厳はあるのだがのったりした」その演奏が「古色蒼然」という感じで、それまで大切に抱いていたいたイメージが裏切られたような感じだった。初恋の人に同窓会で再会してがっかりするような、誰でもよくあることだ。昔のイメージを抱き続けるうちに理想化しすぎてそれが一人歩きしてしまったということだ。
 ただその時「クラシック」という音楽自体にも、新しい、古いということがあるんだなあと、改めて面白く思った。

 ところでこのように、一人ひとりの聴き手にとって曲のイメージを決定づけるのは最初に聴いた演奏、もしくは最初に感動した演奏であって、特にレコードやCDの場合は繰り返し何度も聴くので、一つの曲をめぐるイメージは誰の演奏を聴いたかに大きく左右されてしまう。それほど豊かでもない田舎の子供だった私は町のレコード屋にも頻繁に通えるわけはなく、買った一枚のレコードを何度も何度も大切に聴いた。そういう場合ほど、そのレコードによって与えられる曲のイメージは決定的だ。
 たとえば私にとっての「プラハ」はカザルスのものだったし、ベートーヴェンの交響曲とジョージ・セルという指揮者は切り離すことが出来ない。当時カラヤンのレコードは2500円だったが、セルのレコードは廉価版と言って1300円で買えた。だから当時ジョージ・セルが何者だか知らないし、好き嫌いの問題ではなく、経済的な理由からセルのレコードばかりを買って聴いていた。このセルの影響は大きいもので、軽快なテンポで、細部に装飾のないシャープな、統一感のとれたジョージ・セルの指揮に慣れると、その後当時人気のあったカラヤンのレコードを聴くと大仰な芝居めいたものに聴こえて仕方なかった。だから今でもカラヤンは好きではない。ただ私は専門的なことはわからないのでたんに好き嫌いの問題でしかないが。
……続く  (高口)
 

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