11・3 上映会・懇談会のことなど
11月3日(文化の日)、「スペースたんぽぽ」でDVD『東学館』の上映会およびOB会懇談会が開催された。第一部は、DVD『東学館』の上映、監督の挨拶、事務局からの提案、第二部は懇談会、全体を通して34名の参加があり、盛況であった。第一部はほぼ予定時間通り上映され、藤山顕一郎監督の挨拶があった。氏はこの作品の意図を手短に語ったが、そこには営利を超えた氏の情熱がほとばしっていた。
東京学生会館は戦後間もなくから強制執行の時まで、あの代官町にあったはずなのに、今は、公園として更地化され、存在した事実さえも消され、そこに住んだ館生の記憶の中にかろうじてあるだけとなっていた。記念碑とDVDの制作は、そうしたことへの抵抗、抗議として立ち上がり、館生による記念碑のカンパ活動となった。予想を超える150万余の建設資金が集まり、5・8には、記念碑完成を祝う会が開催された。 その半年後の 11月3日、映像によってわれわれ館生の記憶が保存されたDVD『東学館』の上映会が開催された。藤山監督は、記念碑につながる館生たちの長い時間の再生(記録)に関与できた幸せを自分の誇りとして語った。時間が余りなかったので、会場からの感想を聞くことができなかったのは残念であった。後日、いろいろな形でコメントが紹介されると思う。
次ぎに、事務局からの提案があった。詳細はニュースで紹介されている。残念なことであるが、記念碑のためのカンパが多く集まったのはいいことだが、その結果、どこでもありそうなことであるが、会計をめぐるトラブルにまきこまれることになった。はずかしいことだが、私をふくめて在京委員のみんなこの不毛な事件でふりまわされてしまった。試写会後の報告会では、その点をめぐり議論がなされた。
予定の時間は30分だったが、それらの意見や質問をめぐって一時間以上も議論があり、熱いかっての生協食堂での館生集会の世界へワープしたような錯覚を受けた参加者もいたほどである。若さがまだまだあるということであろうか。
記念碑もDVD『東学館』も無事完成したのであるから、親睦団体たるOB会の活動は、またもとのような年一回集まるといった程度の活動にもどれるはずである。しかし、S君が会計決算もせず、また誹謗中傷への謝罪にも全く応じようともせず、それどころか自分が果たした迷惑をすっかり忘れて、再建大会を計画するなどしており、なかなか、うんざりするのは当然だが、もういいよというわけにはいかない。そこで事務局としては、裁判を続行するかどうかは別としても、最低でも、S問題にはこうした認識を共通認識として持とうということで、四点が確認された。
以下は文言を訂正した上での確認事項である。
1、S君に会計の明朗な処理と事務引き継ぎを引き続き要求する。
2、しかし、事務等の継続を絶対条件とせず、会計処理していくことにする。
3、これまでの東京事務局とりわけY氏への誹謗中傷は許し難く、すべて根拠のない卑しい攻撃であったと認定する。
4、S君はOB会員へのこれまでの誹謗中傷を反省し、謝罪する。
この集会において、上の提案事項が確認されたことの意味は大きい。また、事務局提案の「OB会規約(案)」が報告・了承されたことの意味も大きい。このOB会は何の規約もまく、当事者の思いこみの中で運営されていたため、今回のS君の行動に対して余りにも無力であったからだ。
新しいOB会は、この了解された事項や規約にもとづき行動していくことになろう。残念なことだが、S君の不当で不可解な行動がこれからもOB会に対してなされるかもしれない。しかし、われわれはこの確認事項と規約をベースとして彼に対峙し、常識的な親睦会の運営に尽力していかなければならないと確認しあった。
前田角藏
60歳になってブレークするなんてちょつとおもしろい。たしかに歌は抜群にうまいし、川の流れのようになどはひばりよりいいのではないかとおもうほど。うまいしあじがあります。僕はそれより少し年とってるけど、こんなうまい人にであったことがない。それほどすごい歌手ですね。「愛のままで」がいいし、同年配の人はみんな歌詞がいいともう夢中で、それは何か秋元順子現象といってもよいほどだ。簡単にいうと熟年夫婦応援歌という感じですね。かつて石川淳は「マルスの歌」を書き、戦争をたたえるマルスの歌声を書き留めたことがありますが、今は、この熟年愛歌が聞こえてくるようです。
「小鳥たちは何を騒ぐの 甘い果実が欲しいのですか 他人(だれ)かと比較(くら)べる幸せなんていらない あなたの視線が愛(いと)しくあれば」
「ああ この世に生まれ巡り逢う奇跡 すべての偶然があなたへとつづく そう生きてる限りときめきをなげかけて 愛が愛のままで終わるように」
「ああ生きてる意味を求めたりしない ただあなたの愛につつまれながら そうキャンドルの灯(ひ)がいつか消える時まで
愛が愛のままでつづくように」
愛の視線やことばやささやきがあればいいというのは、今はやりの女の脳の構造からかもしれず、男はそれがわからず、せっせと獲物(金、地位)を運ぼうとして、哀しいことに嫌われ、別れますといわれる、いわゆる熟年離婚の悲劇。男と女の脳の構造の差異がわかっていれば、かなりおおくの夫婦の亀裂、悲しみ、苦悩、戦いつまり多くの不毛な男と女の戦いはへったことだろうと思ったりします。実際、「ああ この世に生まれ巡り逢う奇跡 すべての偶然があなたへとつづく」と思いたいけど思えなかったつらい日々など過ごした人も多いと思いますが、こんなせつないことももしかするとなかったかもしれません。
しかし、熟年夫婦の幸せって、男と女が二人だけの愛の視線やことばやささやきで自分の身辺を満たすことで自足するものでしょうか。もうこの歳になるとそんなことを考えます。それでは二人がかぎりなく社会から自閉していくことでしかないのではないか。情緒的ではなく真正面から考えると孤独死の道のような気がしてぞっとします。元気な時はいいんですがね。もちろん、熟年の男と女が二人だけの愛の視線やことばやささやきで生活空間を満たしてはいけないと思っているわけでもありません。共通の趣味などを持ちもっともっと愛を深めた方がいいと思っています。しかし、最終的に二人だけの単独的な閉じられた関係が果たして幸福といえるのかに疑問符があります。男も女も多様な人間関係の中に生きてこそ豊かなのではないか。夫婦の堅い愛を大切にしながらも、それを超えた多様、多層な人間関係、そのネットワークを作らなければこれからの高齢者社会を迎えることはできないのではないかと考えるからです。愛に特化しない関係の豊かさはそれこそ無限にありそうなきがします。男女の愛は数多くある幸せ、豊かさの大きなものだけど、それがなければ人生不幸かというとそれは違うようにも思えるのです。ところが、こう何か多様多層な人間関係というとすぐ不倫な関係を想像してしまうところがありますが、それはこれからの世の中ではなじまないのではないか、そういう意味では男も女ももっともっとお互いを信じることが必要で、だだ自分だけを向いていてというのはわがままでしかないのではないかと思います。自己中心的な愛の時代はとっくに終わっているような気がします。男も女も、二人に閉じるのではなく、もう少しいろいろな人との交流へと開いていく必要がありそうです。
秋元順子現象の中にちょつとそんな感じがするのは僕のひがみなのかな。どうもお粗末でした。(2009年03月 前田角藏)