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試想の会のブログです。
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無事に春休みに突入しました。今年の2年生のクラスは初めての共学クラスということもあって、この年齢になって初めて体験するような苦労もあり、特に2学期は足取りが重い毎日が続きました。でも終業式の日にみんなから寄せ書きをもらい、ありがとうと言ってもらいました。(ただ、その日にクラス替えがないことがわかったのですが)生きているとたまにはいいことがあるものです。それにつけても、最近の職場の同僚はクラスをどうするかよりも、学力をどれだけあげたか、進学実績を上げることができるかということに血眼になっています。こういうことに感動している私は既に「古典的」な教員なんだろうか、と寂しい気持ちもしています。

(承前)
 以上の戦争教材の問題点を整理すると、次のようになります。
① アメリカとの敵対性(アメリカの戦争犯罪)の消去
② 日本の戦争犯罪の消去
③ 戦争の歴史性(物語性)の消去
④ 軍部への責任転嫁=だまされた被害者としての国民

 これらの傾向から、戦争教材の中心に語られない闇=禁忌が存在しており、それが戦争責任の問題であることは明かです。①から③までの傾向は、読者の関心が戦争責任の問題(日本のアジアへの責任と同時に、アメリカの日本への責任の問題もあります)に及ぶことを回避します。そういうなかで④のように、一点だけ軍部の横暴さだけをクローズアップさせ、戦争責任をめぐる関心をそこに集中させるわけです。 
  このような戦争教材を通して、たしかに戦争は二度としてはいけない、すると悲惨な目に遭うという教訓を得ることはできます。そしてこのような結果、我々戦後の日本人には次のような戦争観が共有されていったように思います。次のようにまとめてみました。

「日本人は好戦的な軍部に騙されて戦争をしてしまった。そして軍部に盲従した結果、勝てるはずもないアメリカまでを敵に回して、日本人は原爆や空襲という一般市民まで巻き込む大量の犠牲者を出してしまった。しかし民主主義国家アメリカへの敗北は、軍部に騙されていた被害者の日本人の軍国主義からの解放を意味していた。日本人が多大な被害を受けたこと自体は自業自得で仕方がないことだが、これからはアメリカから与えられた平和と民主主義を遵守し、二度と悲惨な戦争を繰り返さないようにしなければならない。」

  ここにまとめた戦争観は現在ではその歪みがよく認識できます。しかし1980年代までは自然に日本人の間で共有されていたものではないかと思います。前田先生が問題にされているこのような一国主義的な戦争観は60年代後半の全共闘運動の過程で反省されつつありましたが、運動の潰滅は逆に一国主義的な戦争観の制覇をもたらしました。90年代になって歴史修正主義者たちは、日本の歴史教育での戦争観はアジアに対する加害性ばかり強調して、ひたすら日本の行った戦争を断罪することしか教えない〈自虐史観〉だと批判しました。しかし教育現場や社会において戦争責任の問題は、同じ90年代に従軍慰安婦問題が起きるまでは明るみに出されることはなかったというのが私の印象です。(もちろん良心的な先生で日本の戦争責任の問題を授業で取り上げた人もいたでしょう。しかし、やはりそれは一般的な事例ではなかったと思うのです)
 したがって皮肉にも私は歴史修正主義者の言う〈自虐史観〉はやはり「買い被り」ではないかと思うのです。戦後日本の反戦平和教育には、アジアへの戦争責任への視野は失われていました。日本人が戦争をしてまずかったと反省するのはアメリカに対してだけだったのです。
 しかしそれも根本的な反省ではありえませんでした。戦争責任は占領軍によって解体された軍部に押しつけて、一億総被害者となってアメリカによる救済神話をつくることで、日本人は自らの戦争責任への問いを隠蔽してしまったのでした。(しかも先進国としてのプライド=ナショナルアイデンティティーは隠微に保たれたのでした。)
 それは戦後に「戦争」と言うとき、それは「太平洋戦争」(しかもほとんどが対米戦のみ)を回顧することでしかなく、日中戦争を含む十五年間の戦争をトータルに問う歴史観ではなかったことと表裏していました。

 ただそれはアジアへの戦争責任のみならず、同時に原爆や空襲といった、日本の非戦闘員に対して無差別大量殺戮を実施したアメリカの戦争責任の問題ですらも問題化しなかったのです。そこには軍部にだまされて経済大国アメリカにまで戦争を仕掛けたのはバカだったのだから、こんなひどい目に遭ったのは仕方がない、自業自得だという諦念が存在していました。これは戦後、日本はアメリカによって軍国主義から解放されたという解放史観と表裏の関係にあるでしょう。だから私は戦後日本を支配した歴史認識は〈自虐史観〉ではなく〈自業自得史観〉だと思っているのです。
 つまり戦後の戦争観は、他者不在の、戦争責任問題を回避したうえに構築された一国主義的な戦争観だったといえるでしょう。ですから戦争に対する反省といっても、この〈自業自得史観〉の導くところは、アメリカとの共犯関係によって築かれた平和と民主主義、経済成長――要するに安保体制によって支えられた〈戦後体制〉という現状肯定(「戦争はしないほうがいい」「今に生まれてよかった」)なのです。それはこれまでも指摘されてきたように「反戦」というより「厭戦意識」というものでした。
 つまり戦後日本の教科書における戦争教材は、安保体制の枠組み(アメリカだけを向いてアジアとの対話は拒否する)に規定されていたので、現場でなされていた戦後日本の文学における反戦平和教育はそれを批判的に捉えるような普遍性を持っていたわけではないのです。
 冷静に振り返れば教科書検定という国家による検閲制度の枠の中で戦争教材は選定されていたわけで、そのイデオロギー性について文学者、教育者が全くノーチェックだったことも反省する必要があるでしょう。
 ですから教員がどんなに不満をもったにしても、安保体制によって規定された現状肯定の反戦教育の結果が、「戦争はよくない」「今に生まれてよかった」というステレオタイプの感想に帰着するのもやむをえなかったといえるのです。(皮肉にも「現状肯定」という政治的機能は立派に果たしていたのです。)(続く)
〔高口智史〕
 
 

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ずいぶん暖かくなってきました。学年末テストも終わって、あとは終業式を迎えるばかりとなりました。知らないうちに前田先生が阿万鯱人について書いておられて驚きました。僕も阿万鯱人という作家については昨年の宮崎大会に行って知った次第です。私たちの文学観が如何にジャーナリズムの影響から自由でないか、文学者はその点について反省する必要があると思うのですが、最近の「蟹工船」ブームを見ても引きずられっぱなしですね。ところで懲りずに「文学教育のなかの反戦平和教育について考える」をまた書いて行きたいと思います。

 (承前)
 教科書の教材に表象される戦争像の抱える問題点について考えたいと思います。
 戦争教材を取り上げる平和教育の目的は、言うまでもなく戦争の悲惨さを生徒に理解してもらいたいという点に一番の重点が置かれています。しかし先に述べたように、教材に語られる戦争像は非常に偏狭なものです。
 まず①のように「敵」―交戦国との戦闘場面がないということは、戦闘の中で暴力を行使する主体が物語の表層に露出することがないということです。さらにアジアに対する日本の侵略行為に関する物語そのものも見あたりません。アジア侵略の物語そのものが国語教材の中から隠蔽されているわけです。社会的にはアジアへの戦争犯罪が問題とされるにしても、その暴力を行使する主体としての日本兵の存在そのものが教材から隠蔽されているのです。(そして同じ事は逆のアメリカの加害の問題――原爆、空襲と言った無差別大量殺人についても言えます)日本軍の招いたアジアの「悲惨」は戦争教材の中から全く欠落しているのです。
 このように暴力を行使する主体の語られない、「敵」の登場しない戦争は、物語性より記録性を重視するという③の問題とも関係して、読者の内部で「敵」の/への暴力=加害/被害の問題が意識化されにくくなります。②で述べたように、原爆や空襲のように戦争の語りの多くはあたかも自然災害のように語られます。現象的な被害だけが印象づけられ、他者との関係において戦争が物語として捉えられないために、なぜこうなったのかという因果関係を追求する想像力は鈍磨させられてしまうのです。
 その一方、交戦する他者不在のなかで、「野火」「桜島」などで軍人の横暴さだけは強調されます。(もちろん作者の意図とは異なります)これは教材に限らず、戦争小説やドラマなどでは一般的なことです。それに対して庶民はいつも横暴な軍人の被害者です。ですから「敵」という他者不在のなかで、軍人の存在が庶民の怨嗟を一手に引き受けるかたちになるわけです。皮肉なことに読者にとって、民衆にとって具体的な「敵」として意識されるのは、交戦国であるよりも内部の日本軍人ということになるのです。空襲や原爆、食糧難などの「悲惨」を通して、教訓的に「戦争はしないほうがいい」、「するととんでもない目にあう」という意識は持つでしょうが、なぜそうなったのか、何が国民を戦争に駆り立てたのか、なぜ戦争はいけないのかといった、最も重要な部分である加害/被害、戦争犯罪=戦争責任の問題は、すべて軍部に責任を押しつけるかたちになります。
 その結果、狂った軍部にだまされて、「強く正しい」アメリカと戦争をしたのはバカだったのだから、こんなひどい目に遭うのは仕方がない、自業自得だということで、そこからは他者との関係における加害/被害についての思考は欠落してしまうのです。
 しかも④で述べたように、アジアの戦争は消去され、語られるのは「太平洋戦争」、しかもその最末期、大岡の作品以外は1945年の国内の戦争被害だけです。太平洋戦争が、そして1945年の戦争被害が、一五年間、大陸から東南アジア、太平洋へと拡大していった一連の長い戦争の帰結であることを隠蔽する結果になっているのです。日中戦争の軍需景気によって恐慌から立ち直って、次第に国民生活が戦争経済に巻き込まれて行き、国民もその戦争を積極的に下支えしたこと、そのために後戻りを不可能にしたこと、そして構築された総力戦体制国家が国際的な軋轢を増大し、最終的には日本経済を支えていたアメリカとの戦争という破滅的な自己矛盾を犯し国家そのものが破滅の危機に瀕した歴史的な問題などは、戦争教材の戦争像にとっては外部の問題なのです。しかし少なくとも1945年の想像を絶する国内の惨状は、この一五年間の長い戦争の帰結として捉えなければ考えられないものでしょう。
 このように、なにがあのような「悲惨な」結果を招いたのか。戦争について反省するといっても、教科書の戦争教材の表象する戦争は、現在の視点から振り返れば、戦争をめぐる交戦国との関係性、歴史性を消去した、国内の悲惨な現象面だけを強調した観念的、自閉的なものだといえるでしょう。意地悪い言い方をすれば、日本人が戦争を問題化しながら、戦争に対する反省を巧妙に回避する仕掛けがあったといえるでしょう。
 結果的に(というのは良心的な教員の意識とは別なところで)、戦後の国語に於ける反戦平和教育は戦争の一面しか教えずに、戦争を総合的に考え、反省させるものではなかったのです。むしろ国民を判断停止に追い込んだとも言えるのです。(続く)
〔高口智史〕
 
 今度、宮崎出版文化賞特別賞を受賞した「阿万鯱人作品集」(2分冊全四巻鉱脈社)の阿万鯱人のことについて、これもこの巻の付録として書いた文章を転載する形でみんなに紹介しておきます。結論的には、私はこの作家をもう少し日本の戦後文学史の中にちゃんと位置づけたいと考えています。
   
    阿万鯱人と「新しき村」     

 私ごとを述べて恐縮だが、私は平成12年の秋、宮崎大学に赴任した。赴任してまず行ったのは、「新しき村」と都井岬であった。武者小路実篤の「新しき村」は専門に研究している流域とも重なるところがあり、来る前から興味があったためで、都井岬は高校の授業の教材として扱ったことがあり、印象に残っていたからである。高鍋から狭い道を車で通り、途中の峠の展望台から「新しき村」を見たときの感動は今も忘れることができない。まさに桃源郷という感じであった。ただ、同時に、水をどう引くかが難しい地形なのでここでは米は作れないだろうなとふと考えたりした。武者小路たちが農業に適しているかどうかよりもともかくこの景色が気に入り、決めたにちがいないと思ったりした。
 ところで、阿万鯱人という作家の存在を身近に感じたのは、恥ずかしいことだが、宮崎にきてからである。 大津山国夫『武者小路実篤研究ーー実篤と新しき村』(平成9・10、明治書院)、奥脇賢三『検証 「新しき村」』(平成10・5、農村漁村文化協会)などとともに、阿万鯱人氏の『一人でもやっぱり村であるーー杉山正雄と日向新しき村』(昭和60・8、鉱脈社)を知っていたはずであるが、なかなかユニークな視点からの「新しき村」研究だなという程度の認識であったと思う。しかし、赴任してから、氏の『アンデルセン盆地』を英語教育講座の岡林稔先生から紹介していただき読んでからは、この作家への認識が一変した。こんなすごい書き手がいるのに今まで自分はどうしていたのだろうという暗澹たる気持ちになった。この気持ちは今でもあり、宮崎にかき゛らずたまたま読む機会がないため、あまり高い評価を受けることもなく、そのままになっている作家や作品はあるにちがいない、有名になり文学史に載っていたりするのはごくごく恵まれた作家や作品にすぎないのだという思いへとつながっている。
 阿万鯱人氏の『アンデルセン盆地』は、敗戦後の宮崎の農村が舞台となった作品で、都会にあこがれつつも、自分の住んでいる〈いま・ここ〉の世界を「アンデルセン盆地」として輝かしいものにしようとして揺れ動く青春の群像を描いたものである。戦後の一時期を描いた小説と言えば、インテリの転向体験や傍観者的な戦争体験でとぐろをまく小説が多いが、ここでは、そういう観念的な青春とは全く無縁な、今、自分の住んでいる〈場〉=足下から何かをしようという地に足がついた青春像が描かれている。そして、この小説を読むことで、どうして氏が「新しき村」、特に〈杉山正雄〉にこだわったのかの理由が少しわかってきたのである。
  阿万鯱人氏の『一人でもやっぱり村である』は、武者小路実篤の元妻房子の夫として生きた一人の男の誠実な人生の記録でもある。それは、一カ所に根を張り続けた、あるいははり続けることを宿命づけられた男へのバラードという印象を受けるが、私には阿万鯱人と 杉山正雄とが重なって見える。『アンデルセン盆地』との関係でそう思うのかもしれないが、私にはそう見えるのである。 阿万氏と「新しき村」との関係はかなり古いようだ。一九四七(昭和22)年に初めて訪れ、それ以後、生涯続いている。氏は「新しき村」への関心について、「未来豊かな一人の旧制高校生が、武者小路実篤の『新しき村』建設に感動し、学業を投げ打って以後その生涯を『村』とともに終わろうとしている・・・すべてが流動していたあの大正期の、情念的なといっていいのか、夢想的なというのか・・・自分を駆って憑かれたように没入していったそのことに、わたしはただ理屈抜きに引かれたのだ、というほかない」と語っている。みんなが時流に乗って自分の出世とか名誉を求めて都会へと飛んでいく時、そこへと飛ぶことなく、むしろ逆の価値観、生き方の中で生きようとしたモノへの哀惜がそこにはあったからと言えそうである。阿万氏は無骨とも言えるその生き方の典型を杉山正雄の中に見ていたのではないか。そしてそうした杉山正雄を見続けることは同時に 阿万鯱人という自分を自己確認することでもあったのではないか。
 阿万氏は、『一人でもやっぱり村である』において、杉山正雄についてかなり詳しく調査し、その経歴、足跡について書き留めているので、ここで紹介することはしないが、杉山正雄が入村したのは、1922(大正11)年である。ただ、まもなく、武者小路の妻房子と恋いに落ち、一時、村を出て、正式に二人が結婚するのは一九三二(昭和7)年で、二人がまた日向「新しき村」に戻るのは昭和十二年頃である。村は昭和13年、ダム工事に絡み、翌年には埼玉の毛呂山に移住し、十五年には杉山夫婦だけになった。二人は戦争の時期を挟んでこの西の「新しき村」を支えたのであった。村に立ち戻った杉山正雄は「僕も「新しき村」に根を深くおろしたい。村の人間になりきりたい」と『新しき村通信 第128号』に書いているという。杉山は一九八三(昭和58)年、八十歳でこの世を去るが、この初志を貫いたのであった。 阿万鯱人氏がこの村に訪れたのは、一九四七(昭和22)年で、それ以後ずっと夫妻と交流している。本書はそれにもとずく書である。「新しき村」研究といっても、実際は初期に集中していて、とくに戦後の西の「新しき村」研究は手薄だという印象は免れない。その空白を埋めているのが、この『一人でもやっぱり村である』である。しかし、本書の研究上の意義はさておき、この書でもっとも印象に残る場面は、「下の章」の、武者小路が昭和二十五年六月、「新しき村」を訪れた際の房子夫人の攻撃の場面であろう。

  「ーー杉山をこのまま生涯ここで生活させるおつもりなのですか?と切り出す。 ーーあなたさまは八年ぽっきりいらして、なんの未練も無げに皆といっしょに『村』を見捨てておいきになってしまわれたけど・・・昨日耕地のあたりにお立ちになって「寂れたな」とぽつんとお言いになりました。/わたしどもをお責めになるつもりでお使いになった言葉でないことは重々わかっておりますけど・・・それでも房子かなしゅうございました・・・日がな一日杉山は畑のあいだを駆けずりまわって荒れないよう努力しているんですもの・・・それなのに杉山の前であんな無神経な言い方なさるんですから・・・。/あたしは仕方ないと思っておりますけど、ええ、そうです。けれど・・・あなたさまのユートピア論を聞いて『村』にとび込んだ杉山が可哀相でございます。」  

 ここには杉山正雄に悪いことをしたという房子夫人の悔恨の気持ちがあふれている。しかし、阿万氏は、こういう房子像を描くとともに、房子夫人のいう〈可哀相〉な、一女性への犠牲的な生涯を送ったといった何となく哀れっぽい人物とは無縁な、自分の人生に誇りを持ち、充足した人生を生きた〈杉山正雄〉を本書で語っている。阿万氏は、「『村』を生きぬくことと、房子というひとりの『女』を守るということは、杉山正雄の場合同じ重さと意味を持っている」と指摘し、杉山正雄という男は房子を大切にするという「師への盟約」をひたすら守って生きていたのであり、そこには大筋において迷いはなかったのだと説いている。氏は、戦争期の一時期、師武者小路の理想主義への疑念を瞬間的感じたかもしれないが、概ね何の後悔も不満もなく、師の教えのまま生涯を全うした杉山正雄という男を描いている。「貧乏でも自然のままに生き安心立命の境地に自分を置きたい」と願った男を描いたのである。そしてこの杉山像は、戦後の宮崎という地で、出世や名誉を求めて都会へと飛ぶような青春とは異質な、いわば〈いま・ここ〉の世界を「アンデルセン盆地」とするもう一つの人生を堂々と生き、また作品を書き続けた作家阿万鯱人にそのまま私の場合、繋がっていくのである。
 阿万鯱人氏には、『歴程』のメンバーが企画した 『アンデルセン盆地』を訪ねる文学散歩の時、お会いすることができた。大変品のいい老作家という感じで、もう今はなくなられた江戸文学研究者の広末保や戦後文学の本多秋五に似ているなあと思った。しかし、その作家阿万鯱人とももう会うことはできない。たくさんお聞きしようと思っていたので、残念でならない。(「阿万鯱人作品集」 分冊第2 4巻付録 2008・10、鉱脈社)

 私のこの作家への思いは最後のところにあり、残念でならない。彼の文学が生成した村は、今も周りを山で囲まれて一種の盆地のようなたたずまいをうしなっていない。この近くに温泉センターがあり、私はいつもいくが、通るたびにこの作家と一緒に村を文学散歩した思い出が去来する。2009・3・10 
                       前田  角藏




ちょつとしたいきさつで、宮崎日日新聞社主催の第19回宮崎出版文化賞の審査委員長になりました。そんなわけで、2008年度宮崎県在住の方の出版業績をトータルにみることができました。もちろん、八十点の中から文化部でセレクトされた十点ほどの本を読んで、いいものを表彰するというものですが、いい機会を与えられたと感謝しています。この新聞社は社会文学会宮崎大会でも大変お世話になった新聞社でかなり良質の新聞社です。その賞の中で、われわれ文学に関係する書物として「阿万鯱人作品集」が特別賞をとりました。ここで、みなさん、阿万鯱人という作家についてしらないでしようから、どんな作家か、すでに発表した文章を転載するかたちで紹介しておきます。
  
  「阿万鯱人作品集」(2分冊全4巻) 阿万鯱人著 鉱脈社  

   周知の如く、阿万鯱人は、宮崎県が生んだ西日本を代表する作家で、2006(平成18)年4月、88歳でなくなっている。本作品集は、その阿万鯱人の60年に及ぶ作家活動を顕彰するべく上梓されたものである。作品集は全4巻からなり、本年5月、第1分冊(第1巻、第2巻)、10月、第2分冊(第3巻、第4巻)が阿万鯱人作品集刊行委員会によって鉱脈社から出版された。本作品集は小説30編からなるが、作品を発表順に並べたものではなく、テーマ別に並び替えて再構成するという工夫が施されている。第1巻「てびら台地の人々」には、「てびら台地」などの小説、第2巻「魂の故郷を求めて」には、「アンデルセン盆地」などの小説、第3巻「単独者の唄」には、「一人でもやっぱり村である」などの小説、第4巻「戦争と人間」には、「餃子」「蟹島」「彩雲」などの引き揚げ者系列の小説が配置されている。また、各巻にはかつて阿万鯱人と何らかの文学的交流があった文学者の力のこもった解説があり、これからの阿万文学研究の根本資料ともなっている。 阿万は、一時、地方の「農村作家」という評価をされていたようである。しかし、作品集としてまとめて並べてみると、こういう評価が揺らいでくる。「餃子」から「蟹島」「彩雲」へと続く流れの中には、日本人が早く忘れてしまいたい、消してしまいたい戦争の〈負〉の記憶、それも普通の記憶ではなく、引き揚げ途中に日本女性が陵辱されようともそれを傍観していきてしまったという罪の記憶として書き留められている。阿万は当時の引き揚げ経験者なら誰でも経験したであろう忌まわしい記憶を風化させることなく、むしろそれをトラウマのように抱えこんだ作家であった。そのため、彼の〈いま・ここ〉の幸せの世界はいつでも簡単に壊され、宙づりにあった。阿万はこの引き裂かれた生の構造と闘い、その闘いは語りの複雑な構造とともに、死ぬまで継続していた。とても乱暴な言い方になるが、日本の戦後の文学は、阿万が終生抱え込んだ課題をいち早く忘却し、第三の新人、内向の世代という都市・中央の都合のいい文学史へと組み換えられてきたが、阿万文学は、こうした戦後の文学史を大きく揺さぶっている。作品集の刊行の意義は大きく、重い。 (宮崎日々新聞 2009・3・6 掲載)
 こう私は書きました。阿万鯱人がどういう作家か少しおわかりになったと思います。全国には我々が考えている文学史をゆさぶるような作家なりは数多くいるというのが、宮崎にきての私の確信で、まあこういうことはほうぼうで発言もしています。次回は、もう少し、「新しい村」と阿万のかかわりについて紹介します。
   2009・3・9        前田 角藏

普段なら外出して帰ったら必ずうがいをするんですが、1時間ぐらいの外出だったのでうがいを怠ったら、寝るときになってノドが痛くなりました。それに追い打ちをかけるように先週火曜日マラソン大会で吹きさらしの中に半日いて、体を冷やし風邪をこじらせてしまいました。腰が抜けたみたいになって二日間寝ていました。風邪は、ちょっとの油断が大事に至ります。みなさん、お気をつけください。
今年は暖冬といいながら、二月下旬になって関東の方は連日10度に届くか届かないくらいの、雨や曇りの日が続いています。天気予報を見ながら宮崎、岡山をうらやむ反面、会津の後藤さんから見れば贅沢をいうな、ということになりそうです。
ところで前回までの書きかけの「文学教育のなかの反戦平和について考える」の続きを載せたいと思います。

(承前)
 問題を具体的に今日の問題である文学や教育の問題に絞って論じていきたいと思います。本来は過去の教科書に一つ一つあたるという実証的な作業が必要ですが、ここでは私の提言を理解してもらえればよいので、その時間を省略し、自分の体験と記憶を頼りに文学と反戦平和教育の問題についての反省を行っていきたいと思います。
 
 私はこれまでに次のような作品を教材として取り上げてきました。

「俘虜記」(大岡昇平)
「野火」(大岡昇平)
「黒い雨」(井伏鱒二)
「火垂るの墓」(野坂昭如)
「祭りの場」(林京子)
「桜島」(梅崎春生)
「蘭」(竹西寛子)
「れくいえむ」(郷静子)

 そしてこれらの作品の内容の傾向は、①原爆・空襲の悲惨さを問題にしたものと( 「祭りの場」「黒い雨」「火垂るの墓」「れくいえむ」)と、②国家、軍隊の抑圧性・暴力性を問題にしたもの(「俘虜記」「野火」「桜島」「蘭」)に大別できます。
  ただし今、「作品」と言いましたが、これらの作品が教科書に収録される場合、分量的に制限があるためにやむをえないにせよ「火垂るの墓」「蘭」以外は全文収録ではないという問題があります。これまで余り問題にはされませんでしたが、切り取られた物語は物語全体を代表するどころか、むしろ切り取った編集者の意図の方が強く反映され、場合によってはもとの作品とまったく異なった物語になると言えます。ですから切り取られた作品は、文学作品であるよりも「教材」です。(この問題はもっと検討されてもよいと思います)
 もちろん戦争教材ですから、言うまでもなくそれらの作品を教材化する編集者の側に不当に戦争像を歪めようという意図はないでしょう。それぞれが戦争の悲惨さを切実に訴えるものであることは言うまでもありません。
 しかしそれでも問題にしなければならないのは、その「悲惨さ」の内実――これらの教材の表象する戦争像の問題です。このように教材を並列して振り返ると抜粋の仕方にある類似性があることが明らかになってきます。

 まずこれらの教材には、①「敵」(アメリカにしても中国にしても)との戦闘場面はほとんど登場しません。上記の作品では、唯一「俘虜記」のあの有名な冒頭で若い米兵を撃つかどうか主人公が逡巡する場面に、「敵兵」の存在が語られるだけです。
 ②だから戦争の悲惨さと言っても、語られるのは戦闘場面ではありません。「祭りの場」「黒い雨」「火垂るの墓」「れくいえむ」などで語られるのは、空襲・原爆といった「敵」の姿の見えない戦争災害です。さらに「火垂るの墓」「れくいえむ」などはそれに付随した深刻な生活問題を語っています。「野火」「桜島」などは軍隊の抑圧性を、「蘭」は抑圧的な社会のなかでひっそり生きる庶民を語っています。
 ③そしてそれらは物語性よりも記録性(しかも加害性ではなく被害性)が重視されています。これは部分抜粋のためにやむを得ない部分がありますが。
 ④さらに何よりも題材として取り上げられる戦争の時期は、15年間あった戦争のなかでも、「太平洋戦争」の末期だけだということです。

 このように教材として教科書に収録された戦争文学に表象される戦争は、「戦争」であるにもかかわらず、①のように戦闘場面が語られない、つまり交戦相手の見えない戦争ばかりです。戦争は、空襲や原爆のように市民にとってはあたかも一方的な災害のようなものとして語られ、戦争被害を伝えるにしても、空襲や原爆による被害や食糧難など国内の問題は非常に克明に語られるものの、帝国主義戦争での最も重要な戦場の問題はほとんど触れられることがないのです。「野火」や「俘虜記」のようにフィリピンの戦場が舞台となったにしても、語られるのは日本軍から離脱して戦場を彷徨する孤独な主人公の物語です。
 その代わり自国の国家や軍隊の抑圧性、暴力性は「野火」「桜島」「蘭」がよく語っています。「野火」の冒頭や「桜島」では理不尽で横暴な上官が登場します。また「蘭」は戦時下で自由にモノも言えず息を潜めて生きている庶民が語られ、これらは戦時下において如何に人間の自由や尊厳が抑圧されたかを告発しています。
 いずれにせよ教科書に収録される文学作品の取り上げる戦争像はある類似性――言い換えれば偏りがあるのです。「戦争」という非常に茫漠とした現象に対して、国語教材の表象する戦争像はあまりに一面的で狭隘なものなのです。
 ここに多くの問題が含まれていることはいうまでもありません。(続く)
(高口智史)

 

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