芥川神話の崩壊について
芥川龍之介の「鼻」を例に考えます。「鼻」は、禅智内供という坊さんが、「傍観者の利己主義」というものに出会うことによって、自分の異常な鼻に劣等感から解放されるという筋の物語です。これまで、「鼻」は、自分の鼻に過剰な劣等感を抱き、何とかしてそこから抜けだそうともがき苦しんでいる禅智内供をおもしろおかしく風刺した一種の滑稽小説、あるいは過剰な自意識の世界から解放される物語として読み取られてきました。しかし、「鼻」はそんな自意識をめぐるドラマなのでしようか。そもそも長い鼻は身体の障害に近いもので、その苦悩は笑いの材料にならない深刻なものではないかと私には思えます。そもそもそういう身体に障害をもった人々の苦しみを笑いのネタにする感性そのものが暴力に近いのではないかと考えています。
禅智内供という坊さんは、「傍観者の利己主義」というものに出会うことによって、自分の異常な鼻に苦悩するのはばかげたことだと悟り、その結果、劣等感から解放されるという筋の物語だと紹介しましたが、他者、他人の評判、評価に怯え、翻弄されていた坊さんが、そんな他人の評判を気にしなくなるという話ですから、一見健康な境地を獲得する結構な物語ではないかと考えます。事実、そういうように思われてきたのでした。考えてみますと、これは、みんな他人は、「傍観者の利己主義」だときめつけることであり、一種の唯我独尊の世界ということにもなりかねません。なぜなら、他者、他人はいつも「傍観者の利己主義」者によって満たされているわけではないからです。人が不幸から抜けてしまうと残念だ、元のように不幸になればいいと願うような人もいるかもしれないが、しかし、そんな人は、ともかく全員ではないはずです。本当に人の悲しみに同情し、悲しむ人も多くいるはずです。こういうわけで「鼻」は一見、人間の歪んだ一面を見事に捉えたテクストのように思われがちですが、事実そういうふうにも理解されてきたのですが、そもそもそういうテクストではなく、それどころか、そこには身体の障害に悩む人を一種の滑稽として笑い飛ばす非情な感性が表出されていて、それこそまず問題にされるべきであったと今は考えることができるのです。芥川には、弱い、劣悪な立場にいる人々を愚弄するところがあり、それが最大の問題なのです。要するに感性的に言えば、芥川には、現在のいわゆる勝ち組の心理があふれているのであり、そこが最大の問題なのです。たしかに、禅智内供は自己の身体コンプレックスから解放され、はじめて幸せな気分を味わっています。しかし、その幸福感は、他者はみんな「傍観者の利己主義」者だという恐ろしい偏見によって生み出されているのであり、とても鼻を意気揚々と風になびかせる禅智内供の心は豊かであるとはいいがたいのです。
どうして、それでは、こんな暴力的な、非人権的な読みが「鼻」においてこれまでされてきたのかと考えますと、そこには、主人公の意識中心的な読み方があったからだと思います。主人公の意識だけに着目すれば、たしかに、内供は、自己のコンプレックスから解放されたのです。しかし、意識ではなく実現された〈今、ここ〉の関係性の豊かさでテクストの価値を判定するとなると様相がちがってきます。〈今、ここ〉の関係性においてどういうものを実現しているかというその構築された関係性の豊かさでテクスト、作品の善し悪しを判定すると、「鼻」は、あまりにも貧しい世界しか獲得していないのだという評価になります。まあこんなに難しく考えないでも、ともかく、「鼻」を自意識に翻弄されてはいけませんよと単純に読む読み方だけはしてはいけないのではないかと思います。
時代が変わればテクストの読み方、評価も違ってきます。もちろん、なんでも新しく読めばいいというのではありません。時代にあった人間的な読みを進めることが大切ということになります。大いに今までの古い人間的でない読み方に異議を提出したいものです。あるいは勝組的な感性でテクストを読む習慣から解放されたいものです。そこから新しい文学史を構想していきたいものです。 前田 角藏