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試想の会のブログです。
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試想の会では、第二次の試想の会を立ち上げようと企画しています。一応、暫定的な趣意文案を紹介しておきます。いろいろ広く参加を呼びかけています。趣意書への意見があったらコメントよろしくお願いします。みんなで検討していいものをつくる予定です。

       草案 『試想』の再建に向けて
 『試想』8号を発行してからしばらく休刊状態が続いている。8号は2013年7月発行だから、二年半も休刊状態が続いていることになる。休刊の原因はいろいろある。その最大の原因は、同人の後藤康二氏が2014年11月29日に病気でなくなり、われわれ同人の中にポッカリ大きな穴があいたからである。しかし、そうしている間に、世界はイスラム国、あるいは難民問題をめぐって液状化しつつあり、国内では急速度に保守化が進行し、憲法改正を堂々と宣言する暗い時代へと移った。国内ではメデイアが象徴的であるが、正論を吐くことを控え、権力者の方ばかり向いて発言する、自己抑制(自己内検閲)のきいた発言ばかりが目立つようになった。この状況は新聞やテレビだけでなく、研究者の中にも浸透し、グループのトップの気分ばかりを気にかけ、まことに唇寒しの状況を生み出すに至っている。まさに、どんどんと個人のプライド・尊厳性を自ら放棄し、ちゃらちゃらし、いつの間にか社会には〈民主性〉が見失われ、〈独裁性〉=〈権力的横暴性〉がやたら充満するという恐ろしいファシズム的な状況が全体的に作り出されている。
 それにしても、このような無力で惨めな状況はいつ頃から始まっているのであろうか。もちろん、起源についてはいろいろな見解・解釈があるはずであるが、一つとして、1960年以降、イデオロギーの終焉論が巻き起こった頃からではないだろうか。日本の文化・思想界はこのバブル肯定理論たるものに浸食され、イデオロギー=〈悪〉の風潮に支配されてしまったのではないかと考えられるからである。この時期、記号論、テクスト論、ポスト・コロニアリズム、カルチュラル・スタディーズ等々の外来思想が日本で流行したが、不幸にも、これらの外来思想は、このイデオロギー終焉、抹殺という深層での事態を隠蔽あるいは促進する機能を担ってしまった。例えば、この期間、近代文学の研究領域では、研究の方法論の差異ばかりに気を取られて、小さなコップの中での指導権争い、宗派争いをしてきた。記号論、テクスト論、ポスト・コロニアリズム、カルチュラル・スタディーズ、フェミニズム等々の外来の方法論、思想をわれさきに取り入れることに精を出し、そこには、日本に根ざした方法論化の葛藤、もがきがなく、先端的な「様々な意匠」の見せ合いレースが展開されたのは周知の通りであろう。これには研究者だけでなく、出版社などのメディアの問題も多いにかかわっていたことを記憶しておきたい。ただ、あらためて、今の時点からこの過去の四、五十年の歴史を振り返ると、この四、五十年の時期こそまさに物の豊穣さの中で、〈哲学するこころ〉を忘れ、まさにイデオロギーの解体・喪失の過程であったとも言えるのではないか。
 ここで、イデオロギーという場合、何か性急な一つの政治思想のみをさして使っているわけではない。どんな社会でありたいかという人間の素朴な〈夢〉〈希望〉もまた広義のイデオロギーというものではないか。その意味で、この四、五十年、われわれはどんな社会でありたいかという〈夢〉や〈希望〉という思想性=  〈哲学するこころ〉を喪失してただバブル、物の氾濫の中で生きてきただけということになろう。
 イデオロギーの終焉説は、直接的には、社会主義への〈夢〉や〈希望〉をもつことへの絶縁宣言であった。しかし、この社会主義への〈夢〉や〈希望〉をもつことへの絶縁宣言は、そこにあった個、個人、他者の大切さ、人権の尊重という戦後的価値の骨太の部分さえ見失ってしまう危なさを抱えていた。そこに、継承されるべき大切なもの、すなわち個、個人、他者の大切さ、人権の尊重という骨太の思想性があったことに無自覚、無頓着であった。その結果、イデオロギー終焉という時代の流れの中で、社会主義への〈夢〉や〈希望〉はもちろんのこと、民主主義への〈夢〉や〈希望〉をもつことさえ《悪》であるかのように錯覚し、どんな社会でありたいかという人間の素朴な〈夢〉〈希望〉としての思想性さえ見失ってきたのである。そしていつの間にか、暴力や抑圧への《反抗》よりも、冒頭で述べたようなより強いもの、権力的なものものへのすり寄り現象が常態化してきたのではないかと考えられるのである。
 第一次『試想』は、そもそもそういう非主体的な無思想状況と戦うべく創刊されたものであった。『試想』の会では、思想性を喪失して方法主義に陥っているさまざまな外来思想の移植にたいして、その方法の斬新さの背後にある思想を読み取る必要性を説きつつ、その上で、そういう方法の移植だけでなく、これまでの日本での文学原理論の達成を確認し、それをどう超えるかの必要性を説いてきた。吉本隆明以後、なんらマルクス主義美学は克服されてこなかったが、われわれはこの現実を問題化し、この現状を超えることこそ、急務ではないかと考え、「試想」の会を立ち上げたのであった。しかし、我々のその闘いは不十分であった。吉本以後、日本の革新思想の核心的な宿題課題たる政治と文学の問題、文学的価値とは何かについての原理論的追求が要請されていたが、この重要な課題追求への共通した深い問題意識を共有することができなかった。相互の立場などを過度に配慮した結果、遠慮が働き、議論を深めることができなかったのである。この点を会は深く反省し、新しい会では、より活発な議論をメール討論・各自の論文等々で展開し、唇寒しの全体状況に対して果敢に異議申し立てを行っていきたい。
 ところで、2011年(平成23年)3月1日の東関東大震災にともなう原発事故は、近代科学への発展=〈人類の幸福〉という図式の幻想性を暴きだし、さらに、右翼的なファシスト政権たる安倍政権は、これまでのわれわれの戦後思考の根底にある人権をベースとした他者との共存という民主主義への〈夢〉や〈希望〉を非日本的弱性として揶揄し、民主主義を制度的に保証した日本国憲法を、配給された戦後思考からの脱出というパフォーマンスのもと埋葬しようとの野蛮な欲望を持ち始めた。その結果、逆にわれわれは、近代科学への発展=〈人類の幸福〉という図式を根本的に問い直すとともに、人権をベースとした他者との共存という民主主義への〈夢〉や〈希望〉を持ち、さらに、それを再構築しなければならない必要性に迫られている。中野重治が『五勺の酒』で書いたように、「中味を詰めこむべき、ぎゅうぎゅう詰めてタガをはじけさして行くべき憲法」と同じような努力こそ急務になっているということである。われわれは、これを好機として、反撃の立場から、一国主義の眼鏡を外して、世界、自然、人間の諸関係を改めて見直してみることの必要性に強く迫られているのである。
 文学テクストの領域でも、この人権をベースとした他者との共存という民主主義への〈夢〉や〈希望〉にもとづいた新しい闘い、読み直しが要請されている。これまでの主人公の意識中心の読み方を転換することで、近代日本の諸作品=テクストの新しい可能性を発見し、またそれにもとづいた一国主義の眼鏡から解き放たれた東アジア的地平の中で、新しい近代文学史が構築されなければならないだろう。少なくとも、近代的自我史観にもとづく教科書的な近代文学史を見直す必要があろう。もちろん、雑誌『試想』は生硬な政治的言説をヒステリックに叫ぶ〈場〉でもなければ、先鋭な方法の差異を競い合う〈場〉でもなく、ましてやそれまでの各人の業績や権威を誇る〈場〉でもない。あくまでも日本近代の文学、文化の諸テクストの分析を通して、今の日本の不幸な状況に対峙せんとする志だけを共有する〈場〉であり、ナショナリズムへと急旋回している状況に抗える〈場〉=同人誌であるかどうかのみが絶えず問われ続ける自己責任の〈場〉である。
  以上、述べてきた視点・立場にたち、一次よりもさらに、自由で積極的な問題意識に溢れた言説の〈場〉を目指して、ここに第二次の『試想』の会を立ち上げる。
                 2016・2・11      『試想』の会同人 
                                                                
                                                          

会の約束
・趣意書に同意すれば誰でも入れます。
・会費は、雑誌発行費のみで、平等に分担します
・年一本の論文執筆をめざす(テーマは自由)
・メール討論の企画と参加(参加は希望者)
・年一回、メール討論企画案検討と雑誌合評会
・好きなときに書いたり参加できるオブザーバー制もとりいれています

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 「文学的価値=〈関係の豊かさ〉」論の構築に向けての試論ーー
                                                      前田 角藏
             一
  私は、これまで、「意識の劇」から「関係の劇」へという論を詰める形で、主人公の意識、思想、主体性の高さ、深さ(たいていは罪と救いの物語に収斂する )でのみテクストの価値、評価を下してはならず、むしろ主人公を含めてテクストに表出された〈関係の豊かさ〉をもってその価値、評価をくだすべきだと主張してきた。主人公だけでなく、語り手、あるいはテクストそのものによって作り出された関係の豊かさ、その豊かな関係性を価値、評価の基準にすべきだと主張してきたのであった。この間のいきさつについては、同人誌『試想』の各論文を参照していただくと大変ありがたい。注1
 私は2012年から、中国の福建省にある福州大学に毎年、客員教授として行っている。その大学では日本の近代文学を講じている。中心は、日本近代文学史の授業である。しかし、私は、この授業を通して、いくら熱心に、坪内逍遙の「小説神髄」から浪漫派、続いて自然主義、白樺派などと語ってもほとんどそれらは学生にとって単なる知識の断片にすぎず、無意味に等しいのではないかという無力感に襲われた。もちろん、私は、なるべく、坪内の小説論の持つ意味について、日本の近代化と絡ませながら、その意味と重要性を語ったのだが、なかなか伝わらなかった。文学の現象を近代化という普遍的な流れの中で、特に、中国の近代化、とりわけ日本との関係の中で説明しなければなかなか学生には理解されるはずもなく、ましてやこれまでのような一国主義的な近代的自我を中心とした文学史や一人の日本人の主人公の「意識」の劇ーー主人公中心的な読みなどではほとんど通用しないのも当然というほかないのである。
              二、
 ここで、少し、話題を変えさせていただき、なぜ、こんな「文学的価値=〈関係の豊かさ〉」論といった論の主張になったか改めて述べたい。
  そもそも、テクスト論の展開によって、作品=作者の自己表現という理解は木っ端みじんに粉砕されたはずである。それは自己表現どころか単なる過去の文化・伝統・制度の引用、模倣でしかないのではないかとその神格化された想像理論は徹底的に批判されたのである。作者の死とかが叫ばれた頃である。実際、作品=作者の自己表現という一種の自明のようなこの想像理論も、では作者の「自己」とはなんなのか作者はもちろんのこと正直誰もわからないのだ。例えば、その作品が作者の内面=自己の愛を言葉に託して表出したとしても、それは作者の持っている百パーセントの内面=自己の愛の表現であったか疑問なのだ。日常、自分の考えている〈愛〉はそんなものではなく、表現してみてどうもそうではなく、自分の心など百パーセント表現することなど不可能なのだということに気づかされるのである。ここから、作品=作者の自己表現という理解のもと、作者の研究へと向かったこれまでの研究そのものが無効化されたのであった。無意味というわけではなく、想像理論からいってあまりにもいびつということでそういう研究方法がしりぞけられたのである。しかし、それではその後の研究がどこに向かったかと言えば、作者の生きた時代の文化・伝統・制度の研究へと舵が切られたのであった。文化研究である。これにはさらに、ポスト・コロニアリズムが加わることによって作者中心の研究は一挙に萎縮していったのであった。今もその進行中である。もっとも、昨今では、何の研究かわからないものが横行して一種のなんでもありの状況を呈していて、研究自体の意味、価値さえ見失われているというていたらくな状況を向かえており、今度は、その研究や読みの意味や価値がアナーキーな状況を生み出していて、そういう価値アナーキーの状況をどう超えるかが課題とさえなっている始末である。そして、悲劇的なことは、こういう状況のもとで、せっかくテクスト論が切り開いた豊かさを反故にして、またもや作者や普遍主義への先祖返りのようなことをささやく論者も現れたりしていることであろう。そもそも、こういう人々の過誤は、〈テクスト〉そのものが書いていないすなわち語られていない〈空白〉によって満たされている構造物であるというテクスト論の常識を理解しなかったこと、その常識の決定的欠如でしかなかったと私は考えているので、くどいことだが、作品=作者の自己表現という幻想の想像理論を紹介したのであった。
 
           三、
 
 ところで、ここで唐突なようだが、こういう論文に出会った。所属している研究会で、田山花袋の「田舎教師」を発表することになっているので、ネットをのぞいていたら、こんな論文に出会った。「田山花袋の『生』についての若い研究者の論文である。若い研究者の典型的な手法なので、紹介してみよう。
 この論文では、テクストを例えば二つの問題系を立てる。「老親扶養と〈老いゆく/病みゆく身体 〉へのまなざしという〈老い〉をめぐる系」をたてて、あれこれその根拠を実体としての法律と引用で論証するという手法である。そしてさらに、「身体の国民化」の系をたてて、女が性・生殖の国家統制として国民化され、さらに天皇への国民の忠と孝、すなわち家族主義的国家観による補強とで再編成されていく様態を指摘している。花袋の「生」は、自分の家族、家の歴史を老母の病と死を通して再編成されていく様子を描いたテクストであるが、ここでは、まず外側から、問題の所在が整理され、その問題を歴史学などの文献などを動員、さらに文中からも引用することで、あたかもそれがこのテクストの中に実在したドラマであるかのように組み立てていく手法である。そして、最後に、「生」は、「世紀の転換期における身体のカテゴリー化というドラマを包含する」テクストとして閉められる。論としては、見事な切り方という印象を受けるが、こうなると、何も、あえて「生」でなくとも、他のテクストでもそう読めるのではないかと思えたりするのである。
 たしかに、語り手(の意志)を越えてテクストの空白を読めというのは私も主張している。しかし、それは語り手の意志を無視してなんでもこっちの思うように読め、あるいは読んでもいいということではない。それでは人の話をろくすっぽ聞かないで、あなたはこういいたいのでしょうと一方的にこちらの解釈、読みを強要、強制しているのであって、それは一種の読みにおける暴力、パワハラであろう。作者、語り手の暴力、権力からの解放というスローガンはもっともらしいが、なんのことはない、それは読者の暴力、権力の行使でしかないのではないか。文中から引用してきたり、また社会科学、歴史学、文化記号学などの諸科学をも手続きとして動員してくるのだから、たしかに客観性を担保しているように思える。したがって一応、表面的には、なんでも許されるような読み、すなわち読みのアナーキーを呈しているとは言えない形を取っている。しかし、それだけに悪質なのだ。語り手(の意志)を越えてあるだろうテクストの空白、すなわち語り手によって直接語られていない事柄、領域を読むには、何はともあれ、語り手が何を語ろうとしているのかの事柄、領域をはっきり見定めなければならない。そうでないと、語り手が言葉では直接語っていないが語りたかった事柄は何だったのか想像することが不可能なのだ。また、語り手さえも全く意識していない大切な事柄、領域がテクストの空白としてある場合もあろうが、その場合でも、それを根拠ある具体性として提出するためには、やはり、そもそも語り手は何を語ろうとしていたのかの事柄、領域をはっきり見定めなければならないのである。そうでないと、それが何であるのかというのはたとえ想像できたとしてもそれは根拠なき想像ということになり、これまで、批判してきた、こういいたいのでしょうと強要、強制したあの読者の暴力、権力の行使でしかないことになる。テクスト論者の読みはしばしばこのようなたぐいの読みになりがちである。あながちすべてが間違いというわけではない。しかし、たとえば、田山花袋の「生」の中に、「世紀の転換期における身体のカテゴリー化というドラマ」を読むのは自由だとしても、しかし、これでは、病み老いていく老婆に寄り添いつつ、しかし、家父長的な家制度の中で、それぞれ苦悩しつつ回収されていくそれぞれの〈生〉のありよう、その関係性がきれいに整理され、たとえば「銑之助」の抱えた問題性がどこかにあるのか見えにくい。これでは、その先の語ろうとして語られなかったものとは何だったのか全く見えてこない。いわばテクストで語られていることが、すべて外から説明されているだけではないかという印象をうけるのだ。少し酷な言い方になるが、かなり昔の俗流芸術反映論の悪質な復活、あの歴史や作家の私生活に物語を還元してしまうやり方の手のこんだ復活でしかないように私には思われるのだ。これとややことなるが、ポスト・コロニアリズムの立場からのテクスト分析も、やはりすべてを国民国家という〈大きな物語〉への解消・解体であってみれば、同じようなものだといってもよい。

            四、
 さて、何も紹介した論文がそうだというわけではなく、これはこれで見事な切り口をもった論文ではあるが、一般的には乱暴で軽薄なテクスト論あるいは、ポスト・コロニアリズム的な読みが多く、それへの反論として、私は、関係の豊かさ論を展開してきたのであった。闇雲に、作者や語り手の意志と離れたところで、知的な問題系を立てて、それをテクストに発見していく、あるいは何でもかんでも国家という〈大きな物語〉として断罪して、それでテクストを読んだと勘違いしている、いわゆる外在批評のやり方ではない読みの方法論として、私は関係の劇論、関係の豊かさ論を展開してきたのである。
 テクストは語り手による語りの領域によって構成されているわけだが、その語りはかならずある角度、視点から語りだされており、その語りのゆがみは当然あるだろうし、知らずに、あるいは意味づけさえもできずに、出来事、事件、風景、人物を語っていることは自明のことであろう。テクストは必然的に〈語り手を越えた領域〉が構成されているということである。すぐれたテクストは、この語り手の語る世界を越えて、〈豊かな〉な世界を作り出しているのであるが、では、それを誰がどう判定するのかという問題が必ず浮上してくる。ただ、ここで大切なのは、このテクストの〈豊かさ〉を判定するのは誰かということである。もちろん、読者である。読者が、語り手・主人公・その他の人物たちが何を語り、何を語らないか、あるいは何が見えて、何が見えていないかを批判的に検証することで、特権的な語り手の語り通りに世界を解釈することなく、また、同様に主人公が何を語り、何が見えないか、さらには主人公の周りの人々は何を語り何を語らないのか、どれだけ語り手や主人公のまなざしの内部でいきているのか、あるいはそうでもないのかなどを読み解きながら〈テクスト〉の中を批評的、創造的に読んでいくことが大切なのだということになる。読者は、こう〈テクスト〉の中を批評的、創造的に生きることで、語り手が自覚もしなかったいわゆる〈語り手をこえるもの〉の中身を読み取っていくことになる。優れたテクストであればあるほど、了解不能な空白の領域を抱え込んでおり、読みとは、その空白(行間)を読み解く行為であるというわけである。小説あるいは文学という〈テクスト〉は、了解不能のこの空白の領域(語られない領域)を構造的に抱え込んでおり、それは読者の参加を待って完成するというきわめて特殊で不完全な言語によって成立する構造物だということを確認してきたのであった。もちろん、こんなことは私の発見でも何でもなく極めて常識の領域のことであろう。ただ、しつこく述べてきたというのが一つの取り柄と言えるのかも知れない。
 それにしても、文学的価値を意識ではなく語り手、主人公あるいはテクストそのものによって作り出された〈関係性〉とその〈豊かさ〉に求めるといっても、それでは一体、関係の〈豊かさ〉とはそもそも何なのかとなると、これはなかなか難しい。ここで、私は、豊かな関係性を人との関係に特化して言っているわけではなく、世界(神・生・死・いのちなど)や自然(季節・風景・土地・生物など)との関係の中での〈豊かさ〉も含めて考えている。このことを前提として、では、その〈豊かさ〉とは、具体的にどのような内容を指しているのだろうか。
 明らかなことは、人間がお互い自由で平等な存在である関係、あるいは人間が他者や自然や世界を支配したり抑圧したりすることなく、共に助け合いながら生きる関係こそ、望ましい〈豊かな関係〉と言えよう。もちろん人を殺したり食べたりすることを悪として認めないというのもある意味人類共通の倫理規範であろう。言ってみれば、これらは時間や国家や民族を超えて 〈共有すべき〉価値観・倫理観である。世界の見え方は言語によってさまざまで単一の客観的世界などはないというのは事実だが、それは誰でもが容認し、共有できる価値観や倫理がないということではない。人間の実践的な社会的諸関係と切れた、あたかも形而上学的な地平に〈普遍的真理〉とか〈普遍的価値〉があるわけではないが、いわば人類の目標値として、人類の〈今・ここ〉の地上の世界から紡ぎ出し、構築すべきものとしてそれはあるということである。言語の差を超えて、自由と平等とか反支配、反差別の価値の共有のもと、それ自体を私たちの〈今・ここ〉の関係性の中から紡ぎ出し、構築していかなければならないということである。ただ、そうは言っても、もともと人間が他の人間や世界(神)、あるいは自然と取り結ぶ関係は、安直な価値の換算や交換などできないもので、〈豊かな関係性〉とは何かと言われればそう簡単に答えることはできない。たとえば、世界との関係における神との〈豊かな関係性〉とはどんなものをいうのであろうか。生あるいは死またはいのちとの関係における〈豊かさ〉とはどんなイメージを持つだろうか。同様に、自然との関係、季節・風景・土地・生物などとの〈豊かな関係性〉とはどういうものをさすのであろうか。ましてや友情とか愛とか誠実さとかいう場合、俺の愛は尊くて価値があり、おまえの愛は価値が低いと勝手に決めることなどできないだろう。何が価値あることで、何が〈豊かさ〉なのかなどはそう簡単に判断できないということである。そこで、大上段から、これが豊かで、あれは豊かでないと判定するのではなく、〈今・ここ〉のテクストの中の関係性の中から、〈豊かな関係性〉と思われるものを見つけ出し、議論し、確認し、共有し合う行為の中から、つまりこの地上から作り出していく作業こそが大切だということである。
 ところが、これまで、われわれは、関係の〈豊かさ〉というと、人間と人間との関係に限定しすぎてきたのではないか。われわれの関係の〈豊かさ〉とは、世界(神)、自然、人間との相互の諸関係一般をさしており、極端な例で言えば、人間と世界(神)と自然との三つどもえの関係もあるということである。しかし、関係と言えば、この人間と人間との閉鎖的な関係に限定され、しかも、関係の〈豊かさ〉とは何か?を問題にすることもなく、主人公の意識一般を問題にしてきたのであった。関係の内実さなど分析、検討されることは全くなかったのだ。そこでは主人公の意識の近代性、進歩性、主体性のみが問題にされてきたのである。いわゆる主人公中心の近代的自我論が読みの定理として幅をきかしてきたのである。
 あまり質の高い例ではないかもしれないが、主人公中心の近代的自我論あるいはその意識に注目して価値を判定する価値論からすると、芥川龍之介が高い評価をうけるのは当然だろう。「羅生門」では、下人が楼の下で飢え死にするか盗人になるかを懊悩しつつ、楼の中で、老婆の言葉と出会うことで、二者択一のジレンマから解放されるという人間のエゴのある断面を見事に切り取っていて、これまで高い評価を得てきた。しかし、表出された「意識の劇」ではなく、語り手の意識を超えた領域を「関係の劇」として果敢にその〈豊かさ〉を読み、評価するという〈関係の豊かさ〉論でいくと、まず、下人は老婆の何も見えず、ただ暴力、搾取を現出させているだけであり、他者とのいたわりとか助け合いという視点もなく、また、テクストそのものも下人と老婆の切り裂かれた闇を作り出しているだけで、そこに〈関係の豊かさ〉など全くみられず、高い評価など与えられないということになる。たしかに、下人のその後の行方は誰も知らないわけだから、そこに闇、罪、地獄に向かう下人を想像することができる。しかし、ただ、想像できるだけである。たしかに、闇を人間の原罪として捉え、「羅生門」を高く評価する読みもあるにはある。しかし、近代小説は、一般に、闇=原罪から神や仏を登場させ、そこから救い、献身の主人公の物語を紡ぎ出すか、それとも絶望のあまり死を選択するかという物語を作り出してきた。その限りで言えば、神への救済に向かうこともなく、ただただ、飢え死にするか盗人になるかという二者択一の道しか許されない下人の生の状況は、神なきモダンを抱え込んでいる新しさがあろう。しかし、下人をそう語る語り手の向こうに見えるのは、まさに、飢え死にもせず、また盗人になることもなく、仏像や仏具を薪の料として売っていきている人々の状況である。この人々の主体的な自己責任、判断を伴う倫理の世界とどうつながっていくかということこそ、下人の課題であったはずである。ところが、この下人が選択したのは、乱世の庶民の倫理を罪のいいわけとして捉え、あざ笑うようにそれを借用して一人盗人として生き抜くことであった。語り手も作者もこういう下人の行動にいささか軽薄な面を見ていたにしても、ただそれだけで、結局は、人々との乱世の倫理の共有という地平へと向かうことはなかった。せいぜい京都に強盗を働きにいきつつある事態の進行を、行方不明にしただけであった。語り手の向こうに見える庶民の〈仕方が無くする悪は許される〉という主体的な自己責任、判断を伴う倫理、そこには乱世を生き延びる庶民の生きる人権の主張(生の叫び)があるのだが、結果として下人はその庶民の主体的な自己責任、判断を伴う倫理も人権性も暴力的に封じ込め、深い倫理の闇へとテクストは向かうのだ。下人と老婆の位置関係は一度も横になることも反転することもなく、そこに新しい関係性が開かれる可能性はなかった。下人が、老婆の言葉(人の話)を自分の都合・文脈で聞き取る習慣から早合点することなく、どうして見え透いた嘘を俺に語るのだと問えば、老婆は嘘を語るほかない生活の惨めさ・過酷さを語りはじめ、そこに、この二人の新しい関係性が開かれたはずである。
 しかし、こんな、おぞましさで終わるテクストは「羅生門」だけではない。芥川の「鼻」を例にして考えてみよう。
 「鼻」の主人公禅智内供は、「傍観者の利己主義」というものに出会うことによって、自分の異常な鼻に劣等感を抱き、何とかしてそこから抜けだすという物語として読まれてきた。主人公は、一種、滑稽とも思えるほど己の鼻に過剰な自意識をもっているのだが、小説では、その主人公がその苦しい自意識の世界から解放されてるということになる。しかし、ここでは、本当に主人公の苦悩から解放されるドラマが重要なのであろうか。考えてみれば他者の視線にもうこれ以上翻弄されないという一見健康な生き方も、少し深いところで考えてみると、それは他者の無視ということになり、一種の唯我独尊になりうるのである。「鼻」は、そういう唯我独尊の世界を描いたテクストということにもなりかねない。他者はいつも「傍観者の利己主義」者によって満たされているわけでもないからである。そういう人もたまにはいるかもしれないが、ともかく全部ではないだろう。こういうわけで「鼻」は一見、人間の歪んだ一面を見事に捉えたテクストのように思われがちであり、事実そういうふうにも理解されてきたのだが、そもそもそういうテクストではなく、それどころか、そこには身体障害に悩む人を一種の滑稽として笑い飛ばす非情な感性が表出されていたのであり、それこそまず問題にされるべきであったのだ。芥川には、弱い、劣悪な立場にいる人々を愚弄するところがあり、それが最大の問題でもある。要するに感性的に言えば、芥川には、現在のいわゆる勝ち組の心裡があふれているのであり、そこが最大の問題なのだ。たしかに、禅智内供は自己の身体コンプレックスから解放され、はじめて幸せな気分を味わっている。しかし、その幸福感は、他者はみんな「傍観者の利己主義」者だという恐ろしい偏見によって生み出されているのであり、とても鼻を意気揚々と風になびかせる禅智内供の心は内面化された身体差別からどこまで解放されているのか心許ないかぎりなのだ。主人公あるいはテキスト総体が最終的に世界(神)、自然、人間との〈今、ここ〉の関係性においてどういうものを実現しているかというその構築された〈関係性の豊かさ〉で判定するとすれば、「鼻」は禅智内供のただの内面のドラマを描いたテクストでしかなかった。禅智内供の苦悩がいわば浅いのだ。「鼻」はそういう軽薄な人間を描いたのだと言われればそれまでだが、それでは「鼻」は底の浅い人間性をかいま見せただけのただの〈近代的〉なテクストということになろう。
 「藪の中」でもそうである。誰が犯人で、真相はどうかなど、闇に覆われ、虚無の極北といえなくもない。妻と旦那と盗賊の三者三様のいいぶんは、事件の殺人現場の目撃者の証言内容と矛盾するものではなく、したがって誰が真実をいっているのか判定不能なのだ。真実はあるだろうという前提を完璧に壊し、真実などないという虚無の底を見せつけている点ですばらしいテクストである。しかし、三者三様のいいぶんの向こうに見えてくるのは事実と認識の一致の不可能性であり、相対主義の虚無の世界を描いたという点では特筆できても、さて、その虚無の底を突破する方向性はどうなるのかと言えば、「羅生門」と同じで、〈闇〉なのだ。問題は、そこを出発点として、人と人、あるいは世界(神)、自然と〈今、ここ〉の関係性の中でどのような糸口を見つけて生きていくかということではないか。テクストがその糸口、ヒントさえもあたえないのでは、とても〈ポスト〉近代小説とはいえないのではないか。暗黒や闇や絶望の底を見せつけるテクストが最高というのは、その人の文学観が最終的には、神による救済か死かといった二者択一の選択しか示せないということを白状しているだけである。もちろん、救いや死がだめだといっているわけではない。しかし、みんながみんなそういう二者択一の選択しかないということになれば、それはあまりにも平板で無内容な、貧しい世界だということになろう。それこそ、神なき後の近代の世界だときめつけることもできようが、そんなことを語るのが近代の小説というテクストだということになると寂しい限りである。近代小説の可能性とは、神亡き後の、救いと死の二者択一の選択しかない許されない生の状況を、人と人、あるいは世界(神)、自然と〈今、ここ〉の関係性の中でどう切り開いていくのかを提示するところ、即ち〈ポスト〉近代小説性を指し示すところにこそあるのではないか。また、仮に、神による救済か死かといった二者択一の世界であったとしても、そこにはまた、さまざまな深い無数のバリエーションがありそうである。この神による救済と死の深い無数のバリエーションを指し示すだけであっても、〈近代的〉な近代小説は無限の〈ポスト〉近代の世界を指し示すことが可能だと思う。要するに、芥川の「藪の中」は近代小説の極北ではなく、ほんの入り口の小説だということである。実際、女が男を殺してくださいというその生の苦悩の深さ、あるいは逆に男の裏切った女へののろいや絶望の深さなど、物語はこれからおもしろくなるのではないかということになろう。「藪の中」は、真実は〈闇〉ですということを指し示すだけの〈認識〉をめぐるただの厚みも深みもないドラマとして語られているだけなのだ。もちろん、認識をめぐるドラマがどうでもいいというわけでもないが、男と女が殺人の真実よりも、ごまかしてでも自己のアイデンティティを保ちたいという地獄のような〈生〉の状況の方がずっとおぞましい世界であるように私には思われるのだ。しかし、「藪の中」のテクストはそういうところへと間違っても向かわないのである。そういう男と女のどろどろの〈生〉の世界、ドラマの方が、真実は〈闇〉です、はい終わりという〈認識〉をめぐるゲームよりもよほどましな〈豊かさ〉を持ったテクストだと私には思える。どうして「藪の中」止まりのテキストが近代小説の極北であることがあろうか。

        五 
 さて、ここまでくれば、私のいいたいことは明らかであろう。〈豊かな〉関係性、あるいは、関係の〈豊かさ〉とは、人間の意識の暗黒性、罪性、虚無性を暴き立てることではなく、そんなことはいわば当然のことと認識し、そこから人間が抜け出し、どう世界(神)と自然とさらには人間との〈今、ここ〉の関係性を豊かに取り結んでいくかというその具体相を指し示すこと、あるいはその困難性を暗示してみせることなのだということである。そうでなければ、人間の意識の暗黒性、罪性、虚無性といったものの個別性、多様性さえ見えないのである。そういう訳で、近代小説は、もはやかつてのような「意識の劇」ではなく、その奥にある「関係の劇」さらにはその奥へと転じなければならないし、評価もまたそれにふさわしい評価の価値基準をもたなければならないということである。
 たとえば、漱石の『こころ』では、「私」とKとお嬢さんをめぐる恋いの三角関係の中に、人間のエゴイズムの罪深さが読み取れるだろう。しかし、このテクストは、お嬢さんに自分の犯した罪の重さを背負わせたくないと優しい心遣いをする「私」を語りつつ、一方で、お嬢さんがそのことで悩み、愛されていないと思いこんでいる姿をまた語るのである。そして、さらに、学生の「私」は、そこに「私」=先生の虚偽を見つけ、もはやこの大先生の物語を語ることを断念するのであり、さらに作者は、そうすることで、新しい大正の時代に生きる若い「学生」に普通の人間の尊さと自分の向こう側にいる他者の問題とを重要な生きる課題として提供しているのであった。まことに、こうなるとそれが偶然かどうかの評価は分かれるが、構造の持つ空白によってテクストは、一層から二層へ、二層からさらに三層そしてさらにその奥へと光を当て続けているのである。同じ事は、またまた具体的な小説をだして恐縮だが、島崎藤村の「破戒」では、告白小説か社会小説かといったことが真面目に議論された時期があった。それは、言うまでもなく、小説を「意識の劇」のレベル、すなわち主人公中心主義のレベルで読んできたからである。われわれは、そういう意識の劇を読む時代から、「関係の劇」を読む方へ大きく転換しなければならない。そして、そうなれば、「破戒」は、告白小説か社会小説かといったことが問題の中心ではなく、ましてや土下座やテキサス行きが問題ではなく、丑松が、誰にも自分の出自を告白しないで飯山から去ることもあり得たのに、そうしないで、生徒の前で告白したことの意味の重大さこそよみとらなければならないのである。この〈告白〉という行為によって友人、同僚、生徒、恋人との間にどのような関係性が生まれたのかが問われる必要がある。告白しなければ、「部落」差別の問題は表面化・問題化することもなく、飯山の古刹にはいかなる変化も起こらなかったのだ。丑松の告白によって生じた〈今、ここ〉の共同体における人間関係の激震、その軋みこそ読み取らなければならなかったのである。ところが、「意識の劇」、主人公の意識にばかり重点を置いたこれまでの読みではそういうことにはならなかったのである。読むとはくどく述べてきたように語り手が直接語ってはいないこの部分を読まなければならないわけであるが、それには普段から「意識の劇」ではなく、ドラマを「関係の劇」すなわち語り手の語りによって引き起こされる登場人物あるいはそれを取り巻く状況がどう変化・変動しているかに想像力を働かす読みの手法、慣習が準備されていなければならないだろう。そうでないと、告白によって生じた飯山の古刹の激震は想像だにできないのである。また、同じことは、告白からテキサスへ向かう丑松の姿を「意識の劇」に重点を置いて読めば、逃亡という表層の読みとなるのは必定であろう。この場面を「関係の劇」で読み取るとすれば、丑松にテキサス行きの選択肢しか与えなかった明治国家の抑圧の構造が見えてくるのである。丑松の反差別の人間的な叫びを抑圧と排除によってしか解決できない天皇制国家の構造をみごとに照らし出していたのである。もちろん、主人公や語り手あるいは作者の意識、意図、思惑を超えてテクストがそういう世界を語っていたのであるが、その読みができるのも、「関係の劇」とその〈豊かさ〉を読むという作法があるからである。一層あるいは表層ではみえないその奥の二層、さらには三層という具合にテクストが指し示す世界へとはいっていく「関係の劇」を読む読みこそが、新しい読みの方法ということになろう。
 一般的に、語り手の〈語り〉は、ある視点から自分の見える、知っている世界を語りながら、自分でも意識しない出来事、風景、意味を書き込んでいく。ある時には、それは夢であったり、幻想であったり、天国や地獄の図としてしか語れないものであるかもしれない。読者は、そういう語り手の語る言葉にもならない世界をも含めて、テクストを読み込んでいくことで、語り手の語りを越えた領域あるいは語り手の無意識に隠した、ゆがめた領域をも自覚的あるいは批判的に眺めることで、語り手の語る世界から自由になることができる。いわゆる書かれていない行間、空間を読んでいくということである。今までの読者も、無意識には、語り手を越えた領域をも読んできたのであるが、しかし、圧倒的には、語り手の語る世界が真実の世界であり、その表の「意識の劇」を読むことがテクストを読むこと、正解に近づくことなんだという読みの慣習の中で、そういう受動的な読書を強いられてきたのであった。しかし、これからの読者は、むしろそういう受け身的な読者ではなく、語り手の語る表の世界だけでなく、語り手も自覚しない無意識の流域をも積極的に読むようになる。すなわち、これまで述べてきた語り手の語りを越えた無意識の領域あるいは語り手の無意識に隠した、ゆがめた領域をも自覚的あるいは批判的に眺めながらテクストを読むことで、「意識の劇」を相対化し、また、その際、関係の〈豊かさ〉とは何かという問題意識のもとに読むことで、テクストの深さ、新鮮さに美的感動を覚え、奮い立つことになるだろう。読者が、〈関係の豊かさ〉とは何かという視点からテクストにかかわることによってテクストそのものを〈豊かなテクスト〉へと作り替えていくのである。漱石の「こころ」のあの一層、二層、三層のさらに奥にある世界の深さ、〈豊かさ〉にふれるのは、実際、読者が「こころ」というテクストを〈豊かなテクスト〉へと再造していくということなのだ。

            六、
 文学教育は、〈読み〉の真偽をめぐるバトルではなく、どのような位置、角度、視点からテクストを眺めた時、どう見えるか、見透せるかということを多くの他の読者が生きている〈今・ここ〉の場所・地平において公開することである。そうすることで、相互の差異を認め合い、そこからまずお互いを尊敬しあういわば自立した〈個〉と〈個〉の関係が作り出されることになる。〈自〉と〈他〉が分離・独立し、主体的な個人が生まれる場所こそ文学教育の場ということになろう。そこに文学教育の最大の意味がある。もちろん、それだけでなく、その〈読み〉の公開を通して、一人では見えなかった、見透せなかったテクストの〈空白〉すなわち語られていない部分の読みをふくらませることができるのである。実際、この作業こそ、〈テクストそのもの〉を豊かにしていく道なのではないだろうか。そういう意味で、テクストの〈豊かさ〉は無前提にはじめからそこにあるのではなく、読者が関わることで、その〈豊かさ〉の相貌を見せ始めるのである。テクストにおける〈豊かな関係性〉は、テクストの〈外部〉にあるのではなく、〈内部〉に、《語られていない》空白として無限に広がっているのである。私たちは、このテクストの〈内部〉にある《語られていない》空白を求めて〈読み〉の永遠の旅を続けるほかないのである。
   一般に、テクストは、〈今・ここ〉の存在論的関係性を通して二様の関係のドラマを作り出していく。〈おぞましさ〉と〈豊かさ〉のドラマである。関係の〈おぞましさ〉の最大のものが、人間による人間の支配と差別である。平等に扱われたいというのが人間の根源的な願いであろうが、神の庇護から投げ出された近代の人間は、しばしば神による救いか死によってその解決を図ろうとする。通常、これがこれまで述べてきた「意識の劇」の行き着く果てである。しかし、人間はその魂の装置にもう一つのドラマ、すなわち関係の〈豊かさ〉、神ではなく、多くは人とつながることによる〈豊かさ〉のドラマを用意してきた。もちろん、この二つのドラマは程度の差はあるが、ともにテクストの中に、いわば、〈表〉と〈裏〉、〈見える〉と〈見えない〉、〈語られた〉と〈語られていない〉世界としてそれぞれ読者の前に姿を現してくる。ただ、これまで長く、テクストは、作家の内面の自己表出、自己表現として信じられてきたため、人間の魂の救済あるいは死の世界のドラマはその親近性故に、この〈表〉の「意識の劇」こそ真実の世界だと錯覚し、いわゆる〈見える〉〈語られた〉「意識の劇」へと傾倒してきたのであった。しかし、これまで、触れてきたように、テクストは、〈表〉の「意識の劇」=表層の劇だけでなく、そこに、世界・自然・人間の文脈・関係に縛られ、もがき、しかしそれらとつながることによる〈豊かさ〉の姿を見せることで、読者に、世界・自然・人間との〈豊かな関係性〉へのヒントを指し示してきたのであった。実際、人間の内面、自己さえも事後的、社会的に生成されてくるものだということがわかり始めるにつれて、表層の「意識の劇」への信仰は薄れ、逆にテクストは、内面や自己の語り得ぬ領域をも含めて、すなわち本質的には、この世界あるいは自然・人間の〈豊かさ〉〈複雑さ〉を想像力を働かせることで産出してきたのではないかと考えられるようになってきた。人間は想像力を媒介することによって、〈私〉とか〈自己〉といった狭さを超えて、世界、自然、人間の〈豊かさ〉や〈複雑さ〉の世界を紡ぎ、そうすることで、言葉によって構築された〈もう一つの現実〉=虚構空間、テクスト空間が作り出されてきたのであるという考えにたどり着いたというわけであり、その結果、読者は、小説における表層の「意識の劇」=〈救いの劇〉に埋没することなく、この想像力によって紡ぎ出された世界、自然、人間の〈豊かさ〉〈複雑さ〉をテクストの中から読み取る行為こそ読者に与えられた最後の特権であり、それはまた読むことの楽しさそのものなのではないかと思い始めたのである。これが、これまで述べてきた《語られていない》空白を読む行為の内実である。
 それにしても、このテクストの内部に入り、〈関係の豊かさ〉にふれることで、テクストの価値を見いだしていくという新しい〈読み〉の道は、これまでのテクスト評価を一変させ、新しい文学史への構築につながらざるを得ず、それは営業妨害という面からも激しい非難にさらされざるをえないであろう。しかし、テクストの中に、〈関係の豊かさ〉とは何かを問い続けることは、この地上での私たちの〈豊かさ〉、特に原発事故以来、問われている近代の〈豊かさ〉〈幸せ〉とは何なのかの問いかけが避けられなくなっている状況を見れば、一層、切実な行為というほかないであろう。そして、飛躍した言い方になるが、こうした地道な問いかけを通して、地上での〈自〉〈他〉の差異の容認から異質な他者との共存ーー民族、国家、階級、性別を超えた相互補助を原則とした人間としての共存、すなわち、普遍、絶対、中心、唯一、権力なる〈世界と観念〉の復活を願う亡霊との対峙を通して異質性、差異性が容認され輝く世界、その人間の〈豊かさ〉の世界への具体的な道筋もまた見えてくるのではないかとも思うのである。
                                                                               2013/06/01 筆  修正アップロード 2016/05/13     福州にて
  注1
・「自我の複数性と近代文学史の転換」(『試想』創刊号 平13・10 「試想」の会)
・「意識の劇から関係の劇へ」(『社会文学』第18号 平15・1 日本社会文学会)
・「関係の劇を読むとはどういうことか」(『試想』第2号 平15・2 「試想」の会)
・「ファシズムと文学ーー〈いま・ここ〉の豊かな関係性の構築をめざして」(『試想』第3号 平16・8 「試想」の会)
・「新しい読みの技法ーー二項対立的思考から多項選択的思考へ」(『試想』第4号 平17・11 「試想」の会)
・「漱石・鴎外そして文学研究ーーポストモダンへの道」(『試想』第5号 平19・3 「試想」の会)
・「文学的価値=〈関係の豊かさ〉」論覚書ーー読みをめぐる原則的問いかけーー」 (『試想』第7号 平21・7「試想」の会)


 

  魯迅『故郷』論覚書
    ーー「手製の偶像」を超えて新しいステージへ向かう「わたし」ーー                                                                                                                                          前田  角藏
 『故郷』は魯迅の代表作ともいえる短編小説である。1921年5月『新青年』に発表された。魯迅は1919年12月に故郷の紹興に帰省しているから、この小説は一種の魯迅の手記小説というイメージが強く、主人公「わたし」=語り手〈わたし〉==魯迅という図式で読まれてきたといえよう。
 あらすじは大体こんな風である。主人公「わたし」は、二十年ぶりに故郷に帰ってくる。かつて大地主であったが今は没落していて、その生家の家財を引き払うための帰郷であった。故郷は寂寥としていて、想い出の中の美しかった故郷はすっかり色あせていた。そんなものさびしい故郷であっても、「わたし」は少年時代に仲良く遊んでいた小作人の息子閏土(ルントウ)との再会を楽しみにしていた。しかし、再会した閏土の口から出た言葉は、「だんな様」という言葉だった。その言葉は、地主階級と小作人という悲しい身分の壁を否応無く突きつけるものであった。「わたし」の帰郷は、二週間ほどのものであったが、「厚い壁」にはばまれ、いわば一種の失語状態に陥っていく。そして帰りの船の中でいよいよ自分だけが「高い壁」に取り巻かれて人々から「取り残された」ような「隔絶」感を強め、孤絶した「自分の道」しかないのだという絶望的な気持ちになる。あったと思っていた「故郷」のイメージ・記憶の中の閏土の姿もいつの間にか薄れていく。ただ、それでも、「わたし」は、祈りに近い形で次世代に期待することで世界とのつながりを希望するのであった。こうして、魯迅の『故郷』は、どんなにつらくとも諦めない、きっと道は必ず開けるという「〈希望〉の物語」(丹藤博文論文「地上の道のようなものーー中学生の読みから『故郷』(魯迅)を考えるーー」『国語国文学報』2010 愛知教育大学国語国文研究室)として読まれてきたのであった。たしかに、丹藤氏が指摘するように日本でも中国でも『故郷』は若者(中学生)を励ます歌として機能してきたのであろうし、そのことに間違いがあるわけではない。ただ、『故郷』は〈希望の歌〉などという一般的な物語に回収されていくような読みでよいのかどうか、丹藤論文をふまえつつ考えてみたい。
 登場人物は、主人公の「わたし」(「迅」 四十歳位)で物語の語り手でもある。「わたし」の少年時代の友達の閏土(四十二歳位)で、かつて「わたし」の家の臨時日雇い農民の子供であった。後は、「わたし」の母と、隣の五十歳位 の楊おばさん。それに、子供の宏児(ホンル 八歳 )で、「わたし」の甥である。宏児は、閏土の五男である水生(シュイシュン 十歳)と友達になり、昔の「わたし」と閏土との関係を彷彿させる。登場人物はこんなものである。
 私は中国の福州大学で今年も客員教授として中国の学生に日本の近代文学を教えている。今度、日本に帰ったとき、「故郷」についてのすばらしい丹藤論文に出会ったので、中国の学生や先生に紹介しようと思ってコピーした。ところが、東京を離陸する寸前に田中実氏の『故郷』論(「奇跡の名作、魯迅『故郷』の力ーー大森哲学との出会い、多層的意識構造のなかの〈語り手〉ーー」『日本文学』2013・2)に出会った。氏については一時、共同研究をして語り手論、他者論を詰めた仲なのでよく知っており、さっと読み、相変わらず難解だなという印象と、丹藤論文を深めたいい論文だなと思った。しかし、それ以上あまり深く考えることもなく、荷物になるので掲載誌ももってこなかった。「試想」同人の仲間の高口氏からのメールによると、先生の発想とよくにていますが、全然反対ですよということで、どこがどう反対なのかよくわからないまま中国にきてしまったようだ。この点については、私たちのやっている研究同人『試想』あたりでゆっくり全面的な批判なりを高口氏にしてもらいたいと思っているが、つい最近、メールで田中論文を送ってくれたので、少し、この論文も交えて、考えてみようと思う。
 丹藤氏の論をまず紹介しておこう。
 これまで、『故郷』は、「〈希望〉の物語」として読まれてきた。生徒の関心は閏土に向けられている。自分を閏土の立場(負け組)に置き、自分だったらあんなに卑屈でいたくない、そのためにもシュンのように前向きに生き、今、高校に入学するという「希望」をもって頑張りたいというわけである。こういう読み方に対して、氏は、「わたし」の「自分の道」とは何か、また水生は「新しい生活」を持たなければならないというが、それはどのような「生活」なのか、などが具体的に読まなければならないのではないかと指摘する。氏によれば、楊おばさんの登場の意味は、「纏足」という中国固有の「古い因習」を刻印しているし、閏土も「中国古来の世界観もしくは風習を体現した人物」として登場させられているということである。氏によれば、「「楊おばさん」にしろ「閏土」にしろ、〈モダン〉以前の中国古来の世界観なり因習的な風習なりを体現した〈前近代〉(プレモダン)に生きる人物として表象されて」いて、「わたし」の「自分の道」とは「楊おばさん」や「閏土」とはちがう正反対の〈モダン〉に生きているという自覚にもとづくもので、「楊おばさん」や「閏土」は「心が麻痺する生活」から脱出することはできないとし、「わたし」は、宏児や水生に「自分と同じ〈モダン〉による生活」を望んでいるという。
 しかし、氏の真骨頂はここからである。この『故郷』は、「たんなる〈プレモダン〉批判なのではない」というところにある。

  「希望という考えが浮かんだので、わたしはどきっとした。たしか閏土が香炉と燭台  を所望した時、わたしはあい変わらずの偶像崇拝だな、いつになったら忘れるつもり  かと、心ひそかに彼のことを笑ったものだが、今わたしのいう希望も、やはり手製の  偶像にすぎぬのではないか。ただ彼の望むものはすぐ手に入り、わたしの望むものは  手に入りにくいだけだ。」

 氏は、この一文の意味についてこう指摘する。「わたし」は、「自分の信じていた〈モダン〉も実は「偶像崇拝つまり虚妄なのではないかという考えに至っている」のだと。氏は「ここで起こっている出来事は、〈プレモダン〉では救われないけれど、〈モダン〉もまた福音とはならないのではないかという秀徹した思考なのである」というのである。そして、さらに、「ここで、問題とされているのは、「希望」がある・ないといった実在論(〈モダン〉)ではなく、世界は言語的に構造化されているという〈ポスト・モダン〉の地平である」とし、「『故郷』は〈絶望〉の深さにおいて読まなければならない」と提案する。まさに、「絶対主義も相対主義も斥けて、〈実体〉と〈非実体〉、〈希望〉と〈虚無〉のあいだに身を置き、そこから立ち上がる第三の審級を希求する。そこに、「ない」ものとしての「希望」は、人々の力によって「ある」ものとされる可能性が拓かれるのではないだろうか」とまとめている。
 さて、この読みに対して、田中氏は、前出論文において、『故郷』の〈語り手〉である
〈私〉の「多層的意識構造」に着目し、その解体過程を祖述しつつ、最終的に次のような結論に到っている。

  「『故郷』の驚異は一人称のこの〈語り手〉の語り得ぬ領域を〈語り手を超えるもの〉  が語るところにあります。デクノボーがいかなる生身の溢れる思いの深さを持ってい  たか、纏足の足美女の楊おばさんが何故執拗に「私」を痛めつけているのか、それぞ  れの人物の生きた歴史的な重さが現れてきます。それは返す刀で、〈語り手〉自身を  相対化し、その人物像を浮かび上がらせていきます。〈語り手〉の自覚し得ない自己  像を〈語り手を超えるもの〉が語っていたのです」

 ここでいう〈語り手を超えるもの〉とは、テクストの中で例えば〈語り手〉の別のものとして想定しているのかどうか不明であるが、私流に言えば、〈語り手〉が語ることで〈語り手〉にも見えなかった流域(構造)がテクストの中に表出したのだ、つまり了解不能の他者の表出ということであろうか。(注1) しかし、たとえ『故郷』は、「〈語り手〉の語り得ぬ領域を〈語り手を超えるもの〉が語」ったテクストであったとしても、最終的に、「この世では全ての「希望」という「希望」、観念という観念、その底を一切合財浚い、棄てる、〈語るべき〉観念の最後の一片まで排棄した〈語り手〉が未熟な人間のまま、「語ることの虚偽」を超えて語ります。その時、世界の〈向こう〉から「希望」への「道」が現れてくるのです」とか「地上の一切の観念の残滓を全て葬り去る〈語り手〉はこの世の「悲しむべき厚い壁」を末尾、風のように超えます。閏土が消えて「希望」が現れるのです」と言われても、正直、何を言っているのかよくわからないのである。そもそも、最後のフレーズ「思うに希望とは、もともとあるものとも言えぬし、ないものとも言えない。それは地上の道のようなものである。もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」を素朴に読めば、「希望」とは、氏のいうように「世界の〈向こう〉から「希望」への「道」が現れてくる」とか「語り手〉はこの世の「悲しむべき厚い壁」を末尾、風のように超えます」とかさらには「閏土が消えて「希望」が現れるのです」とかいった何か呪文的で意味不明なものではなく、むしろその逆で、「希望」はテクストの外部すなわち地上から、「人」によって「道」のように下からつくりだされるのだという諦念が示されているのではないか。そもそも、『故郷』の読みの醍醐味とは、世界との〈つながり〉を喪失した「わたし」が次世代に「希望」を託したその瞬間におきた「わたし」の精神、思考の奇跡的なコペルニクス的転回のドラマをどう捉えるかにかかっていると考えている。閏土の「香炉と燭台」への偶像崇拝的な期待はもちろんだが、「わたし」の「希望」というものへの過度な期待も、どういう事情であれ、それを絶対化している点で差異はなく、精神、思考の堕落があり、弱さがあった。「わたし」は、このある物、出来事、観念を偶像、絶対化する精神、思考を堕落とし、またそれこそ中国民族、中国の農民あるいは人民の悲しい弱さなのだと認識し、そこから自立すること、立ち上がることこそ何よりも大切なのだと自覚したのであり、この時、一度失ったかに見える閏土との地上の〈つながり〉が再びオンラインでつながったのだと考えている。消えたはずのあの光景、「海辺の広い緑の砂地が浮か」び、「その上の紺碧の空には、金色の丸い月がかかっている」光景が現れてくるのはそのためである。『故郷』を読むとは、丹藤氏の指摘するように、この終末部をどう読むかにかかっているのであり、そこに読み手の思想性の全重量がかけられているのだと考えている。
 これから、屋上屋を重ねる論になるこわさを自覚しながらも、乗った船なので、このまま私なりの『故郷』論を覚え書き風に書き留めておこう。細かなところはまた日本に帰って詰めるつもりである。
 魯迅といえば、「革命」と結びつけて語ろうとする、そういう私小説的な読みをまず卒業する必要がある。主人公の「わたし」は『故郷』の中で「楊おばさん」から「迅ちゃん」と呼ばれているから、一応、この「わたし」は魯迅そのひとではないにしても近いと考えていいのだろう。ただ、この作者魯迅は、『故郷』を通して実際にあった自分(「わたし」)の帰省の再現を目指しているわけではなく、語り手〈わたし〉がある戦略性を持って「わたし」の帰省を語っているのは明らかであろう。
 語り手の〈わたし〉は、「厳しい寒さの中を、二千里の果てから、別れて二十年にもなる故郷へ、わたしは帰った」と述べ、この帰省が二十年ぶりであること、しかし、村の風景を見るにつけ、「寂寥の感が胸にこみあげ」てくる。主人公の「わたし」は、「これが二十年来、片時も忘れることのなかった故郷」かと問い、財産整理で「故郷に別れを告げに来た」のだから、「今度の帰郷は決して楽しいものではない」はずだと説明する。しかし、そういいながら、語り手は、母の「閏土ね。あれが、いつも家へ来るたびに、おまえのうわさをしては、しきりに会いたがっていましたよ。おまえが着くおよその日取りは知らせておいたから、いまに来るかもしれない」という言葉を取り上げ、「わたし」がこの楽しくもない帰省で唯一楽しみにしていた閏土との再会へとつなげていくのである。

  「この時突然、わたしの脳裏に不思議な画面が繰り広げられた──紺碧の空に金色の  丸い月がかかっている。その下は海辺の砂地で、見渡す限り緑の西瓜が植わっている。  そのまん中に十一、二歳の少年が、銀の首輪をつるし、鉄の刺叉を手にして立っている。そして一匹の「チャー」を目がけて、ヤッとばかり突く。すると「チャー」は、ひらりと身をかわして、彼のまたをくぐって逃げてしまう。
  この少年が閏土である。彼と知り合った時、わたしもまだ十歳そこそこだった。も  う三十年近い昔のことである。」

 語り手は、「三十年近い昔」の楽しかった閏土と過ごした日々の記憶を語ることで、「わたし」にとって「二十年来、片時も忘れることのなかった故郷」とは、閏土と一体化した日々であったこと、また「わたし」にとって「三十年近い昔」の時間はそのまま〈今〉と接続していることを語る。そして、こう語る『故郷』の語り手は、その心待ちにしていた閏土との再会によって、友達閏土と過ごした三十年前の神秘的で幻想的な日々の記憶が、三十年後の再会の中でもろくも崩れ去っていく様子を語り出していく。
 いろいろな人と「わたし」は、会っているはずなのに、ここでは、楊おばさんと閏土が特化されている。語り手の〈わたし〉は、楊おばさんを「纏足」という古い習慣に縛られながらきれいに「白粉」を塗り、「豆腐屋小町」ともてはやされたお嬢さんだったが、「わたし」の前に現れた女は、「まるで製図用の脚の細いコンパス」を思わせる「ほお骨の出た、唇の薄い、五十がらみの女」であり、「わたし」は「見忘れてしまった」のだと述べるとともに、「忘れた」ことに腹に据えかね、楊おばさんは「わたし」が「知事」になり「お妾が三人もいて」「お出ましは八人かきのかご」などとののし、「わたし」がそれに弁解する言葉もなく、一種の失語状態に陥っていく様子を語る。ただ、語り手は、「わたし」にさんざん悪態をついたこの楊おばさんが、悪態ついでに「母の手袋をズボンの下へねじ込こんで」「ゆっくりした足どりで出てい」く様子を何気なく書き留め、この女が盗む女であることをはっきり語っている。しかし、なぜそういう女になったかの三十年間は語らない。せいぜいこうだろうと暗示させるだけである。
 閏土は、どう語られているのか。
 「わたし」は、四、五日してから閏土と再会する。「わたし」は「思わずアッと声が出かかった」。あの輝いていた「小英雄」の少年閏土は見る影もないほどに生気をなくし落ちぶれていたからである。

   「来た客は閏土である。ひと目で閏土とわかったものの、その閏土は、わたしの記憶にある閏土とは似もつかなかった。背丈は倍ほどになり、昔のつやのいい丸顔は、今では黄ばんだ色に変わり、しかも深いしわがたたまれていた。目も、彼の父親が そうであったように、周りが赤くはれている。わたしは知っている。海辺で耕作する者は、一日じゅう潮風に吹かれるせいで、よくこうなる。頭には古ぼけた毛織りの帽子、身には薄手の綿入れ一枚、全身ぶるぶる震えている。紙包みと長いきせるを手に提げている。その手も、わたしの記憶にある血色のいい、まるまるした手ではなく、太い、節くれだった、しかもひび割れた、松の幹のような手である。」

 変わり果てた閏土を見て、言葉をなくした「わたし」は、「ああ、閏ちゃん──よく来たね……。」といったのが精一杯であった。「わたし」はどうコメントしていいか言葉が見つからなかったのである。この「わたし」の狼狽した様子を閏土もまた見えたはずで、彼は彼なりにどう反応していいか迷ったのであり、語り手は閏土の様子を「彼は突っ立ったままだった。喜びと寂しさの色が顔に現れた。唇が動いたが、声にはならなかった」と述べ、「だんな様」との言葉を書き留めている。しかし、この閏土の言葉で、「わたし」は「身震いし」、「悲しむべき厚い壁が、二人の間を隔ててしまった」ことをはじめて自覚したのであった。「わたし」が閏土の言葉で、目が覚めたように地主階級と小作人という悲しい身分の壁を知ったというのはうかつであるが、そういううかつな「わたし」を語り手が語っている点を注意しておきたい。
 この「隔絶」された空白の三十年間の前で、『故郷』の主人公「わたし」は、一種の失語状態に陥っていく。楊おばさんは「豆腐屋小町」といわれた娘が欲張りで嘘つきで平気で人のものを盗む癖があり、楽しみにしていた閏土は、寒々とした貧しさが全面に表れた男として「わたし」の前に現れ、その変貌した姿を「わたし」は〈言葉化〉出来なくなっていく。語り手はその様子を以後、語っていくのである。
 二人は村の〈いま〉を象徴していた。かつて村はスイカなどの盗みに対しておおらかであり、古い習慣の中で封建的な秩序がゆるやかに回っていたようだ。それが、こうぎすぎすとなり、荒れているのはどうしてなのか。その原因、背景について、語り手〈わたし〉は閏土にこう語らせている。

  「とてもとても。今では六番めの子も役に立ちますが、それでも追っつけません……  世間は物騒だし……どっちを向いても金は取られほうだい、きまりもなにも……作柄  もよくございません。作った物を売りに行けば、何度も税金を取られて、元は切れる  し、そうかといって売らなければ、腐らせるばかりで……。」

 この閏土の言葉に対して、「わたし」は、こう思う。

  「彼が出ていったあと、母とわたしとは彼の境遇を思ってため息をついた。子だくさ  ん、凶作、重い税金、兵隊、匪賊、役人、地主、みんな寄ってたかって彼をいじめて、  デクノボーみたいな人間にしてしまったのだ」

 「わたし」と母は、閏土の気の毒な話を聞くことで、みんなあげられるものは全部閏土にあげようと決める。しかし、閏土の希望した物は、後に「偶像崇拝」といわれる「香炉と燭台」のような品と、後は、最低限な仕事上の道具、品物であった。「わたし」は、閏土を「デクノボーみたいな人間」と捉えているが、果たしてそうなのか。秤や灰を所望しているところを見ると、閏土はまだ農事への意欲を少しも失っていないとみるべきではないだろうか。
 閏土はその日一晩泊まり、次の日には帰っていった。次に来たのは「わたし」が帰る九日目であった。『故郷』はこの九日間のことについて詳しくは語らない。親戚への挨拶などが主な活動であったろうが、そこからも「わたし」はいろいろなものが見えたはずである。しかし、それらは一切、語られることはない。閏土との夜の会話も「わたし」の認識を根本的に揺さぶるものではなかった。
  ここで、改めて確認しておきたいことは、二週間ほどの故郷への帰郷を通して、「わたし」が深い絶望感に陥っていることだろう。かつて記憶としてある故郷、それは輝いていた閏土少年との思い出とともにあったものだが、帰郷で目にしたのは、すべてのあまりの変貌であった。「わたし」は村を離れて二十年、閏土と別れて三十年の月日が流れているのに、〈「私」の中の村〉=〈閏土〉は昔のままであり、「わたし」はそのあまりの変貌を前にして、一種の失語状態に陥っていて、ここにきてやっと「わたし」は、事情が飲み込めたというわけである。「みんな寄ってたかって彼をいじめて、デクノボーみたいな人間にしてしまったのだ」と。実際、「わたし」は楊おばさんのさんざんな悪態にも返す言葉もみつからなかった。しかし、それにしても、この「わたし」の閏土=「デクノボーみたいな人間」という一面的な人間認識は、村を離れる当日になっても変わることがない。都会に帰る船の中、「暮れてゆく外の景色を眺め」ながら、別れた水生のことを考える宏児の寂しさを思いやりつつ、「わたし」と母は閏土のことを話し合う。母は、「楊おばさん」が灰の中に皿などを閏土が隠したと密告し、そのご褒美にと「犬じらし」を勝手に盗むように持ち帰ったことが語られるが、そして二人は閏土=泥棒説に落ち着いたようだが、その根拠など詳しく語られることはなく、空白なのだ。ただ、そんなことががさらりと語られているだけである。「わたし」は楊おばさんを「他の人のように、やけを起こしてのほうずに走る生活」、嘘を平気で言い、盗みも平気で行う自堕落な生活者として見ているが、閏土については、「子だくさん、凶作、重い税金、兵隊、匪賊、役人、地主」に苦しめられることで無気力で「デクノボーみたいな人間」になり、「心が麻痺する生活」者となっているというマイナスイメージには変わりはない。しかし、ここで、閏土が楊おばさんと同じように、盗みさえも行う男になってしまったという解釈は、果たしてどうなのであろうか。何でも持って行ってよいといわれれば、逆に最低限必要なものを要求するというのが人情で、まして昔は地主の息子だと言っても友達なのだから一層いいにくく、選別して必要最低限の品物を要求したと考えられ、だから、閏土は自尊心等もあって「わんや皿」を要求せず、灰の中に隠したのだという読みも成り立つだろう。しかし、村の人々は、閏土が灰を要求したのかどうかも知らなかったかもしれず、村の誰か(楊おばさんを含む)が隠しておいたとも考えられる。村の人々は隙があればなんでも盗んでいくと母は言っているのだから。したがって、閏土犯人説は、村の中にある閏土への差別のまなざしさえ感じられるのであり、私にはそういうわけで閏土=泥棒説をにわかに信じられないのだ。そもそも、閏土=泥棒というのであれば、閏土=デクノボー説は撤回しなければならないのではないか。無気力でデクノボーの男が、そもそも手の込んだ隠し方をするものかどうか。ここでは、最後の最後まで、閏土はこの親子には〈気の毒〉、〈かわいそう〉という同情心のレベルでしか認識されなかったのではないかと思う。語り手は、閏土が来て、一晩泊まった後、水生を泊めずに一緒に帰り、また旅立ちの日には水生を連れてこなかったことをも書き留めているが、ここでもこの語り手はそれ以上のことは語らない。ここには、自分とあって落胆した「わたし」の姿を見て、「隔絶」の中でまた深い惨めさに追い込まれるわが息子の未来の姿が想像され、それだけは避けたいという閏土の親としての配慮があったとも読める。「わたし」は閏土を「西瓜畑の銀の首輪の小英雄」かデクノボーかの極端な形でしかみていないが、現実の閏土は、「わたし」が捉えている像のはるか向こうで、心優しい心を持ちながらも中国の未来に対して深い冷めた絶望感を持ちながら生きていたといってよい。ただのデクノボーではなかった。ただ、「わたし」は、閏土」=デクノボーという他者像のもと農事への意欲を持つ閏土の側面などを含めて全くそんなことなど知る余地もなかったようだ。
 さて、こうして、「わたし」は、船の中で、自分だけが「目に見えない壁」で隔離されている孤立感を深め、一人、孤独な「自分の道」を歩いているのだという絶望的な境地へと落ち込んでいくのであった。「わたし」の中で、かつて〈あった〉「西瓜畑の銀の首輪の小英雄の面影は、もとは鮮明このうえなかったのが、今では急にぼんやりしてしま」い、いよいよ孤独感を深めているのだ。この時、〈あった〉と思っていた故郷は、実在としてそこにあったのではなく、「わたし」の心、脳裏にイメージとして記憶されていたものにすぎなかったことも見えてくる。三十年前、「わたし」はこの囲われた「目に見えぬ高い壁」を階級差別の壁とも思わず、外、外部をあこがれ、閏土を「西瓜畑の銀の首輪の小英雄」と思いこみ、崇めていたのであった。その「小英雄」の向こうにある夜も寝ずに小動物に荒らされないように見張らなければならない生活の厳しさ、貧しさなど想像することさえなかったのだ。おもしろおかしく話す閏土の話術(「神秘の宝庫」)に幻惑されて、「わたし」は場面を幻想的、神秘的な風景として塗り込めてしまっていたのであった。その限りで言えば、「わたし」には昔も今も閏土の何も見えていなかったのだともいえよう。
 しかし、今、ここで、「わたし」は、「わたし」の中にかつて〈あった〉「鮮明このうえなかった」「西瓜畑の銀の首輪の小英雄の面影」さえもが「今では急にぼんやりしてしまった」ことを「たまらなく悲しい」と述べ、唯一、記憶の中に〈あった〉「わたし」の中の「故郷」さえも喪失するという痛みの中で呻吟しているのであった。
 「わたし」は「故郷」とかかわるすべてのものをここで失った。そして、この現世での〈つながり〉を失い、いわば宙づりされた「わたし」は、はじめてここで、次世代の子供である宏児と水生とが「互いに隔絶することのないよう」期待し、祈るのだ。実はもう閏土はそんなことの限界はとっくにみえていたのにである。若い二人が「隔絶する」ことがない方策として、最低限、「一つ心でいたいがために、わたしのように、無駄の積み重ねで魂をすり減らす生活」をしないこと、また閏土のように、「心がまひする生活」を送ってはならないこと、そしてさらには、楊おばさんのように、「やけを起こしてのほうずに走る生活」などしてはならないと考える。「わたし」は、次世代の子供達がしてはならないその「生活」の向こうに、「わたしたちの経験しなかった新しい生活」が始まることを予想し、期待し、「希望」したのである。それは、「わたし」の一種の救いに近い祈りであった。
 それにしても、「一つ心でいたいがために、わたしのように、無駄の積み重ねで魂をすり減らす生活」とか、閏土のような「心がまひする生活」とか、楊おばさんのように「やけを起こしてのほうずに走る生活」とかを語り、そこからの脱出を期待したこのもの言いは、実は多義的で何を言っているのか正直よくわからないのだ。特に、「わたし」の生活とは何なのか。「一つ心でいたいがために」に重きを置けば、「わたし」が階級対立の和解、あるいは緩和を目指して折衷主義的な政治活動を展開してきたようにも読めるし、知識人的な観念生活とも読めるだろう。また、閏土の生活を封建的な生活、楊おばさんの生活を資本主義的な欲望生活と置き換えて読み取ることができる。プレ・モダン、モダン、ポスト・モダン等々の意味の貼り付けを行うこともできる。いずれも間違っているとは思えないが、しかし、それは魯迅と魯迅の生きた時代からの意味の貼り付けではないかという印象を免れない。やはり、原則的には、語り手の語りを通して、「わたし」のことも閏土のことも、楊おばさんのことも考えてみるべきであろう。「わたし」は閏土をデクノボーというだけで、灰さえもほしいという生活の苦しみと、しかしその中でも生きようとしている姿が見えなかったし、同じ事は楊おばさんについてもいえるだろう。平気で嘘をいい、盗む野放図さの向こうに、「豆腐屋小町」では生きられなかった「三十年間」があっただろう。「わたし」は、「・・・のような生活」を列記し、そこからの脱出をただ期待、希望しているだけなのではないかという気もする。たしかに、「わたし」は、プレ・モダン、モダン、ポスト・モダン、あるいは新生中国の革命を予感させる「新しい生活」に入る必要性を語っている。しかし、その内実は、かなりおおざっぱな民衆理解のもとで語っていたといえようか。
 それでは、『故郷』の語り手〈わたし〉は、新生中国の革命のこの予感をたとえおおざっぱにしても語ること自体に力を注いできたのであろうか。もちろん、そうではなく、魯迅の『故郷』はここから「わたし」の奇跡のような物語が語られるのである。なるほど、語り手の〈わたし〉は「わたし」の中に起きた奇跡のような物語についてここでも事細かく語ることはない。
 『故郷』の終末部、次のように語られている。

  「希望という考えが浮かんだので、わたしはどきっとした。たしか閏土が香炉と燭台  を所望した時、わたしはあい変わらずの偶像崇拝だな、いつになったら忘れるつもり  かと、心ひそかに彼のことを笑ったものだが、今わたしのいう希望も、やはり手製の偶像にすぎぬのではないか。ただ彼の望むものはすぐ手に入り、わたしの望むものは  手に入りにくいだけだ。」

 「新しい生活」を期待する「わたし」のまなざしと、閏土が「香炉と燭台」という〈物〉自体に古い伝統的な祖先崇拝による心の安らぎ、平安を求めるまなざしと同じではないかと思い、「どきっとした」というのである。(注2)これまで、「わたし」は、「わたし」のまなざしに優位感を持っていた。「わたし」は、閏土のまなざしは「あい変わらずの偶像崇拝」で「いつになったら忘れるつもりか」とその古さを笑っていたのである。しかし、「希望」が「すぐ手に入」るか「入りにくい」かという多少の差異はあるにしても、〈ある〉か〈ない〉かも確定できないものをあたかも〈ある〉ものとして崇拝し、絶対化しているという点では大差がないことを「わたし」ははじめて自覚したのであった。しかし、これにはもう少し説明が必要であろう。「わたし」は、世界との〈つながり〉を失うことで、逆に、祈るようにして次世代への希望を持った。この場合、希望は救いであり、それは疑う余地のない絶対的で崇高なもの、すなわち「わたし」のつくった「手製の偶像」であった。閏土がどうすることもできない日常から脱出するべく救いとして「香炉と燭台」に一部の一縷の救いを求めたように、「わたし」もあらゆるものと孤絶することでそこから救われようと、弱さから、若い世代への「希望」という「手製の偶像」にすがったのだ。「わたし」は、みんなから孤絶するという立場になってはじめてある物、ある出来事、ある観念を「偶像」化し、「崇拝」しなければ生きていけない〈人間の弱さ〉や哀しみ、苦しさがやっと見えはじめたのであった。もはやここでは、「わたし」のあの閏土=「デクノボー」という単純な認識は更新され、あの閏土への根拠のない優位性も崩れたのであった。「偶像」を「崇拝」しなければとても生きていけない本当の意味での〈人間の悲しさ〉のレベルで閏土の問題(〈閏土の絶望〉)は捉え返されたばかりか、〈ある〉か〈ない〉かも確定できないものを〈ある〉ものとして崇拝し、絶対化するという人間の心、精神、思考のもろさ、弱さもまた再認識されたのであった。もちろん、これらのことは語り手〈わたし〉が細かく具体的に語っているわけではない。ただ、読者は、語り手の語った語りの内容を通して語られていない領域(空白)をこのように読み取ることができるということである。
 ここで、魯迅が、第一小説集『吶喊』(1923・8)に納めた「原序」(井上紅梅訳)
の中で、書くことの困難性について述べている点を想起しておきたい。魯迅は、「たとえば一間の鉄部屋があって、どこにも窓がなく、どうしても壊すことが出来ないで、内に大勢熟睡しているとすると、久しからずして皆悶死するだろうが、彼等は昏睡から死滅に入って死の悲哀を感じない。現在君が大声あげて喚び起すと、目の覚めかかった幾人は驚き立つであろうが、この不幸なる少数者は救い戻しようのない臨終の苦しみを受けるのである。君はそれでも彼等を起し得たと思うのか」と問うて、書くことの倫理に迫っている。魯迅は、ここで、たとえ、「臨終の苦しみ」を与える側面があるとしても、まず「鉄部屋」を壊して開けることこそ「希望」であり、先決だという友人の論理を受け入れ、〈書く行為〉を選択したようだ。魯迅は、若い頃、義憤、「慷慨激越」、人々からの疎遠による「寂寥」感、などから逃げるように「古碑を書き写し」て生き伸びていたという。しかし、ここにきて、友人の論理を受け入れ、「鉄部屋」を壊して開ける行為の一つとして〈書く行為〉へと転換したのであった。
 ところで、『故郷』の語り手〈わたし〉の語りの中心は、「鉄部屋」を壊して開ける「希望」の方へシフトした「わたし」の「無駄の積み重ねで魂をすり減らす生活」そのものの現状報告のようなものであった。それは、語れば語るほど、「わたし」の「鉄部屋」を壊して開ける行為の無惨さを示すものとなっている。語り手が語れば語るほど、閏土との距離は深まり、決定的なものとなっていく構造となっている。そして、皮肉にも、語り手〈わたし〉によって「わたし」の現状が報告されればされるほど、「鉄部屋」を壊して開ける行為の善し悪しや、「希望」そのものの〈ある〉〈ない〉の問題を超えて、「希望」を云々する精神、思考そのものの偶像崇拝性の問題が顕在化し、テクストはこの偶像崇拝的な精神・思考の堕落性の告発から、やがて民族の自力更生、自主・自立の必要性を説くテクストへと転換していくのであった。むろん、そんな領域まで、この『故郷』の語り手〈わたし〉はカバーしていたわけではない。語ることで、読者にそういうテクストの読み取りを可能にしているのである。
 「わたし」の閏土=「デクノボー」と、閏土の「わたし」=「だんな様」という言葉は、「わたし」と閏土の関係を一種のフリーズ状態にするものであった。たしかに、この二つの言葉の構図は、国内の停滞して動かない〈地主ーー小作〉の階級関係を暗示しているだろう。そしてこの状況を流動化するためには、二つの言葉を超える新しい言葉の獲得が不可欠であった。しかし、それは、「わたし」が「希望」した次世代による「新しい生活」の実践によって〈超える〉ことができるものなのかどうか。そんなことよりも、何よりも、閏土にしても、「わたし」にしても、ある物、ある出来事、ある観念を「偶像」化し、「崇拝」しているその人任せ性を何とかしなければ立ちゆかないほどそれほど中国の状況は絶望的なのであった。語り手〈わたし〉は、「希望」という言葉のはらむ人任せ性を感受し、そこから中国の〈今〉という状況のもとでの偶像崇拝の問題性を「わたし」に読み取らせたのである。「今わたしのいう希望も、手製の偶像にすぎぬ」と認識を深化させたのであった。反「偶像崇拝」という新しい言葉の浮上である。このとき、二人は、以前として国内の階級関係の呪縛の中にあるのだが、知識人と農民という対立あるいは優劣の構図を超えて、同じ中国で生きる人間同士という新しいレベルでの横の〈つながり〉を持つことができたのであった。もちろん、「わたし」は「わたし」の事情があり、また閏土は閏土の事情の中で、この受け身的で、偶像崇拝的な心、精神、思考の虜となっていたのであるが、ここにきて、やっと「だんな様」と「デクノボー」という縦の「厚い壁
」(構図)は溶け始めたのであった。「新しい生活」の実践という社会的、階級的な問題(「手製の偶像」)のレベルを超えて、「わたし」も「閏土」も宏児も水生も、母も楊おばさんも、中国人すべての人間が、何かを偶像崇拝するのではなく、自立し、自力更生することこそ大切なのだという民族としての共通の変革・解放課題(鍵)をつかみ取ったのであった。いわゆる魯迅の「原序」にならって言えば、鉄部屋(〈絶望〉の「壁」)が解き放たれ始めたのである。
 『故郷』は、「わたし」の中で起きたこの思考のコペルニクス的転回のドラマをこそ語りかけているテクストであった。その時、「わたし」の中にあった故郷の幻想的な光景は中国の《原郷》と化して再び輝きはじめたのであった。(注3)

  「まどろみかけたわたしの目に、海辺の広い緑の砂地が浮かんでくる。その上の紺碧  の空には、金色の丸い月がかかっている。思うに希望とは、もともとあるものとも言  えぬし、ないものとも言えない。それは地上の道のようなものである。もともと地上  には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。

 「わたし」が見ているこの風景はもちろん地上には〈ありもしない〉ものである。ただ、「わたし」は故郷を喪失しながらも、〈ある〉か〈ない〉かもわからないものを絶対化し、崇拝し、信仰するという観念的な、偶像崇拝的な精神・思考の堕落、あるいはその弱さから解放されることで、一時、消えかかった閏土とも新しくつながること(=「地上の道」)ができたのである。
 『故郷』は、誰か他人を元気づけるテクストとして書かれたのではない。『故郷』は「地上の道」への通路を一度は完全に見失った「わたし」が船の中で、中国人全体が課題として背負う精神・思考の奴隷性、堕落性からのコペルニクス的転回の必要性を発見することで、やっと「無駄の積み重ねで魂をすり減らす生活」から抜け出て、閏土とその向こうにいる無数の中国の人々との〈つながり〉を、観念や思いこみではなく、現実の地平で持ち始めるといった故郷への旅として語られていたのであった。
 魯迅の『故郷』は、語り手〈わたし〉による「わたし」の故郷喪失の物語であるとともに、「わたし」の奇跡に近い再再生の物語であった。これが、地上の〈いま〉の現実の世界から〈地上の道〉つくりをしていくことこそ「希望」なのだという最終フレーズの力強い明るさの内実であった。

注1 この点については、筆者は、同人雑誌『試想』等において何度も述べている。

・「自我の複数性と近代文学史の転換」(『試想』創刊号 平13・10 「試想」の会)
・「意識の劇から関係の劇へ」(『社会文学』第18号 平15・1 日本社会文学会)
・「関係の劇を読むとはどういうことか」(『試想』第2号 平15・2 「試想」の会)
・「ファシズムと文学ーー〈いま・ここ〉の豊かな関係性の構築をめざして」(『試想』第3号 平16・8 「試想」の会)
・「新しい読みの技法ーー二項対立的思考から多項選択的思考へ」(『試想』第4号 平17・11 「試想」の会)
・「漱石・鴎外そして文学研究ーーポストモダンへの道」(『試想』第5号 平19・3 「試想」の会)
・「文学的価値=〈関係の豊かさ〉」論覚書ーー読みをめぐる原則的問いかけーー」 (『試想』第7号 平21・7「試想」の会)

 要約すると、「テクストは、一般に簡単には語られない、わからない部分すなわち空白を抱えている」こと、テクストを読むとは、この空白を読むということであり「行間を読む」ということの意味であること、そして、この「再造された〈テクスト〉すなわち読み手によって〈自己化されたテクスト〉は、正解とは無縁であり、繰り返し再読されることで無限の変貌をとげていくことになる」こと、テクストの価値とは、この「再造された〈テクスト〉」の中で意識ではなく、作り出された〈関係の豊かさ〉によって評価されなければならないこと、さらに、そこでは「正解」はなく、「どのような角度、視点から見た時、〈テクスト〉の構造はこう見える」と公開、討論するか、歴史の審判にゆだねるほかなく、あくまでもテクストの構造の中にその客観性、普遍性の根拠をもとめてはならないことなどを筆者は基本的なスタンスとしている。

注2 井上紅梅訳では、「わたしはそう思うとたちまち羞しくなった」とある。
注3 井上紅梅訳「深藍色(はなだいろ)の大空」、竹内好訳「紺碧の空」との訳語がある。田中氏は、昼と夜が併存する「パラレルワールド」と捉えているが、夜の一光景で矛盾はないように思う。日本の三千メートル級の山でこうした光景をよく目にすることがある。

   付記 『故郷』の引用は、竹内好訳版である。    2013/04/19 中国福州

 

 


 

 「試想」の皆さん、早いもので、もう帰国の時となりました。六月十五日、福州から成田の直便で帰ります。一応、来年もやる予定になっています。
 さて、四ヶ月の中国滞在で、何がわかったのか、見えたのか、正直、それはなかなか難しい。二月十日にここにきた時は、中国でも珍しいほどの寒さで、正直、困りました。もちろん、その後、温度はしだいに上がり、最近では夏日のような日もあります。南国宮崎の太陽に慣れた私ですが、やはりここの太陽も半端ではありません。ただ、この四ヶ月は、曇天ばかりの日がつづき、余り日光には恵まれませんでした。そんな気候の中で、救いは宮崎でみた花々がここにも多くあり、少し慰められたということでしょうか。ブーゲンビリア(三角梅)、ハイビスカス、珊瑚紫豆(サンゴシトウ)、コバノセンナ、トックリキワダ、ジャガランダなどですね。ジャガランダは宿舎の至誠学院の校内にあり、あの甘酸っぱい匂いはきっとジャガランダと前々から思っていたから花が咲くとやはり予想が当たってなんとなく幸せな気分になりました。その季節になると堀切峠を車で南下し、多分日本一きれいな日南の海の風景を眺めながら、南郷の道の駅にあるジャガランダを見に行ったことを思い出します。後、宮崎では高くて食べられないマンゴがやすく食べられるのもうれしかったですね。こちらではマンゴは街路樹としてあり、今、青い実が一杯ぶら下がっている。この光景がみられたのもうれしい。学生に尋ねると、このマンゴーとお店で売っているマンゴーとでは種類が違って、余り甘くないということでした。ただ、まあこんなわけで、この四ヶ月は、こちら固有の花や樹(よう樹 ガジュマルの一種で街路樹)につつまれながら、やはりそういう見たこともある花とであうのはほっとするものらしいですね。
 ところで、私は、ここに来て福州で一番高い山である鼓山に六回登りました。世話になっている女子学生から、中国語が話せない先生はそんなに勝手にうろついてはだめですと止められていましたが、まあ自立して一人でバスにのり、何度もその山に行きました。ただ、恐いと言えば、このバスの中だけでなく、向こうから話してくるのが一番恐いしストレスでしたね。一度、バスの中で優しく会釈したらとたんにいろいろ話され、自分は中国語がわからない、自分は日本人ですと学生からレクチュアされた中国語で話したが通じず、冷や汗をかいたことがありましたが、まあ向こうから話さないで、と願いながら市中をうろついている有様ですが、ともかく、この鼓山は、市内が一望できるすばらしい山で、私は本格的な夏山の訓練もかねて何回も登りました。その途中で、いろいろな見慣れた花々に出会いましたが、とりわけ、山中で、ブーゲンビリアを見たのは驚きでした。もともと山に自生している花とは知らなかったものですから。
 ああ、さてさて、肝腎の文学のことを少し、触れておきます。基本的には日本語の教育はかなり進んでいますが、文化、文学となると今一歩という感じですね。相変わらず決まり切った日本理解が横行しているようです。日本人はなにも好きで腹切りしているわけでもないのに、ここではそんな程度に思われているところもあります。日本人の日本語教師も中国人の日本語教師の方もいろいろこまかな指導をされていますが、刻みこまれた日本への固定観念はそうたやすく崩れないということでしょうか。時々、こんなに近いのにこんなに解り合えていないことに愕然としたりすることもあります。日本人への悪感情のない福州の人々ですが、日中の文化交流のさらなる深まりを願わずにはおられません。
 私はこの四ヶ月、学生の前で、日本はこうですというようなことは出来るだけ避け、なるべく丁寧にテクストを読むことにつとめたました。どのような日本理解が彼らにあろうが、丁寧に読むことで、日本人、日本文化を知ってもらおうと思ったからです。その方が、深い相互の文化理解もはじまるだろうと期待してのことです。
 この福州大学では、近代文学史も教えました。学生の中から、日本の近代化と自国の近代化あるいはその課題を考える学生が現れたりして、少しほっとしています。やはり漱石への関心は深いものがあります。漱石しか知らないといった理由だけではありません。まあ、学生は学生なりに自国の行く末に真剣に向かい合っているということですね。後、文学史を教えていて、確信したのは、これまで日本で自分等がやっている文学史の再検討、読みの新しい方法の模索の正しさですかね。これまで、外部、歴史を喪失した安直な一国主義的な自閉的文学研究が日本ではやはり大手を振ってきましたが、これでは外国では通用しないということですね。私たち「試想」の会の方向性は、たしかに、出版社などの営業妨害になろうかとは思いますが遠慮することなく、これまでの古い研究の無効性を徹底して明らかにし、おおいにこれまでの学問とその方法を批判しなければと思います。そんなことをますます確信いたしました。そして、そうした延長で、強く感じたのは、日本近代文学と中国との交流史、関係史の研究の必要性です。私たちは比較的韓国や台湾との研究者との共同研究なりシンポはおこなっていますが、中国とはあまりにも少ないというのが実情です。私も参加している社会文学会が少しやっているといったところですかね。この方面の共同研究も深めなければならないのではないかと思います。特に、竹内や武田と中国との関係、武者や啄木と周作人や魯迅などとの関係など魅力的な研究領域があり、この流域の研究が深まることを期待しています。(前田角藏)








  この度、下澤勝井氏が中日出版社より「伊那谷五十景」を出版された。下澤氏はご存じのとおり、ながく新日文で活躍されていた作家で、評論もかかれ農民文学、プロレタリア文学にも精通されている。小田切秀雄門下の一人で、小生からすると大先輩にあたる。氏とは小田切先生の命日にはかならずお会いする。あたりのやらかい人であるが、思ったことはずばり指摘する熱血漢のところがあり、いつ自分にそれが向かってくるかびくびくしているところがある。
  さて、この本は、信州飯田市にある「信州日報」に三年ほど掲載されたものを一冊にまとめられたもので、「掌の小説 伊那谷五十景」とあるように五十編の短編を集められたものである。五章から構成されており、一章 「ちょつと昔のはなし」、二章「ずっと昔のはなし」、三章「想い出の引き出し」、四章「そして近頃」、五章「谷間のひとたち」で、各章にはそれぞれ五から十二の小説が配置されている。
  下澤氏は「あとがき」の中で「小説集とはなっているが、内容は限られた地域と時代の証言録、報告集」だと謙遜されている。しかし、本書に収められた小説は事実をそのまま記録したわけではなく、「より現実感を添えたいために、フィクションの力」が縦横に駆使されている。たしかに、ここに書かれた世界は氏が直接あるいは間接にみたもの、体験したことがベースとなっているだろうが、ここではそうした私小説性は余り感じられない。登場する人々は、なるほど戦前、戦中期、あるいは戦後の〈伊那谷台地〉にすんだり、通過したりした実在の人物だろうが、この小説ではそれぞれの歴史、風俗、生活を背負いつつ駆け抜けている。バリカンで半分だけ髪を刈られた少年も、かならず村にやってくる夫婦の「乞食」も〈伊那谷〉台地の貧しさとおおらかさと優しさといった普遍性をもって読者に迫ってくるのだ。それは、やはり氏の駆使している虚構の術によっていると思う。氏はここでは、戦前、戦中、戦後の〈伊那谷〉に生き、通過した人々を自分がみたり聞いたりした話として直接語るのではなく、退いた位置から一種の語り部として楽しそうに語りだしており、それは、ずっとずっと昔にあった昔話をいろりにあたりながら子どもたちに語るおじいさんのように、新しい近代(昭和)の 民話をやさしく、楽しそうに語っており、近代の語り部のようである。
  この小説を読むと小生にもかってあった村の記憶がよみがえり、なんとなくうなづく場面に多く遭遇した。蚊に刺された動物の一部の肉(皮膚)がぴくぴくそこだけが動くといった描写にであったたりすると、自分の気分もはるか昔の昭和にワープしていくが、それらのことすべてが、本書における氏の語りのスタンスに負っているのだと思う。
  印象に残った作品は多い。特に「つながり乞食」「山羊のいる風景」「バリカン物語」「軍馬・秋月」「井月の坂」がいい。氏の眼力の深さと優しさが如実に表されている。また、五章に配置された小説はどれも逸品であるが、「絵島幽閉」では、当地が大奥絵島事件で有名な絵島が幽閉されたところであったこと、「少年・西尾実」では、あの著名な国語教育学者西尾実の出身地であったことなど教えられ、その点でも、大変有意義な書物であった。(前田角藏)

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