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試想の会のブログです。
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さて、僕は台風がこれからくるというので、少し、心配していますが、午後に院の「暗い絵」の授業があるので大学にいます。黒木君が発表してくれるので楽しみにしています。僕個人はゼミでは「野火」をみんなとやっていますが、後藤さんと同じように戦中・戦後の問題にはまっているというところです。こうなると「破戒」はどうなるのか・?という皆さんの不安な顔がちらちらしますが、がんばるつもりですのでよろしく。問題意識を詰めているところです。これは逃げかな。皆さんに少しでも評価していたたけるような報告にしたいと気持だけはしっかりしているつもりです。

新聞でもありましたが、教職大学院に手を挙げていて、学部もそのため改組し、カリキュラム委員なんかになっていてこの間、へとへとです。高口さんはすばらしい趣味の世界を持っていられて、今度プログでそれをしったしだいですが、僕も山登りはやっています。近くの釈迦ガ岳に登ってきました。夏には燧と木曽駒にのぼりたいと思っています。  また、近況書きます。  前田角藏
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「で、ここで問題なのは、このクソガキの「ホームレスなんか犬や猫と一緒」だから「殺してもいい」っていう理屈だ。この理屈からも分かるように、このクソガキは、ホームレスに暴行を始めるまでは、ずっと犬や猫を殺し続けて来たそうだ。(略)中学時代の同級生の証言によると、(略)毎日のように野良猫を殺し続けるので、何度も注意したそうだけど、本人は「野良猫なんか世の中のゴミだ」「オレが街をキレイにしてやってんだ」って言って、聞く耳を持たなかったそうだ。/同級生の話によると、このクソガキは、中学時代だけでも100匹以上の猫を殺していて、それは、中学を卒業してからも続いて行ったそうだ。そして、それが、どんどんエスカレートして行き、とうとう人間に対しても暴行や殺人未遂を犯すようになって行ったんだと思う。」
 読む人が構えないように「生き物を大切にしよう」なんてふざけた題をつけたのがそもそも失敗だったようで、まずかったですね。実は僕の意図したことは逆で、きっこさんのような発想の人を批判しようとしたのです。(もちろんタイル工の少年も悪いですよ)そこで僕が前回のブログで考えたことを整理しなおして述べてみたいと思います。
 わかりやすく、僕ときっこさんとの一番大きな違いから述べます。ここで筆者のきっこさんはタイル工の少年をものすごく感情的な言葉で糾弾罵倒していますが、きっこさんは自分とタイル工とを同じ人間とは見ていないことが問題だと思います。タイル工の少年の心の闇の問題はここでは置いといて、僕から見ればタイル工の少年もきっこさんも、そしてもしかすると僕も同じなんですよ。どういうことかといえば、二人はどちらも、自分を「正常」の側に置いて、かたやホームレスを、かたやタイル工を「異常」の側に追いやって、「異常」を糾弾することで自分が「正常」であることを確認しているという強固な二項対立的発想を持っているんです。きっこさんは自分が「正常」、もしくは「正義」の側にあるという絶対的な確信があるから、あれほど慎重さを欠いた感情的かつ暴力的な言葉で少年を一方的に糾弾罵倒できるので、彼女にとっては爽快かもしれないけど、それは僕に言わせれば、きっこさんのやっていることは、「このクソガキの「ホームレスなんか犬や猫と一緒」だから「殺してもいい」っていう理屈」と大して変わらない暴力なんです。このように人間の怖いところは自分を絶対的正義、正常の側に置いたとき、「異常」な他者に対して無制限に暴力を振るえると思ってしまうことで(アメリカがそうですよね)、そういう「正常」な人間の、自己の暴力性に対する自意識の欠落こそが問題だということを言いたかったのです。
 だけどきっこさんの中に、私は犬猫を簡単に殺したりするような人間ではない、ましてや人間だなんて、という思いがあることはわかります。でも毎日の食事で僕らは動物の肉を食べるために膨大な数の動物を殺しているし、しかもそれらを残飯として大量廃棄したりもする。鳥インフルエンザが起これば健康な鳥も「処分」されるし、捨てられた犬や猫も捕まって五日後には「処分」されてしまいます。そのような僕らの意識とは無関係に構造的な暴力を内部に持つことによって僕らの「正常」な社会は維持されているんですね。
 そして僕らはそれを日常生活の場から遮蔽し見ないことで「正常」な世界を作り上げています。(これを「第三項排除」と言ったと思います)それは自分で直接手を染めなければ、「正常」な生活が維持されるのであるならば、見えないところで何が行われていてもかまわないということでもあります。それは自分が兵士になるのでなければ戦争をしてもかまわないというエゴイズムと通底しています。だからホロコーストは容易に起こりうる可能性があると思うのです。「正常」という観念や世界は非常に欺瞞的で、またとてつもなく暴力的だと言えます。
 前回書いたように、前近代では、人間の生活のなかに暴力は目を背けることのできないものとして存在していたわけです。だから昔の人は食べるために生き物を殺すというときに、罪の意識を抱えざるを得なかったのでしょう。罪の意識を抱えた人間は、自分を「正常」の側に置くことなどできないのです。だからこそ宗教による救いを必要としたし、罪を重ねないために、それだけ逆に自分の暴力に対する抑制が働いたのではないでしょうか。(よく時代劇では昔の人を野蛮で暴力的に描いていますが、あれはきっと大きな間違いで、やはり僕らは理性ある「正常」な人間として自己肯定したいために昔の人を暴力的な野蛮人に仕立てたいのでしょう。)
 現代人が宗教を必要としないのは、私たちの生活から暴力が抑圧され構造的なものがそれを代行しているからで、それで私たちは罪の意識をもたずにすむのでしょう。しかしそんことがどこまでも人間を傲慢な存在に仕立て上げていくわけです。その傲慢さも行き着くところまできているような気がします。そういう意味で、私たちの社会の構造的暴力を自分の問題として考えるために、生き物を簡単に殺す人間社会(私自身も含まれるところの)の罪を見据える必要があるのではないかと思ったのです。
ところで宮崎の方、台風がひどかったようですね。僕はちょうどその日に福岡にいたのですが、福岡は外れの方でしたが夜中の雨はものすごかったです。やっぱり九州の台風は関東と違い災害という感じですがします。
 僕はやっと面談が終わりました。しかし梅雨時が寒かったので冷夏になると思ったら猛暑が続いています。みなさんご自愛ください。
お久しぶりです。関東はまだ梅雨が明けませんが、セミが鳴き始めたので真夏に入ったようです。ただ暑くても30度がやっとで、今年は関東は冷夏のようですね。一学期の仕事がやっと終わり、また近代部会での報告も終わり、今一息ついています。しかし夏休みには入ったとは言っても、午前中は赤点補習と進学課外、午後は三者面談で一日追われています。私立高校なので三者面談は必ずやることになっていて、1クラス40人を今月中にやらなければならないので大変です。

 小林照幸という人の「ドリームボックス―殺されていくペットたち」というノンフィクションを読みました。現在、捨てられて「殺処分」される犬、猫のペットが日本で年間40万匹以上いるそうです。ガス室で殺されるところなど生々しく語られています。著者もアウシュビッツを想起すると書いていますが、まさに動物版ホロコーストそのものです。ただし単純に行政は残酷だと批判しても、現代社会の構造的な問題として考えなければどうすることもできない問題です。

 ふと異様に思ったのは、私たちの人間と動物の死についての感じ方、考え方のあまりにもの落差です。先日宮崎でも鳥インフルエンザがありましたが、インフルエンザが起こると鶏舎内のニワトリはすべて「処分」されます。そういうニュースを見て感じるのは、一万羽を「処分」したというニュースを報じる側に何の痛みも感じられないことです。

 毎日何万頭という豚や牛が屠殺され、食卓に上っています。いろいろな宗教で殺生を禁じていたりしますが、宗教の戒律の問題である前にやはり同じ生き物を殺して食べるということに対する罪の意識が土台にあったろうと思います。命に対する畏怖があったと思うのです。

 昔子供のときに父親が鯉をもらってきて、風呂のなかで泳がせていました。生きている鯉を間近に見ることなどなかったので、夕方まで眺めていました。夜、その鯉が食卓に上がったのですが、さっきまで活き活きと泳いでいた鯉のことを想像すると食べられませんでした。誰しもそういう経験はあると思います。昔の人は自然のなかで生き物と共生していながら、それを捕まえて、殺して食べるということは、子供の私が感じた以上のいやな感じがあり、その気持ちを押し殺して食べていたのかもしれません。そこには当然罪の意識も生まれます。殺生をめぐる宗教の問題は、まず宗教の問題というよりも、日常のそういう罪の意識、業からどうしたら救われるかというようなところから生まれてきたのではないかと思います。

 近代になって、人間が地球の支配者になったとき、スーパーに並ぶ生き物の肉片は生の痕跡を失い、「食品」「食材」というモノになってしまいました。もはや命に対する畏怖のかけらも感じられません。犬、猫の「殺処分」と鳥インフルエンザの「処分」、そしてスパーに無機質に並ぶ「食品」「食材」には共通する心性がそこにあるように思います。

 殺生はいけないなどと宗教がかったことをいうのではありません。問題に思うのは、他の生き物の命にあまりにも無関心だということ、生き物を殺すということに対してあまりにも鈍感になった現代の私たちの人間中心主義的感性について、本当にこれでよいのかということです。生態系破壊という問題もありますが、私が今深刻に思うのは、そういう感性はホロコーストに直結するのではないかということです。動物と人間は違うという人がいるかもしれませんが、ホロコーストは他者をモノと見る感性から発生するものです。だから戦争のように人間(他民族、他人種)をモノとして見下す契機さえあれば、その人達を殺害することには何のためらいもなくなるのだろうと思います。つまり他の生き物の生命を奪うと言うことにあまりにもためらいのない現代の人間の心性の奥底には、いつ大量虐殺を招いてもおかしくない暴力性が潜んでいるのではないかと思うのです。

この夏はあまり暑いので家のなかにこもりっぱなしでした。ただしつれあいが夕方まで仕事で出ているので、子供の手前だらだらも出来ず、昼間は主夫として結構規則正しい生活を送りました。(仕方なく、ですが)
 8月の17、18日は、熱海で日文教近代部会の合宿がありました。中村亮さんの泉鏡花の「草迷宮」、鈴木正和さんの大庭みな子の「火草」についての報告と議論でした。合宿は地方に行った人たちが久々に顔を合わせる同窓会のようなもので、前田先生ともお会いしました。活発な議論が展開し楽しい二日間でした。後藤さん、綾目さんともお会いできるかなと楽しみにしていたのですが残念でした。
 その4日後の22日が学校行事の富士登山でした。今年は晴れていい景色を眺めながら登ることができました。遅れた生徒の世話で大変な部分もありましたが、ゆっくりだったので体力的にはずいぶん楽に登ることができました。ただ今年は雨が降らないせいで地面が乾いていて、砂埃がひどかったのにはまいりました。紫外線も強く、帰ってきて顔の皮が一枚むけてしまいました。(ただむけたのではなくて本当に一枚むけるという感じです)
 この夏は前にも書いたように、ビデオやDVDで映画を見まくりました。なんとなく以前録画していた黒沢明の「用心棒」を見たら、チャンバラ映画の贅沢な作り方に改めて驚いて、黒沢明に今更興味をもった次第です。黒沢の映画を見ていて興味深く思ったのは、映像が語っていることと、ストーリーやセリフが語っていることとが分裂していると感じることが多く見受けられるところでした。「影武者」では長篠の合戦で河原に横たわる人馬の屍を描き、権力の虚しさ、戦争の残酷さを強調しながらも、しかし他方では幾度となく出てくる武田の騎馬隊の整然とした進軍の映像には明らかにヒロイックに美しく撮ろうという意図が見て取れます。暴力や権力に対して批判的なメッセージを物語のなかで発しながら、映像の語る暴力や権力の存在感が思わず観る者を引きつけてしまうということが黒沢の映画にはあります。(「七人の侍」や「用心棒」などは弱者のための暴力、正義の暴力ということで、暴力は肯定的に存分に描かれますよね。そういうところが映像の斬新さと相まって、「正義の国」アメリカで評価される要因があるのかとも思います)
 また「酔いどれ天使」などは、志村喬演じる医者真田が主人公のはずです。物語としては結核とヤクザを古い日本の比喩として、これからの戦後日本では〈理性〉がそれらを葬り去るのだと主人公が謳いあげているものの、しかし映画のなかで一番存在感をもっているのは若いヤクザ松永の三船敏郎です。その死にざまが非常に叙情的に撮られているように、明らかに黒沢は善悪に関係なく若いヤクザ松永の存在に惹かれているのです。映画はおそらく最初の構想にあった思想とは別のものを語っていて、むしろ最後の真田のセリフが場違いのようなかたちで分裂したまま物語は閉じられます。
 文学が基本的には文字だけでメッセージを伝えるのに、映画は集団製作ということもあり、映像、シナリオ、演技など複数のメッセージ媒体を持っていて、複数の〈語り〉によって作品世界が成り立っているということが黒沢の映画を見るとよくわかります。もちろん文学作品も単線的な語りによって成り立っているわけではありませんが。
 黒沢はプロレタリア芸術運動出身だけに予定調和的な通俗性も否定しないし、しかしドストエフスキーやゴーリキー、シェイクスピアの世界を意欲的に持ち込んできたり、社会派でもあるように、予定調和的なものには収まらない世界観も持っています。弱者に対する限りない共感を持つとともに、権力に対する憧憬ももっている。いまは思いついたまま書いていますが、ともかく黒沢明の面白さは、黒沢明自身、黒沢映画はそういう分裂や矛盾を抱え込んでいて、その分裂が映画のなかに複数のメッセージとして対立しながら、それを監督が強引に作品を破綻させずに一つの世界として完結させているところです。それが作品世界に奥行きを与えていて、その猥雑な世界がとても面白いと思いました。ただしバランスが崩れて、観念に引きずられると説教臭くなったり(昔見た「生きる」はそんな印象があります。もう一度見直すと違うかもしれませんが)、複数のメッセージを統御する力が弱るとどこに焦点があるのかよくわからない「影武者」のようになったりする危険性もあるのだと思います。
 映画批評のまねごとみたいな文章を書いてしまいました。別にカルスタに進出しようということではないです。この夏と言ったら参院選のことかと思いましたがちょっと文章にまとめるにはしんどいです。(合宿で前田先生が書かれるとおっしゃっていたので期待しています)まあ黒沢ファンや映画ファンならもっと熱く丁寧かつ詳細に語るのでしょうが、この夏は暑すぎて思い出を残すということもなかったので、この夏の唯一自分のなかで充実した黒沢体験のまとめということでこんなものを書いてみました。 (高口)]]>
ところでこれまで様々な人の死を見送ってきましたが、16歳の少年というのは初めてでした。棺のなかで横たわる彼の顔を見ていると、やはりその子の運命について容易に納得できないものが残ります。お母さんと二人暮らしで、お母さんこそあまりの突然のことに僕以上に納得のいかないものを抱えておられ、そしてこれからそのような想いを抱えていかれることと思います。
 人の死に巡り会うと、いつもそこには納得しようとしても納得しがたい〈なにか〉が残ります。
 死という出来事は絶対性をもっています。どのような最期を迎えるかは全く予測がつきませんし、その最期は生き残った者にとって容易に納得できない場合もあるでしょう。またそれ自体、世界観を揺るがしたり、〈関係〉を必要として生きる人間にとっては関係(小さな家族から共同体までの、精神的な部分だけでなく秩序さえも)を毀損する出来事であるわけです。だからそこから再び家族なりが共同体のリズムに復帰するためには〈喪〉という長くゆっくりした期間が必要だったのだと思います。
 死というものが残された人間の心や関係に与える影響ははかりしれません。だからこそ戦争を遂行する近代国家にとて、死をめぐる問題は、権力にとって管理統制すべき重要な問題だったということだと思います。
 この数十年の日本の資本主義の繁栄は、容易に世界の裂け目をみせることがなくなりました。したがって資本のイデオロギーだけを信仰していれば生きていくことに不都合はなくなったわけです。それまであった人間と自然との関係、営みは、文明のもとに自然を管理、商品化することで、私たちの目の前から自然の持つ予測不可能性を排除していきました。死はたんに生命活動の停止という現象でしかなくなってしまい、死は病院から葬儀会場、そして火葬場へと自動的に流れるベルトコンベアーのように消費される出来事になり、死を受けとめ納得していく家族の想いとは無縁な、そして共同体とも無縁なものになってしまいました。このように資本のリズムは人間の自然な営みを無視し、〈喪〉などという精神的な意味で遺族が共同体に復帰するゆっくりとした自然な時間を許してくれません。遺族はあっというまに日常のなかに復帰しなければなりません。
 前近代の思想や秩序を人間は非科学的だと排除したのですが、しかしむしろ前近代の方が人間の自然に即した部分があり、人間に忠実で、人間の自然を無視し管理統制するようになった近代こそ〈非人間的〉なのかもしれません。資本主義社会というものは、人間のなかに大変なひずみを生み出しているのではないかと思います。
 久々の投稿ですが、あまり明るくない話ですみません。なんか内山節っぽい文章ですね。(高口)

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