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試想の会のブログです。
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 昨年の秋以来、ご無沙汰していました。あまり忙しくない私ですが、昨年11、12月には発表報告を二つ抱え、そしてこの1月には修学旅行の引率と大きな仕事があってブログの記事を書く心の余裕がありませんでした。管理人の黒田さんには社会文学会の宮崎大会ではお世話になったうえ、ブログをご無沙汰して申し訳なく思っていました。これからは定期的に頑張って書いていこうと思っています。

 その修学旅行先は実ははイタリアでした。とくにお金持ちでもない一般家庭の子供の通う私立高校の行事としては、費用の面でかなりきついものがあり冒険的な行事でもあります。それ自体の問題はいろいろありますが、まあイタリアに行けたこと自体は決してマイナスではありませんでした。
 ところで実は私としては初めての海外旅行で、いろいろ驚きの体験もありました。文化遺産は別にして、イタリアで一番印象に残ったのは、買い物をしたときの店員の態度の横柄さです。個人経営の店舗はいいのですが、市内のスーパーマーケットや空港の売店など、買い物をするたびに横柄な店員の態度にはずいぶん不愉快な思いをしました。これは私が出会った人がたまたまそうだったというよりも、生徒達も全体的にそういう印象を受けたので、偶然ではなかったようです。不愛想で、買う場合の向こうルールをわきまえていないと露骨に不愉快な表情をされます。(舌打ちされた生徒もいたとか)あたかも売る側の事情も考えろと言わんばかりの傲慢な態度が印象的でした。
 他には、BAR(バール)という個人経営の、立ち食いのファーストフード店を至る所に見かける代わり、日本ではごく普通に定着した自動販売機、コンビニ、ファースト・フードのチェーン店が見られないのも街の光景の大きな違いです。後で帰って島津菜津という人の書いた「バール、コーヒー、イタリア人」(光文社新書)という本を読んでみたら、やはりマクドナルドがあるくらいで、スターバックスなど外資の大型チェーン店はないそうです。ジェラートの本場に鳴り物入りで進出したサーティーワンはあっという間に閉店してしまったという話です。街の構造もあるのでしょうが「簡単便利」を旗印に世界を席巻する外資の大型チェーン店の進出しにくい国なのだそうです。実際スーパーの規模も都心にありながら、それほど大きなものではありませんでした。

 そういうことから、帰ってローマでの不愉快な経験をよくよく考えてみたのですが、サービスを受ける側からすれば不愉快なことですが、売る方があれほど横柄で、それでありながら商売が成り立っているということは、視点を変えれば売る側にそれだけストレスのかからない社会だといえるでしょう。日本のように、とにかく客に快適さを与えるための至れり尽くせりの、どこまでも過剰なサービスを追求、提供する社会は、売る側(社員)にものすごく大きな負担がかかります。そのことが最終的にはどこまでも会社のため、顧客のための奉仕を強いられサービス過剰で挙げ句の果てには過労死を生み出す遠因になっていくわけです。(江戸時代の経営思想の影響もあるでしょう)しかしイタリアでそういう雰囲気が感じられず、しかも商売が成り立っているのは、彼らは売る立場と買う立場を別々のものとして切り離して考えず、買う立場がもしサービスを要求し続けると売る立場の自分たちにそれが同時に跳ね返ってくるということを知っているからではないでしょうか。もちろん島津さんの本には地域に密着して経営努力をするバールの経営者の話が出てきます。だから一般化はできないかもしれませんが、雇われる労働者にそのような努力を強要しない、また労働者の側もそんな努力までしようとは思っていない社会のように思いました。そういう意味で彼らは売る立場と買う立場を切り離して考えず、飽くなき利潤追求への努力がやがては我が身を滅ぼすということを知っており、働くバランスを大切にしている人々のように思いました。
 生徒達はコンビニも自動販売機もなく、都心でありながら飲料水を手に入れるにしてもホテルから歩いて十数分かかるスーパーまで行かなければならないイタリアに、ずいぶん不便さを感じていました。たしかに買い物をするにもいつでもどこでも簡単に手に入り、しかも店員に不愉快な思いをしない日本社会に比べたら不便きわまりないところです。端から見ると、彼らはよく言えばおおらかだけど、なまけものでいい加減、そのために社会が「発展」しないんだということになるのでしょう。
 得体の知れない物売り(明らかにイタリア人ではないマイノリティーです)や物乞い(老人でした)をよく見かけました。もちろんイタリアの社会問題についてはよく知りませんし、たがが数日の旅行というお客さんの目で見ただけで、調子に乗ってイタリアを日本に比べて良い社会だと言おうとしているのではありません。
 今書店に行くと、アメリカのサブプライムローン問題に端を発して世界恐慌に突入するといった話題の本がやたらと目に付きます。今私たちは戦後の経済成長終焉の地点に立っています。昨年、自動車産業が軒並み赤字決算に転落したことは、戦後資本主義の終焉が一際強く印象づけられる事件でした。だからアメリカ化を頑なに拒否するイタリアの資本主義社会をみると、急速な経済発展を「民族の優秀性」の証とし、そのために経済の発展を支え、社会を支配してきた日本人の価値が、人類の長い歴史のなかで本当に人間を幸福にする普遍性を有する価値なのかどうか、それを反省させられます。

 今日本の社会の貧困化が問題にされています。たしかに失業したり、派遣で労働法を無視した仕事に従事せざるをえない当事者にとっては深刻な問題です。しかし振り返ってみると、90年代に「リストラ」という言葉が登場したとき、経済誌などでこれから企業は「リストラの時代だ」という見出しを肯定的にかかげていましたし、労働者も会社のためにそれを肯定的に受けとめていたのを記憶しています。「リストラ」されるにしても、それは自分ではないはずだと、会社を守るためには仲間が「リストラ」されるのもやむをえないと自らの立場を忘れ、多くの労働者が会社に加担したのではなかったのでしょうか。
 現在の社会問題の原因となった小泉新自由主義改革をやすやすと進行させてしまったのも、社会にまだ余裕があったときに、私たちは経済的な価値を優先させ、そのためには多少の犠牲もやむをえないと重要な価値を手放してしまったのだろうと思います。
 だから景気が再びよくなれば、失業者がいなくなれば、経済的に豊かになれば、戦後日本の問題はかたがつくのでしょうか?今、社会の不平等に声をあげる人々が増えてきて、それ自体は評価できます。しかし依然、そういう声をあげている人たちが要求している問題も、日本の労働運動が高度経済成長とバブルのなかで解体したように、彼らの要求が満たされれば解体してしまうようなものではないのだろうか、これまでの日本人の過ちを根本的なところで反省しているのだろうか、そんな危惧をイタリアの社会を見ながら抱きました。(高口)


 

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 お久しぶりです。もう少し芥川のことでも書ければと思っていましたが、9月は高校の新学期で、いろいろ振り回されて、なかなか書くことができませんでした。すみません。今日は高校の文化祭です。私は文芸部の顧問をしているのですが、今年は「物語研究――子供の読めないグリム童話」というタイトルで展示発表を行っています。グリム童話を素材に、物語を恣意的に読むのではなく、まずストーリー、プロット、語りのメッセージという手順できちんと分析してみようということと、グリム兄弟の意図を超えて、収録された個々の物語(「赤頭巾ちゃん」「灰かぶり」「ヘンゼルとグレーテル」)のなかに、どんな歴史社会的、文化的背景があるのか、童話という視点を超えて読んでみようということと、二つの視点からグリム童話にアプローチしてみました。
 最初、生徒の発表する作品が少ないかもしれないと、私も「ブレーメンの音楽隊」についての文章を書いて、いざとなったら生徒の名前で発表して場所を埋めようと思っていたら、幸い生徒の作品だけで会場を埋めることができました。しかし残念ながら「ブレーメンの音楽隊」の文章はどこにも発表できなくなったので、せっかくですからここに発表させていただくことにしました。

「ブレーメンの音楽隊」について
 ロバ、イヌ、ネコ、オンドリ、いずれも人間の生活に密接し、人間の生活に役に立っている動物です。彼らは人間の生活に役立たなくなったというだけで殺されようとします。(オンドリはお客をもてなすためにいきなり食べられそうになります。)そこで12月の寒空のなか、彼らはブレーメンの街に行って音楽隊の仲間に入れてもらおうと、生きる望みを求めて旅立ちます。
 彼らが目指したブレーメンは、共和制の自治都市としては、ドイツで最も古い歴史を持っています。神聖ローマ帝国時代においても、ブレーメンは帝国自由都市の地位を確保していました。また、ドイツ史上有数の惨禍であった三十年戦争の際も、かつてのハンザ同盟の仲間であったハンブルク、リューベックと同盟を結び、独立を守りきることが出来た自由と独立を象徴する都市でした。(ブレーメン市のサイトを参照)
 しかし役に立たなくなったものが捨てられる、殺されるというのは、そんなに昔の世界の話ではありません。昔の世界は、人々の共同性によって築かれ、みんなが支え合って生活していました。たとえ労働力としては役に立たなくなった人間でも、古くからの事を知っている老人は村の秩序を維持するために大切にされていました。孤児や、たとえ人々に役にたたないと思われるような人々でも、差別はあったにせよ、彼らは村から養われ排除されたり、ましてや殺されたりなんてことはなかったのです。
 そのような世界が壊れたのは、共同体が崩壊し、人間が個人の力で生きていかざるをえなくなった時代になってからです。自分を労働力として提供して報酬をもらって生きなければならなくなった時代――所謂市場経済が世の中を支配しはじめた時代(資本主義)の時代になってからなのです。
 田舎にくらべ、とくに都市ではお金による人々の支配と共同体の崩壊が、いち早く進行したと考えられます。市場経済の浸透によって、労働力として役に立たなくなるということはすなわち死を意味するようになりました。(今の社会みたいです)聖母マリアの日の翌日(日曜日)にオンドリが食べられそうになるというのは、神様なんてもう役に立たないというキリスト教への皮肉でしょうか。(事実かれらは神様に頼らず、自らの知恵と団結によって幸福を勝ち取ったのですから。)「ブレーメンの音楽隊」の動物たちが象徴しているのは、そのような過酷な社会から排除された人々です。とにかく彼らが自分の身は自分で守るしかないという厳しい世界を生きていたのです。そして泥棒は力しか頼ることのできない弱肉強食の社会の象徴でしょう。
 役立たずとして殺されそうになったロバ、イヌ、ネコ、オンドリたちは同じ境遇同士、力を合わせ、知恵を絞って、弱肉強食の社会の象徴である泥棒たちから住処を奪い、最後に自分たちの安住の土地を見つるのです。このお話は、冷酷な社会に対する弱者の精一杯の抵抗の物語であり、そしてそのような彼らに共感する暖かい無名の語り手(グリム兄弟ではありません)の視点を読み取ることができます。                (高口)

 

 久しぶりに書きます。夏休みに書けると思っていたら、今年の夏の気候はおかしかったですね。夏バテでなにもできませんでした。

 前田先生の芥川批判を受けて芥川龍之介をめぐる文学教育、文学研究について思うことを書いてみたいと思います。「試想」5号に書いた「羅生門」論も授業の現場で「羅生門」について批判的に思い始めたことに端を発して、前田先生の「羅生門」論に刺激を受けながら、そこから芥川批判に至ったものでした。これを書いているとき、芥川について象徴的に表れているように、現在の文学研究にしても教育にしても大変異常な状態にあるなと思いました。
 前回私はテクスト論は日本の文学研究では異端だ、と書きました。そんなことを書いたのも、「テクストの読みは多様だ」「読みは十人十色」だという言葉をよく聞きますが、その「多様な読み」というのは、そのテクストに対して批判的な読みを含めての「多様さ」であるはずです。ところが文学研究や文学教育の分野で、芥川についての批判的な発言はほとんどお目にかかりません。「芥川の作品がダメだと思うなら無視すればいいし、そこに意味を見出すものだけが発言すればいいじゃないか」という人がいるかもしれません。しかしマイナーな作家ならそれでいいと思うのですが、芥川龍之介は事情が全く異なります。なによりも「羅生門」を日本全国のほとんどの高校生が読まされるように、「芥川龍之介」は一部の研究者が独占していいような作家とは違います。
 だからこそ「羅生門」にしろ芥川龍之介にしろ、自由に議論することが必要だし、むしろ教育や学問の場こそ、特定の作品や作家が特権化していく事態に対して健全な批判精神が発動されなければならないはずだと思うのです。
 しかし芥川についても「羅生門」についても、自由に議論するような場はありません。あたかも芥川龍之介が文豪で、「羅生門」が名作であることは自明のことであるかのような雰囲気が支配して、批判的な言説はほとんど見あたりません。(特に文学教育の領域では、文学は無前提に「いいものだ」という文学至上主義が支配的な感じで、教材化される作品をめぐって議論する自由はもっと狭められます。)

 前田先生が「鼻」で指摘するように、私も芥川の感性は非常に差別的だと思います。それは吉本隆明が指摘したように出自への劣等感への裏返しとして、出自を消してひたすら上昇しなければならないという衝動があったからでしょう。(この問題点については、私も具体的に作品をあげて書いていきたいと思っています。)そう言う意味で「羅生門」は文明主義者?芥川の「普遍信仰」という差別意識がもっとも明瞭に表れた作品だと言えます。
 なぜそれが研究者・教育者に感じられないのか。その先は書きませんが、そこが現在の知の状況の抱えている大きな問題でしょう。哲学の大原則が「懐疑する」ということであるとすれば、現在の研究者なり教育者に一番欠如しているものは哲学だと思います。作品評価、作家の評価など、時代や状況が変われば変わってしまうものです。ですから状況に迎合するという意味ではなく、その状況に対して個々の作家、作品がどういう批評性を持つのか、それは状況との対話のなかでたえず検証されどんどん読み変えられねばならないと思います。
 しかし研究者・教育者ともに自己の認識の特権性を疑うことはありません。問題は、そのために文学の研究状況や教育状況と現実との乖離は拡大していきます。「蟹工船」ブームはジャーナリズムがつくり出した側面は大きいものの、政治の問題を切り捨ててきた文学研究はこの状況に沈黙するしかありません。

 授業の現場で、「羅生門」の下人に「自己解放の叫び」(関口安義氏)など言っても共感する生徒はいなくなっていました。その後、ポストモダニズムが隆盛の頃、「読みの多義性」なんていって、どう読むのも自由だなんて、読みに責任をもたないごまかしの指導書がしばらくは幅をきかせてきました。しかし「蟹工船」がブームになるような現在の不穏な状況をみると、リストラされた下人が生きるために自分の暴力性に目覚めるという物語は「自己解放の叫び」として再び読み返され評価される可能性もあるなと思うのです。でも「自己解放の叫び」がダメなのは、下人は「自己解放」の物語を獲得するために、より弱者である老婆を踏みつけにしているからです。そしてそのことに「羅生門」の語り手は気付くことがありません。
 差別・抑圧される人々が差別される屈辱から逃れるために、より弱者を差別・抑圧するということは人間世界の至る所にみられる現象です。そのような構造的な差別・抑圧を問題化するどころか、芥川は弱者を抑圧する下人の視点に同調したのです。(それは「芥川」ではなく「語り手」だと言う人がいるかもしれませんが、その語りを相対化する視点はこの作品にはありません。)そういう問題を抱えている芥川のテクストを「懐疑」しないことは大変な問題があるのではないでしょうか。
 「羅生門」は研究者や教育者、教科書会社の欲望の生み出した正典だと私は思っています。日本のカルチュラル・スタディーズ研究者など、体制に批判的なスタンスを持とうと思っている研究者、教育者は、ここにこそ切り込まねばならないはずです。それなのに、この事態を看過しているのは不思議なことです。(これは心ある芥川研究者なら、芥川が権威化される事態に批判的であらねばならないだろうという意味も含めてです。)      (高口)
 

 

   芥川神話の崩壊について  
 芥川龍之介の「鼻」を例に考えます。「鼻」は、禅智内供という坊さんが、「傍観者の利己主義」というものに出会うことによって、自分の異常な鼻に劣等感から解放されるという筋の物語です。これまで、「鼻」は、自分の鼻に過剰な劣等感を抱き、何とかしてそこから抜けだそうともがき苦しんでいる禅智内供をおもしろおかしく風刺した一種の滑稽小説、あるいは過剰な自意識の世界から解放される物語として読み取られてきました。しかし、「鼻」はそんな自意識をめぐるドラマなのでしようか。そもそも長い鼻は身体の障害に近いもので、その苦悩は笑いの材料にならない深刻なものではないかと私には思えます。そもそもそういう身体に障害をもった人々の苦しみを笑いのネタにする感性そのものが暴力に近いのではないかと考えています。
 禅智内供という坊さんは、「傍観者の利己主義」というものに出会うことによって、自分の異常な鼻に苦悩するのはばかげたことだと悟り、その結果、劣等感から解放されるという筋の物語だと紹介しましたが、他者、他人の評判、評価に怯え、翻弄されていた坊さんが、そんな他人の評判を気にしなくなるという話ですから、一見健康な境地を獲得する結構な物語ではないかと考えます。事実、そういうように思われてきたのでした。考えてみますと、これは、みんな他人は、「傍観者の利己主義」だときめつけることであり、一種の唯我独尊の世界ということにもなりかねません。なぜなら、他者、他人はいつも「傍観者の利己主義」者によって満たされているわけではないからです。人が不幸から抜けてしまうと残念だ、元のように不幸になればいいと願うような人もいるかもしれないが、しかし、そんな人は、ともかく全員ではないはずです。本当に人の悲しみに同情し、悲しむ人も多くいるはずです。こういうわけで「鼻」は一見、人間の歪んだ一面を見事に捉えたテクストのように思われがちですが、事実そういうふうにも理解されてきたのですが、そもそもそういうテクストではなく、それどころか、そこには身体の障害に悩む人を一種の滑稽として笑い飛ばす非情な感性が表出されていて、それこそまず問題にされるべきであったと今は考えることができるのです。芥川には、弱い、劣悪な立場にいる人々を愚弄するところがあり、それが最大の問題なのです。要するに感性的に言えば、芥川には、現在のいわゆる勝ち組の心理があふれているのであり、そこが最大の問題なのです。たしかに、禅智内供は自己の身体コンプレックスから解放され、はじめて幸せな気分を味わっています。しかし、その幸福感は、他者はみんな「傍観者の利己主義」者だという恐ろしい偏見によって生み出されているのであり、とても鼻を意気揚々と風になびかせる禅智内供の心は豊かであるとはいいがたいのです。
 どうして、それでは、こんな暴力的な、非人権的な読みが「鼻」においてこれまでされてきたのかと考えますと、そこには、主人公の意識中心的な読み方があったからだと思います。主人公の意識だけに着目すれば、たしかに、内供は、自己のコンプレックスから解放されたのです。しかし、意識ではなく実現された〈今、ここ〉の関係性の豊かさでテクストの価値を判定するとなると様相がちがってきます。〈今、ここ〉の関係性においてどういうものを実現しているかというその構築された関係性の豊かさでテクスト、作品の善し悪しを判定すると、「鼻」は、あまりにも貧しい世界しか獲得していないのだという評価になります。まあこんなに難しく考えないでも、ともかく、「鼻」を自意識に翻弄されてはいけませんよと単純に読む読み方だけはしてはいけないのではないかと思います。
 時代が変わればテクストの読み方、評価も違ってきます。もちろん、なんでも新しく読めばいいというのではありません。時代にあった人間的な読みを進めることが大切ということになります。大いに今までの古い人間的でない読み方に異議を提出したいものです。あるいは勝組的な感性でテクストを読む習慣から解放されたいものです。そこから新しい文学史を構想していきたいものです。    前田 角藏

 

 おかげさまで無事に「試想」6号を発行することができました。ほっとしてブログを書く余裕もできましたので、前回の黒木さんの文章を受けてというよりも、自分が文学教育や文学研究について考えていることを書いてみました。

 黒木さんがなぜ〈複雑系〉という概念に注目するのか、文学教育の問題点を例に述べられていました。「学校教育において……読解は主人公の言動や心情の読み取りという一点に特化され」、「その結果とし、主人公が他の登場人物とどういう関係を結んでいるか、などの<関係性>が無視され、加えて、語りのもつ抑圧や排除の問題が見えなくなっている」、「「作者の言いたいことは何か」とか「作品の大意は何か」という終着点に読みが収斂してしまう」ということでした。
 そうですね。僕も賛成しますが、文学教育とか文学研究の現在を見回すと、もっと悲観的にならざるをえない状況があるように思います。それは教育にしても研究にしても、〈読み〉を、自明の前提として論じることがそもそも可能なのだろうかという疑問です。「主人公中心主義」のように、批判の対象としてでも、そういう〈読み〉の方法でもいいのですが、教育現場でしっかりと教えられているのでしょうか。「テクスト論という〈異端〉」で述べたことに重なるのですが、現在の文学研究から教育に至るまでポスト・モダニズムの影響から〈読み〉を拒否してきた結果、いつしか教員が作品を読めなくなってしまい、そして生徒も読めなくなってしまったという、もっと危機的な状況を招いているのではないかと思っているのです。なぜ「危機的」かというと、物語に対する批評性を失うと言うことは、権力の作り出す物語への抵抗力を失い、その結果人間はただ流されるしかないという状況を招くからです。(小泉改革に日本人はただ流されただけではなく、自ら進んで流れに乗ったと言えます。)
 文科省はPISA調査で世界水準で日本の子供の読解力の低下に危機感を抱いて、現在、読解力を如何に向上させるかということにやっきになっていますね。しかし皮肉にも現在の文学研究の周囲にはあまりそういう危機感は感じられません。そちらではどうですか?
 もちろん僕がこのような問題を述べているのも文科省が騒いでいるからではありません。しかし文科省の提唱する「PISA型読解力」というのは、批評性、実用性、対話性などを重視し、たんにこれまでテキストに何が書いてあるのかを読みとる読解力から、それに対する評価(批評性)が出来る主体性の育成を目ざす新しい「読解力」であり、かつての日文協国語教育部会の「対話の教育」が主張していたことを完全に吸収してしまったかの感じがします。戦後の正解主義教育に対する反省から「生きる力」を掲げた国家の教育改革も、総仕上げの段階に入ってきたという感じがします。権力の方が皮肉にも革新的な教育を掲げています。でも露骨に教育格差の広がる状況のなかでこのような教育の恩恵を被ることができるのは、生活に余裕のある家庭の子供であり、また教員が研修する余裕を持てる学校でしょうし、この教育の目論見も国際的に活躍できるエリートの養成にあるのですから、教育の民主性は無視された提言のように思います。
 読解力の低下は、かつての学習指導要領の改訂での露骨な文学教育の軽視(敵視?)削減の結果も一因しているとも言えますが、それはそのような流れに対して文学研究や文学教育自体が文学の存在理由をめぐって積極的に抵抗できなかったこと――自ら武装放棄したかのような――こそ問われねばならないことだと思います。前回述べたように、ポスト・モダニズム、カルチュラル・スタディーズ以降、研究者自身が文学の存在理由について懐疑的になってしまって、自分の足場を掘り崩してしまったことについて、今日まで何も反省がなされていないということです。また抵抗する動きがあったにしても、社会を納得させるまでの論理は持ち得なかったのだと思います。
 文庫の「カラマーゾフの兄弟」や「蟹工船」が文庫売り上げランキングの上位に躍り出るような時代ですが、逆に教員(これは大学、高校を含め)がそのブームに乗じて、それらの古典の意味をもっと深く語れるような状況はあるでしょうか。文学に再び注目が集まってはいますが、そこにあるのは〈読み〉ではなく依然〈消費〉にすぎないのではないかと思います。学校ではテストでいい点を採るために文学作品を読む。日常では、その時々の自分の世界を肯定してくれる物語(人情系、癒し系?)、もしくは非日常性によって現在のストレスを発散させてくれるもの(バイオレンスやホラー?)などなど、よかった、感動した…で、暫くすると忘れてしまう。だからわかる作品しか読まない。難解な作品は読まない。作品をひとつのメッセージ、あるいは批評として捉える力はものすごく衰退しているように思います。
 しかし〈消費〉だからダメだというのではなく、見向きもされなくなるより〈消費〉があるだけまだいいです。そこに出版資本の誘導があったにしても、この文学再評価の背景には、この息苦しい状況のなかでの解放を求めて、感覚的にではあっても文学の中に状況の突破口を求めているような若い人たちの蠢きのようなものが感じられます。ですから問題なのは、そういう潮流に教員や研究者が、残念にも火をつけることが出来ないことです。(もちろん自分も含め)研究者、教育者はこれをいま深く反省しなければならないのではないかと思っています。
 悔しいながら、僕もこんな状況に有効な手だてを欠いています。今再び文学を、生きる指針としてどう読むのかということが求められています。(僕も小さい試みを始めていますが、それはもう少し形になったとき改めて書いてみたいと思います。)研究者、教育者が文学を自己目的化せず、この社会で踏みつけにされている子供や若者の生きる指針として新しい文学像を提示できるかどうか、「PISA型読解力」なんてものに席巻されないためにも大切なことなのではないかと思っています。

 

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