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試想の会のブログです。
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 たまにはこんな歌でも聴いてみるのもいいのではないでしようか。
 このホームページの面倒をみてくれている黒木豪君が、専任の高校教師に今年採用されました。こころから祝福したいと思います。
 その彼が結婚するというので、都城へ2月12日行ってきました。
 しゃれた手作りのいい結婚式でした。プロポーズはなんと韓国岳だそうです。山好きの「試想」の会のメンバーにとってはたまりませんね。この山からはすぐ近くにあの新燃岳が見えます。黒木君らゼミの学生たちを連れて韓国岳に登ったこと昨日のようです。ところで、その新燃岳はご承知のように大爆発を繰り返しています。個人的に新燃岳は好きな山で韓国岳よりも多く登っています。そう年に2、3回は必ず登っていました。河口の小さな湖はとても美しいルビー色をしていていつも登山の疲れを吹き飛ばしてくれました。頂上で飲むコーヒーはぼくの至福の時でもありました。その山が大爆発をおこし、粉塵が町中に飛び交い、いった時は風が強かったこともあり、ここで暮らすことの大変さを実感しました。しかし、そんな大変さの中で豪君はじめ多くの方ががんばり、明日に向かって走りだそうとしています。今日はそんな人たちに送りたいこの歌を紹介します。暇な時、クリックしてみてください。(前田角藏)

http://www.youtube.com/watch?v=6qtFt7GTSfc


http://www.youtube.com/watch?v=wFG_e8ueM6c
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  前に東京学生会館OB会のことを書きました。今日は、学生会館の初代委員長であられた白鳥真澄さんに昨年暮れ、何人かとインタビューした結果をふまえて、〈貧困学生=学館生、文部省=援護〉といった単純な図式について考えてみたいと思う。
   白鳥さんはまずしい学生であったことは事実らしいが、除隊の前の経歴を聞けばわかるように陸軍中野学校出身者で満州で活躍、陸軍大尉であった。貧困学生といっても、学徒動員で勉強したくとも無理に動員されたいわゆる学徒動員生ではなく、したがってきけわだつみの会の犠牲者的イメージとはかなり異なっている。学生会館の成立過程の物語・・・貧困学生が戦地で放り出されて、都会に浮浪者のようにやってきたがすむところもなく、やっと旧兵舎であった学生会館にたどり着いたといった物語・・・は事後に作られた物語のような気がする。国家によって連れ出された学徒、そしてそれだけに二度と戦争はしてはならいと反戦平和に燃えた・・・こういう反戦学生のイメージも全くすべてが嘘だとは思わないが、後から作られた物語のようなきがするのだ。白鳥氏らは九段の兵舎は開いているはずだ、水も電気もあるはずだとというかつての諜報知識があって兵舎後にやってきたのであり、また諜報活動もお手の物であったので二ヶ月くらいでわっと都内の貧乏学生が集まってきたというのが事実に近いだろう。彼らの意識の中には、戦争では負けたが、これからは勉強して技術、科学でアメリカに一泡吹かせたいという共通のメンタリティを持っていたとも言えようか。ようするに戦争=犠牲=平和と民主主義という図式は、完璧に誤謬というわけてせはないが、一面的であり、表面的であったということなのだ。意地悪く言えば、戦争=犠牲=平和と民主主義ということによって、それ以前に自分は何をしてきたのかを問わなくなった、つまりこの図式は、過去のことを不問にしたという機能をはたしたのではないかということなのだ。
話はかわるが、密かな研究会をやっていて、そこでシベリア抑留体験のある石原吉郎のテクストを読んだ。詩はなんとも言えない重々しさを感じたが、エッセーでは、満州でやってきたことの意味についてほとんど語られていないことが気になった。もちろん、石原を責めるのではないが、日本あるいは日本人は、これは小生の持論だが、戦争のこと、特にアジアで自分らが何をやったか本質的に詰めてこなかったのだ。いろいろな事情があったにしても、戦争の忘却であり、健忘症にかかってきたのである。国家があの戦争に対して責任をとらなかったばかりか、あったことはいうなという箝口令をしいたため、国民は戦争の罪を一人一人あの世までもっていくような事態に陥れられたのである。恐ろしい失語状態に追いやられたのであった。国家が戦争の罪を背負うのではなく、一人一人の国民に背負わせるといった国家がどこにあるのだろうか。どこにもないだろう。だからこそ、われわれは、国家の品格などという前にずっと品格がなかったのだということを自覚する必要がある。そしてこの自覚のもと、もっともっとかっての戦争のことを語るべきなのだ。(前田角藏)



  この度、下澤勝井氏が中日出版社より「伊那谷五十景」を出版された。下澤氏はご存じのとおり、ながく新日文で活躍されていた作家で、評論もかかれ農民文学、プロレタリア文学にも精通されている。小田切秀雄門下の一人で、小生からすると大先輩にあたる。氏とは小田切先生の命日にはかならずお会いする。あたりのやらかい人であるが、思ったことはずばり指摘する熱血漢のところがあり、いつ自分にそれが向かってくるかびくびくしているところがある。
  さて、この本は、信州飯田市にある「信州日報」に三年ほど掲載されたものを一冊にまとめられたもので、「掌の小説 伊那谷五十景」とあるように五十編の短編を集められたものである。五章から構成されており、一章 「ちょつと昔のはなし」、二章「ずっと昔のはなし」、三章「想い出の引き出し」、四章「そして近頃」、五章「谷間のひとたち」で、各章にはそれぞれ五から十二の小説が配置されている。
  下澤氏は「あとがき」の中で「小説集とはなっているが、内容は限られた地域と時代の証言録、報告集」だと謙遜されている。しかし、本書に収められた小説は事実をそのまま記録したわけではなく、「より現実感を添えたいために、フィクションの力」が縦横に駆使されている。たしかに、ここに書かれた世界は氏が直接あるいは間接にみたもの、体験したことがベースとなっているだろうが、ここではそうした私小説性は余り感じられない。登場する人々は、なるほど戦前、戦中期、あるいは戦後の〈伊那谷台地〉にすんだり、通過したりした実在の人物だろうが、この小説ではそれぞれの歴史、風俗、生活を背負いつつ駆け抜けている。バリカンで半分だけ髪を刈られた少年も、かならず村にやってくる夫婦の「乞食」も〈伊那谷〉台地の貧しさとおおらかさと優しさといった普遍性をもって読者に迫ってくるのだ。それは、やはり氏の駆使している虚構の術によっていると思う。氏はここでは、戦前、戦中、戦後の〈伊那谷〉に生き、通過した人々を自分がみたり聞いたりした話として直接語るのではなく、退いた位置から一種の語り部として楽しそうに語りだしており、それは、ずっとずっと昔にあった昔話をいろりにあたりながら子どもたちに語るおじいさんのように、新しい近代(昭和)の 民話をやさしく、楽しそうに語っており、近代の語り部のようである。
  この小説を読むと小生にもかってあった村の記憶がよみがえり、なんとなくうなづく場面に多く遭遇した。蚊に刺された動物の一部の肉(皮膚)がぴくぴくそこだけが動くといった描写にであったたりすると、自分の気分もはるか昔の昭和にワープしていくが、それらのことすべてが、本書における氏の語りのスタンスに負っているのだと思う。
  印象に残った作品は多い。特に「つながり乞食」「山羊のいる風景」「バリカン物語」「軍馬・秋月」「井月の坂」がいい。氏の眼力の深さと優しさが如実に表されている。また、五章に配置された小説はどれも逸品であるが、「絵島幽閉」では、当地が大奥絵島事件で有名な絵島が幽閉されたところであったこと、「少年・西尾実」では、あの著名な国語教育学者西尾実の出身地であったことなど教えられ、その点でも、大変有意義な書物であった。(前田角藏)

 しかしそうやって金銭的余裕が出来て、いろいろな指揮者や演奏家のものを聴き比べることが出来るようになると、同じ曲でもそれを指揮したり演奏したりする人間でまったく違ったイメージをもつことがわかってくるし、自分の持つイメージが、ある指揮者や演奏家のある一つの解釈でしかないことがわかってくる。
 そうこうしながら次第に最高の演奏とは何だろうかと考えるようになる。そういう欲望を掻き立ててくれるのが「CDの名盤100」などと銘打った評論家による推薦盤のカタログ本だ。ところがそういう本に何冊か目を通していると、著者によって紹介されるCDが全く異なっていることがわかる。しかも読んでみると、音楽はもっとも言語から遠い芸術だから、評価についてもどうしても技巧的なものについての評価が多く、それ以上中身に踏み込むと主観的で抽象的な言い回しが多くなる。だから評者が個人の好みを「通ぶって」めいめいに主張しているだけじゃないかとも思える側面もある。
 ただもう少し冷静になって考えると、このようなカタログ本の横行が示しているのは、一曲の解釈をめぐっても演奏の評価をめぐっても「絶対」というものが存在しないということである。存在しないどころではない。かりにただ一つの「ほんとう」が存在してしまったら、その後に続く者はただの亜流にすぎなくなる。
 もしそんなことがあって、ただ一つの尺度しかなかったら、それに納得できない人間は二流の感性しか持っていないのだからダメだというのならファンは一斉に離れるだろうし、芸術は本当につまらないものになるだろう。芸術の活性化のためには曲のイメージ、評価を「唯一」に収斂させることは自殺行為なのであって、「差異」こそが命なのだ。
 もちろん指揮者や演奏家、聴き手にも唯一の「ほんとう」を求める欲望は存在している。しかしその結果が「唯一」に収斂していくことはない。「私」を主張するためには、徹底的に「差異的」でなければならないからだ。なによりもそのような「ほんとう」のものを自分こそは手に入れたいという欲望自体が、記号としての音楽、芸術の持つ意味産出機能、あるいは想像性と、「表現」という差異、あるいは解放への欲望に支えられているからだ。
……続く   (高口)

 
 学生会館のことは、前田先生と北の丸公園・千鳥ヶ淵に花見に行ったときに話を聞きました。しかし知らない僕らには昔から現在のような場であったように思えるから驚きです。
 とくに東京と言う場所に住んでいると、大資本によって町がありえないような変貌を遂げて行きます。そして10年も経つと、以前そこになにがあったか忘れ去られ、あたかも昔からずっとそうであったようなことになってしまいます。だから権力による歴史の捏造には気付きにくいし、だからつぶされていく、消されていく者の側の記憶に固執し、それを問い続けていくことには、私たちを支配している権力が何なのかを問うことでもありますね。

 ところで職場の高校の二学期と言うのは、夏休みが終わって生活のリズムが壊れ、しかも暑さで体が弱っているところに怒涛のように学校行事が行われるので、10月下旬の中間テストまでは息もつけません。最近、その緊張から解放され、たまった疲れが出たのか体調がいまひとつという感じです。心のリハビリではないのですが、僕も自分の趣味について文章を書いてみました。個人的なことばかりダラダラ書いていますがご容赦ください。


 30代の頃はジャズに関心があって、ジャズばかり聴いていたが、40代の後半になると再びクラシックが聴きたくなって、クラシックのCDを図書館で借りたり中古屋で安く買ったりして聴くようになった。クラシックの面白いところは、好きな曲に出会うと無数の異なる演奏家の演奏を聴き比べることが出来ることだ。最近ではブラームスの交響曲第二番やシベリウスのヴァイオリン交響曲が気に入って、いろいろなCDを聴き比べてみた。 ただ私は音楽はもっぱら聴くだけで、理論や演奏技術のなど専門的なことについてはわからないので音楽評論など書けない。ただ音楽を聴いていて文学を考える上でのヒントをもらうことがある。クラシック好きの人からすれば自明のことでも、それが文学にくるとそうではないということがある。そんなことで気づいたことについて書いてみようと思った。

 先日、市の図書館でやっとパブロ・カザルス指揮の、モーツァルトの後期交響曲を集めたCDを見つけた。借りたいとは思っていたのだが、いつも誰か借りていたのでお目にかかれなかった。昔レコードで聴いていたマルボーロ音楽祭でのライブ録音のCD版で、レコードはA面が38番「プラハ」でB面が39番だった。「プラハ」の第一楽章の第二主題の木管楽器の掛け合いがきらきらした木漏れ日のようで(――なんて気取っているのではなくて、音楽の言葉で表現する術を知らないので)大学生の頃、最も好きなレコードだった。それからレコードが聴けなくなって、他の指揮者の「プラハ」を聴いたがカザルスに及ぶものはなく、CDの存在は知っていたがめぐりあう機会はなかったのだ。
 懐かしかったので早速借りてきて、大きな期待をもって聴いてみた。だが実際聴いてみてがっかりした。なにか「やたら威厳はあるのだがのったりした」その演奏が「古色蒼然」という感じで、それまで大切に抱いていたいたイメージが裏切られたような感じだった。初恋の人に同窓会で再会してがっかりするような、誰でもよくあることだ。昔のイメージを抱き続けるうちに理想化しすぎてそれが一人歩きしてしまったということだ。
 ただその時「クラシック」という音楽自体にも、新しい、古いということがあるんだなあと、改めて面白く思った。

 ところでこのように、一人ひとりの聴き手にとって曲のイメージを決定づけるのは最初に聴いた演奏、もしくは最初に感動した演奏であって、特にレコードやCDの場合は繰り返し何度も聴くので、一つの曲をめぐるイメージは誰の演奏を聴いたかに大きく左右されてしまう。それほど豊かでもない田舎の子供だった私は町のレコード屋にも頻繁に通えるわけはなく、買った一枚のレコードを何度も何度も大切に聴いた。そういう場合ほど、そのレコードによって与えられる曲のイメージは決定的だ。
 たとえば私にとっての「プラハ」はカザルスのものだったし、ベートーヴェンの交響曲とジョージ・セルという指揮者は切り離すことが出来ない。当時カラヤンのレコードは2500円だったが、セルのレコードは廉価版と言って1300円で買えた。だから当時ジョージ・セルが何者だか知らないし、好き嫌いの問題ではなく、経済的な理由からセルのレコードばかりを買って聴いていた。このセルの影響は大きいもので、軽快なテンポで、細部に装飾のないシャープな、統一感のとれたジョージ・セルの指揮に慣れると、その後当時人気のあったカラヤンのレコードを聴くと大仰な芝居めいたものに聴こえて仕方なかった。だから今でもカラヤンは好きではない。ただ私は専門的なことはわからないのでたんに好き嫌いの問題でしかないが。
……続く  (高口)
 

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