このように1945年の67万人の虐殺という視点で考えるとき、日米を呪縛する、「戦争を終わらせるためにはやむを得なかった」という戦後の原爆神話の抱える問題性が見えてきます。この原爆神話は、原爆を政治の延長の手段(物語)として捉えようとするものです。アメリカがそのような物語を必要としたのは、原爆の暴力性、犯罪性を隠蔽するためです。そのためには空襲と原爆を切り離し、空襲の記憶を隠蔽する必要がありました。
それに日本の支配者が加担したのは、自らの保身のために67万の人間の虐殺を見て見ぬふりをしてきた自己の戦争犯罪を隠蔽するためです。軍部にすべて責任転嫁をして、自分たちと日本国民はアメリカに救われたという物語によってアメリカの戦争犯罪の隠蔽に加担し、戦後の支配の正統性を獲得したわけです。
第二次世界大戦では、戦争という暴力を開放した人類がそれを終結させる理性を喪失し、むしろ理性をその暴力の開放に使用し、最終的には自らを消滅させる力を持ってしまったという体験でした。近代的な人間信仰にとどめをさした体験が第二次世界大戦であり、その象徴がアウシュビッツであり、ヒロシマ・ナガサキであったわけです。しかしこのような問題性は、戦後、原爆の当事国では、権力のヘゲモニーによって隠蔽され、皮肉なことに当事国以外の方が見えるという倒錯が起こってしまったわけです。
「夏の花」では、被爆した当日、避難した河原で出会った一人の兵士が「ふと、「死んだ方がましさ」と吐き棄てるように呟」き、そして「私」はそのときの心境を次のように語ります。
私も暗然として肯き、言葉は出なかった。愚劣なものに対する、やりきれない憤りが、この時我々を無言で結びつけているようであった。
この「愚劣なもの」とは何を指しているのでしょうか。授業で生徒に質問したところ、いろいろな答えが返ってきました。「アメリカ、日本、日本の戦争指導者、戦争、原爆、被害の光景そのもの」、そしてそのような状況に対してまったく無力な人間というのもありました。「愚劣なもの」という抽象的な表現であるだけに、この言葉は一元的な意味に回収されない多義性を持っています。
「死んだ方がましさ」という兵士の実感は、この現実世界総体を否定した言葉です。広くとれば、人間そのものに対する憤りとも考えられるでしょう。この「愚劣なものに対する、やりきれない憤り」とはこの生活世界を破滅させるものに対して二人が共有するものにほかありません。それは個人的なものではなく「我々を無言で結びつけている」と「私」には感じられますが、しかしこれもまた「愚劣なもの」としか表現できないもの――「これ」と名指すことのできないものであるに違いありません。
しかしまた別の考え方も出来ます。なぜ「私」たちは、この「愚劣な」状況を出現させたものを見極め、そして糾弾できないのでしょうか。それはこの生活世界の崩壊の予感のなかで、ただ息をひそめてその時を待つしかない「郷里」の人々のありかたとも対応しています。そしてこれは「郷里」の人々の問題だけではなく、67万人という人間が無抵抗に虐殺されていきながら日本人の側からなんの動きも現れなかった歴史とも対応しているでしょう。
なぜ日本人は滅亡の運命を座して待つしかなかったのか、「一億玉砕」に抵抗できなかったのか、なかなか難しい問題ですが、その原因を戦後の思想家は日本人の封建的心性に帰していました。しかし私はそれは単純に「国民」を挙げてこの戦争を支持したからだと思います。そういう意味でいえば「愚劣なもの」の中に日本人も含まれるのです。つまり「愚劣なもの」とは「我々自身」でもあるということで、そのために「私」は「愚劣なもの」を対象化できなかったとも考えられます。
ふつう原爆文学と言われる作品は、これまで記録文学としての側面が重視されてきました。ここにきて私が苦しんでいたのが、記録性は重視しながらも、文学作品(特に語りの構造や文学言語のレトリック性などの側面)として読むということでした。なぜなら記録性の部分だけでは、生徒にとってグロテスクではあるものの、あまりに見慣れたものであるために心を動かされるような新鮮味に欠けると思いました。彼らにとって大切なのは、悲惨さを知るということだけではなく、どのような悲惨さなのか、その意味を考えるということなのではないでしょうか。
そこで戦後の比較的早い時期に書かれた、しかもその記録を直後に書かれた手帳のメモをもとにして書かれた「夏の花」の場合、「戦後」の視点によって分節化されない原爆体験の衝撃性を書き残すことができたという点で稀有な作品だと言えるでしょう。随所に詩的表現が使用され、文体に一貫性がありませんが、それは原が詩人だったからということではなく、むしろ対象化しえぬものを表現しようとする作者の苦悩の表れとも言えるでしょう。そういう意味でこの詩的表現を考えることには積極的な意味があるのです。「夏の花」は原爆の記憶を共有していくという意味で、原爆の記録としてだけではなく、その文学的表現に着目することによって、原爆に対する認識を新しく切り開く可能性を持った作品なのではないかと思います。(ただこれを授業でどう教えるのかというと難問ですが) (終わり)
(高口)
「夏の花」の最後は、妻の遺体を探し、原爆で即死した人々の死体の群れの一つ一つの顔を覗き込み広島の市街を歩きまわるNの話で締めくくられますが、読者にとってはそれは表情を奪われたモノ化した抽象的な死でしかありません。しかしNにとってそれは、妻を求めるために死者一人ひとりの表情と向き合っていく絶望的な彷徨にほかありません。そしてついに妻を見つけることのできなかったNが再び妻の女学校に戻るところで物語は閉じられます。もちろんそれは一度調べた女学校を念のためということではないでしょう。Nは大きな徒労感を抱えたまま、また女学校を調べ、そしてまた自宅に戻り、それから妻を捜して彷徨った道を再びたどり直すに違いありません。そして妻を捜す彷徨はいつまでも終わることがないのです。(この問題は「廃墟にて」につながっていきます)
この「夏の花」の終わりには「究極の暴力」を前にした人間存在の空虚さが対照的に語られていますが、そこには何か大きく暗く深い喪失感が漂っています。その喪失感とは何でしょう。
今日でも私たちはこの戦争を「民主主義とファシズムの戦争」と、戦争を政治的、あるいはイデオロギー的でもいいが、何か意味あるものとしてとらえようとしている。そこにはまだ戦争というものに対する幻想が存在します。しかし「私」が「銀色の虚無の広がり」の中に見たものは、そのような幻想がすべて剥ぎ取られたむき出しの暴力です。それと表裏して、最後にこの物語の終わりに漂うものは、人間が人間自身を滅亡させてしまうという究極の暴力を開放してしまった人間への絶望、人間信仰の崩壊ではなかったでしょうか。
ところで最初に「夏の花」の「崩壊」の問題を時代状況との関連で考えて行こうと思った、なにかこれまでの原爆観に違和感を感じ始めたきっかけは、インターネットのウィキペディアの「日本本土空襲」というページを読んだときからでした。そこには日本本土空襲に関する年表と統計とが詳細にまとめられています。そこを見て異様なのが1945年の3月の東京大空襲を始まりとして8月までの5カ月間、日本の主要都市の空襲が止むことなく始まります。この非戦闘員を対象とした無差別攻撃による死者は23万人に上ります。そしてヒロシマ・ナガサキの死者を入れると57万人です。無差別大量殺人としての空襲との関連で考えた時、ヒロシマ・ナガサキの原爆とは特別な出来事ではなく、この無差別大量殺人の発想の一環なのです。それに並行して戦場と化した沖縄戦での一般市民の死者を加えると67万人になります。(もちろん大陸では日本人はこれと逆のことを行っているのですが、その問題はここで措きます)
なぜこのような結果を招いたのか、「戦争は悲惨だ」などという大雑把な考えだとこの1945年の問題は見えなくなります。前にも書いたように1944年までと45年では戦争が大きく質的に異なります。67万人という非戦闘員が無抵抗に虐殺されていきながらも戦争が終結しない「1945年」が投げかける問題は、戦争遂行能力を失ったにも関わらず戦争を終結させることの出来ない日本の戦争指導者の判断力の欠如です。自己の保身のためだけに67万人の死を何とも思わず「本土決戦」「一億玉砕」を唱えることは狂気以外のなにものでもありません。
それと同時に、もはや戦闘能力を欠如させた敵に対して、ついには無差別に67万もの無抵抗な人間の虐殺を遂行するアメリカを囚えていたのもまさに狂気でしょう。
つまり1945年の日本の戦争のどこにも政治など存在しないのです。そこにあるのは自己目的化した虐殺という剥き出しの暴力であり、エスカレートして正常な判断力を失い、自らの保身のために国家を滅亡の淵にまで追いつめてしまった愚劣な狂気以外のなにものでもありません。そういう意味で糾弾されるべきはアウシュビッツだけではないのです。(すみません。まだ続きます)
(高口)
「私」や次兄たちの乗った荷馬車が爆心地に近づいていくとき、偶然甥の文彦の遺体を見つけます。「見憶えのあるずぼんに、まぎれもないバンド」で文彦だと判別がついたのですが、「投出した両手の指は固く、内側に握り締め、爪が食込んでい」るその様は即死だったことを物語っています。
それを不気味な予兆として、さらに「目抜き」を通るとそこに見えたのは「銀色の虚無の広がり」、あるいは「精密巧緻な方法で実現された新地獄」と表現される「すべて人間的なもの」が「抹殺され」た廃墟でした。
詩に表現された「スベテアッタコトカ アリエタコトナノカ/パット剥ギトッテシマッタ アトノセカイ」と表現される、いまだかつて見たこともないこの「銀色の虚無」への驚愕はもはやリアリズムでは表現できません。そこで「この辺の印象は、どうも片仮名で描きなぐる方が応わしいようだ」と、「ギラギラノ破片ヤ」で始まるあの有名な片仮名の詩が挿入されます。
ここで「私」が必死にもがきながら表現しようとしている「新地獄」を目の当たりにした想像を絶する驚きは、もはや原爆の悲惨さを映像や語りで十分知ってしまった私たちにとって逆にわかりにくいものになっています。だから生徒にとっても、悲惨ではあるが「私」の衝撃はあまりリアリティを持ったものとして今日の読者には伝わってこないのではないかと思います。(実は私はこの点、この「私」の衝撃をリアリティをもって受け止めることのできない私たちを知らないうちに呪縛する読みのコードが問題だと思うのですが、これについては後で考えたいと思います。)
「私」の衝撃は、この兵器が人間世界を一瞬にして廃墟にしてしまったということでした。最後の妻の行方を広島の街中を探し回るNの話で比喩的に語られているように、おびただしい人間の死の果てに、さらに「廃墟にて」でさらに展開されるように人間が消滅していまったのです。
それまでの日本人にとって戦争の悲惨とは、招集された兵士が国外の戦場に連れて行かれ戦って死ぬことでした。今日の私たちは空襲や原爆を戦争での当たり前の現実として何も疑問に思っていませんが、国内が戦場になり非戦闘員が無差別に殺されることなど想定外のことだったはずです。(もちろん防空関係の書物はアメリカとの開戦以降増えて行くようですがリアリティはあまりなかったでしょう。)「夏の花」では「私」が被災した場を目の当たりにしながら子供の頃の思い出の光景を思い出す箇所がありますが、それは眼前の「破壊」を受け入れられないからでした。
日本「本土」で生活する人々にとって、戦争の質が一挙に転換したのは1945年3月の硫黄島の日本守備隊の全滅、そして東京大空襲でしょう。これによって「本土」で生活する人々にとって生活の場が戦場になる可能性が現実のものとなったとともに命の保障が失われたわけです。
いつかわからない滅亡に向けて、それをただじっと息をひそめて待つしかない――それが、この作品冒頭を支配していた「崩壊」の予感でした。そしてそれが8月6日、ついに現実のものとなったわけですが、「私」はこの3日間を通し、そして図らずも爆心地を目の当たりにすることによって、そこを「新地獄」と喩えたように、人間を、そして人間世界を一瞬のうちに消滅させてしまう、それまでの空襲とは違う想像を絶する暴力だったことを知るわけです。
私たちは原爆後に生まれた人間であるため、ある意味で鈍感になっていますが、それまで戦争と言うのは、クラウゼビッツが「戦争は政治の延長の手段」と述べたように、政治的目的が達成されればそれで戦争は終結したはずでした。ところが「私」の見た光景は、それはもう「戦争」とも言えないかもしれない、相手そのものを世界から抹殺してしまう「究極の暴力」だったのです。
作品内現在の「私」はそれがまだ「原爆」ということを知りません。だからそれは分節化されえない「究極の暴力」であり、だからそれは詩という比喩でしか表現できなかったと言えるでしょう。ところで戦後の私たちは、それを「原爆」と名付け、さらにはそれを「日本の戦争を終わらせるためには仕方なかった」と「政治の延長」神話によって意味づけることによって、その「究極の暴力」を隠蔽してきたのでした。だから「夏の花」の意味は、「私」のルポルタージュの視点によって、戦後の政治の中で分節化=隠蔽化される以前の「究極の暴力」を捉え得たところにあると言えるでしょう。(続く)
(高口)
「試想」のホームページが新しくなりましたね。黒木さんご苦労様です。今年の前半は、宮崎は口蹄疫の問題で大変でしたね。もう落ち着いたでしょうか。
こちらはこの前夏休みが終わったと思ったら、いつの間にか10月も半ばで中間テストを迎える時期になりました。「夏の花」の授業は迷走したまま終わりそうです。どうしたら生徒の認識を切り開くことが出来るのか、彼らは答えしか求めようとしません。思考することになにか頑固なほどに臆病な感じがします。「夏の花」自体はそれなりに新しく読む方向性が見えたかなという感じがしますが、肝心な授業がそうはいかずちょっと空しい感じがしないでもありません。生徒の積極的参加をどう導き出すか、自分の授業スタイルももう限界だなと思っています。
とりあえず今回「夏の花」で考えたことを書き留めておきたいと思います。
教材として収録されているのは今日『夏の花』三部作と言われる短編集のなかで最初に発表された短編「夏の花」です。そこで話がややこしくなりますが、この「郷里全体」を支配していた「崩壊」の予感については、二年後1949(昭和24)年に発表された、原爆投下までの出来事を語った「壊滅の序曲」を念頭に置くかどうかでずいぶん違ってきます。
「壊滅の序曲」では戦争末期に郷里広島帰省した正三を中心に、ふたりの兄と妹とのエピソードが語られます。3月の硫黄島「玉砕」の報道から始まり、地方都市が次々と空襲されていくなか「防空要員」として疎開することもできず、ただ無抵抗に敵の空襲を待つしかないという終末的時間のなかでエゴイスティックになって亀裂の入っていく4人の兄弟の関係が語られ、それだけでなく戦争末期の、隣組の防火演習の残忍な教官をはじめ、すさんだ人々の姿が、状況に適応できず厄介者として不器用に傍観者として生きる正三の視点から捉えられています。
この解体していく家族である4人兄弟をはじめ、広島の人々の姿は、戦争末期の追いつめられた状況のなかで共同性が腐敗的に解体していく日本の比喩にほかありません。そして物語は、最後の清二がつぶやく「どうか神様、三日以内にこの広島が大空襲をうけますように」という戦争末期の広島、そして日本の「壊滅」を待ち望む祈りに収斂していきます。
「三部作」を念頭に置くと、短編「夏の花」の主人公が「郷里全体」に感じていた「やわらかい自然の調子を喪って、何か残酷な無機物の集合のよう」な感じは、戦争末期の腐敗していく日本人の共同性を受けるかたちになり、このような状況に「夏の花」では原爆が投下されるということになります。この場合「原爆」とは「壊滅」という言葉が世界の消滅を連想させるように神による最後の審判のような意味合いを持つわけです。
しかし作品の書かれた順序を考慮すれば、「壊滅の序曲」の世界は原爆が投下される前に「夏の花」の主人公が「郷里全体」に感じていた「やわらかい自然の調子を喪って、何か残酷な無機物の集合のよう」な感じについて、原爆体験の手記を書き終えたあと、遡行的に見い出されていった「過去」であることが分かります。
もちろん「壊滅の序曲」と「夏の花」とを連動させて三部作として読む意味はあるにせよ、「壊滅の序曲」は、作者が「夏の花」を書いたときに感じていた「崩壊」となにか微妙に違うのではないかと思うのです。原爆体験直後にはあって、その後戦後の時間の経過の中で逆に消えていってしまったものがあるように思います。
もちろん「夏の花」のなかでは「崩壊」の予感について具体的なことは何も語られていませんが、逆にそのことが読者の自由な想像の介入を許します。そこで「夏の花」で語られた「崩壊」の予感をもう少し広く1945年という歴史的コンテクストの中で考えてみたいと思いました。
なぜそんなところにこだわるのか、自分でもまだよくわからない点があるのですが、どうもそこに、これまでの「原爆文学」をめぐる戦後日本人の読みの枠組みの持つ問題があるように思うのです。
(高口)