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試想の会のブログです。
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 この五月二十三日、小田切秀雄先生のお墓に参ってきました。小田切先生を囲む会の方々九人で小田原駅に三時半集合し、歩いて五分ほどのところにある高長寺に参りました。このお寺には北村透谷のお墓があり、先生も透谷と一緒にねむりたいというので墓を購入されたものです。もともと先生は長く目黒で過ごされていましたから、東京の人ですが、そんな理由でお墓はこの小田原の高長寺にあり、弟子たちはお亡くなりになった後、毎年、先生の命日五月二十四日(に近い日曜日)に参るようにしています。今回は没後十年になります。ただ、ご承知のように私は宮崎大学に赴任していて単身赴任なものですから連休に東京の小平にもどるので、なかなか五月末に行われる恒例の墓参にもう一度くることがなかなかできませんでした。しかし、この三月、宮崎大学教育文化学部を定年退職しましたので、やっとみんなと参加することができました。雨の降る寒い一日でしたが、先生のお墓に献花し、お線香をあげ、ひとりひとり先生に手をあわせお祈りしました。その後、透谷のお墓にもみんなでお参りをし、集合写真をとり、それから駅近くにある蕎麦どころ「寿庵」で二時間ほどの会食をしました。七時頃現地解散。
 この二時間の会食は恒例になっているようで、自己紹介の後、テーマにもとずき自由な雑談ということで、田中単之大先輩のご指名で私が「新しき村」についてまずしゃべらされました。簡単なレジメのようなものを用意していったのですが、お酒もはいったので、どうも支離滅裂な話になり、申し訳ないことをしたと思っています。幹事(田中単之さん、下沢勝井さん、清水節治さん)の方には大変ご迷惑をかけてしまったと反省しています。個人的ですが、私は先生に定年後も先生の志だけは受け止め戦いますよと誓ってきたところです。定年後の私、そして「試想」よろしくお願いします。(前田角藏)



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 今度、宮崎出版文化賞特別賞を受賞した「阿万鯱人作品集」(2分冊全四巻鉱脈社)の阿万鯱人のことについて、これもこの巻の付録として書いた文章を転載する形でみんなに紹介しておきます。結論的には、私はこの作家をもう少し日本の戦後文学史の中にちゃんと位置づけたいと考えています。
   
    阿万鯱人と「新しき村」     

 私ごとを述べて恐縮だが、私は平成12年の秋、宮崎大学に赴任した。赴任してまず行ったのは、「新しき村」と都井岬であった。武者小路実篤の「新しき村」は専門に研究している流域とも重なるところがあり、来る前から興味があったためで、都井岬は高校の授業の教材として扱ったことがあり、印象に残っていたからである。高鍋から狭い道を車で通り、途中の峠の展望台から「新しき村」を見たときの感動は今も忘れることができない。まさに桃源郷という感じであった。ただ、同時に、水をどう引くかが難しい地形なのでここでは米は作れないだろうなとふと考えたりした。武者小路たちが農業に適しているかどうかよりもともかくこの景色が気に入り、決めたにちがいないと思ったりした。
 ところで、阿万鯱人という作家の存在を身近に感じたのは、恥ずかしいことだが、宮崎にきてからである。 大津山国夫『武者小路実篤研究ーー実篤と新しき村』(平成9・10、明治書院)、奥脇賢三『検証 「新しき村」』(平成10・5、農村漁村文化協会)などとともに、阿万鯱人氏の『一人でもやっぱり村であるーー杉山正雄と日向新しき村』(昭和60・8、鉱脈社)を知っていたはずであるが、なかなかユニークな視点からの「新しき村」研究だなという程度の認識であったと思う。しかし、赴任してから、氏の『アンデルセン盆地』を英語教育講座の岡林稔先生から紹介していただき読んでからは、この作家への認識が一変した。こんなすごい書き手がいるのに今まで自分はどうしていたのだろうという暗澹たる気持ちになった。この気持ちは今でもあり、宮崎にかき゛らずたまたま読む機会がないため、あまり高い評価を受けることもなく、そのままになっている作家や作品はあるにちがいない、有名になり文学史に載っていたりするのはごくごく恵まれた作家や作品にすぎないのだという思いへとつながっている。
 阿万鯱人氏の『アンデルセン盆地』は、敗戦後の宮崎の農村が舞台となった作品で、都会にあこがれつつも、自分の住んでいる〈いま・ここ〉の世界を「アンデルセン盆地」として輝かしいものにしようとして揺れ動く青春の群像を描いたものである。戦後の一時期を描いた小説と言えば、インテリの転向体験や傍観者的な戦争体験でとぐろをまく小説が多いが、ここでは、そういう観念的な青春とは全く無縁な、今、自分の住んでいる〈場〉=足下から何かをしようという地に足がついた青春像が描かれている。そして、この小説を読むことで、どうして氏が「新しき村」、特に〈杉山正雄〉にこだわったのかの理由が少しわかってきたのである。
  阿万鯱人氏の『一人でもやっぱり村である』は、武者小路実篤の元妻房子の夫として生きた一人の男の誠実な人生の記録でもある。それは、一カ所に根を張り続けた、あるいははり続けることを宿命づけられた男へのバラードという印象を受けるが、私には阿万鯱人と 杉山正雄とが重なって見える。『アンデルセン盆地』との関係でそう思うのかもしれないが、私にはそう見えるのである。 阿万氏と「新しき村」との関係はかなり古いようだ。一九四七(昭和22)年に初めて訪れ、それ以後、生涯続いている。氏は「新しき村」への関心について、「未来豊かな一人の旧制高校生が、武者小路実篤の『新しき村』建設に感動し、学業を投げ打って以後その生涯を『村』とともに終わろうとしている・・・すべてが流動していたあの大正期の、情念的なといっていいのか、夢想的なというのか・・・自分を駆って憑かれたように没入していったそのことに、わたしはただ理屈抜きに引かれたのだ、というほかない」と語っている。みんなが時流に乗って自分の出世とか名誉を求めて都会へと飛んでいく時、そこへと飛ぶことなく、むしろ逆の価値観、生き方の中で生きようとしたモノへの哀惜がそこにはあったからと言えそうである。阿万氏は無骨とも言えるその生き方の典型を杉山正雄の中に見ていたのではないか。そしてそうした杉山正雄を見続けることは同時に 阿万鯱人という自分を自己確認することでもあったのではないか。
 阿万氏は、『一人でもやっぱり村である』において、杉山正雄についてかなり詳しく調査し、その経歴、足跡について書き留めているので、ここで紹介することはしないが、杉山正雄が入村したのは、1922(大正11)年である。ただ、まもなく、武者小路の妻房子と恋いに落ち、一時、村を出て、正式に二人が結婚するのは一九三二(昭和7)年で、二人がまた日向「新しき村」に戻るのは昭和十二年頃である。村は昭和13年、ダム工事に絡み、翌年には埼玉の毛呂山に移住し、十五年には杉山夫婦だけになった。二人は戦争の時期を挟んでこの西の「新しき村」を支えたのであった。村に立ち戻った杉山正雄は「僕も「新しき村」に根を深くおろしたい。村の人間になりきりたい」と『新しき村通信 第128号』に書いているという。杉山は一九八三(昭和58)年、八十歳でこの世を去るが、この初志を貫いたのであった。 阿万鯱人氏がこの村に訪れたのは、一九四七(昭和22)年で、それ以後ずっと夫妻と交流している。本書はそれにもとずく書である。「新しき村」研究といっても、実際は初期に集中していて、とくに戦後の西の「新しき村」研究は手薄だという印象は免れない。その空白を埋めているのが、この『一人でもやっぱり村である』である。しかし、本書の研究上の意義はさておき、この書でもっとも印象に残る場面は、「下の章」の、武者小路が昭和二十五年六月、「新しき村」を訪れた際の房子夫人の攻撃の場面であろう。

  「ーー杉山をこのまま生涯ここで生活させるおつもりなのですか?と切り出す。 ーーあなたさまは八年ぽっきりいらして、なんの未練も無げに皆といっしょに『村』を見捨てておいきになってしまわれたけど・・・昨日耕地のあたりにお立ちになって「寂れたな」とぽつんとお言いになりました。/わたしどもをお責めになるつもりでお使いになった言葉でないことは重々わかっておりますけど・・・それでも房子かなしゅうございました・・・日がな一日杉山は畑のあいだを駆けずりまわって荒れないよう努力しているんですもの・・・それなのに杉山の前であんな無神経な言い方なさるんですから・・・。/あたしは仕方ないと思っておりますけど、ええ、そうです。けれど・・・あなたさまのユートピア論を聞いて『村』にとび込んだ杉山が可哀相でございます。」  

 ここには杉山正雄に悪いことをしたという房子夫人の悔恨の気持ちがあふれている。しかし、阿万氏は、こういう房子像を描くとともに、房子夫人のいう〈可哀相〉な、一女性への犠牲的な生涯を送ったといった何となく哀れっぽい人物とは無縁な、自分の人生に誇りを持ち、充足した人生を生きた〈杉山正雄〉を本書で語っている。阿万氏は、「『村』を生きぬくことと、房子というひとりの『女』を守るということは、杉山正雄の場合同じ重さと意味を持っている」と指摘し、杉山正雄という男は房子を大切にするという「師への盟約」をひたすら守って生きていたのであり、そこには大筋において迷いはなかったのだと説いている。氏は、戦争期の一時期、師武者小路の理想主義への疑念を瞬間的感じたかもしれないが、概ね何の後悔も不満もなく、師の教えのまま生涯を全うした杉山正雄という男を描いている。「貧乏でも自然のままに生き安心立命の境地に自分を置きたい」と願った男を描いたのである。そしてこの杉山像は、戦後の宮崎という地で、出世や名誉を求めて都会へと飛ぶような青春とは異質な、いわば〈いま・ここ〉の世界を「アンデルセン盆地」とするもう一つの人生を堂々と生き、また作品を書き続けた作家阿万鯱人にそのまま私の場合、繋がっていくのである。
 阿万鯱人氏には、『歴程』のメンバーが企画した 『アンデルセン盆地』を訪ねる文学散歩の時、お会いすることができた。大変品のいい老作家という感じで、もう今はなくなられた江戸文学研究者の広末保や戦後文学の本多秋五に似ているなあと思った。しかし、その作家阿万鯱人とももう会うことはできない。たくさんお聞きしようと思っていたので、残念でならない。(「阿万鯱人作品集」 分冊第2 4巻付録 2008・10、鉱脈社)

 私のこの作家への思いは最後のところにあり、残念でならない。彼の文学が生成した村は、今も周りを山で囲まれて一種の盆地のようなたたずまいをうしなっていない。この近くに温泉センターがあり、私はいつもいくが、通るたびにこの作家と一緒に村を文学散歩した思い出が去来する。2009・3・10 
                       前田  角藏




ちょつとしたいきさつで、宮崎日日新聞社主催の第19回宮崎出版文化賞の審査委員長になりました。そんなわけで、2008年度宮崎県在住の方の出版業績をトータルにみることができました。もちろん、八十点の中から文化部でセレクトされた十点ほどの本を読んで、いいものを表彰するというものですが、いい機会を与えられたと感謝しています。この新聞社は社会文学会宮崎大会でも大変お世話になった新聞社でかなり良質の新聞社です。その賞の中で、われわれ文学に関係する書物として「阿万鯱人作品集」が特別賞をとりました。ここで、みなさん、阿万鯱人という作家についてしらないでしようから、どんな作家か、すでに発表した文章を転載するかたちで紹介しておきます。
  
  「阿万鯱人作品集」(2分冊全4巻) 阿万鯱人著 鉱脈社  

   周知の如く、阿万鯱人は、宮崎県が生んだ西日本を代表する作家で、2006(平成18)年4月、88歳でなくなっている。本作品集は、その阿万鯱人の60年に及ぶ作家活動を顕彰するべく上梓されたものである。作品集は全4巻からなり、本年5月、第1分冊(第1巻、第2巻)、10月、第2分冊(第3巻、第4巻)が阿万鯱人作品集刊行委員会によって鉱脈社から出版された。本作品集は小説30編からなるが、作品を発表順に並べたものではなく、テーマ別に並び替えて再構成するという工夫が施されている。第1巻「てびら台地の人々」には、「てびら台地」などの小説、第2巻「魂の故郷を求めて」には、「アンデルセン盆地」などの小説、第3巻「単独者の唄」には、「一人でもやっぱり村である」などの小説、第4巻「戦争と人間」には、「餃子」「蟹島」「彩雲」などの引き揚げ者系列の小説が配置されている。また、各巻にはかつて阿万鯱人と何らかの文学的交流があった文学者の力のこもった解説があり、これからの阿万文学研究の根本資料ともなっている。 阿万は、一時、地方の「農村作家」という評価をされていたようである。しかし、作品集としてまとめて並べてみると、こういう評価が揺らいでくる。「餃子」から「蟹島」「彩雲」へと続く流れの中には、日本人が早く忘れてしまいたい、消してしまいたい戦争の〈負〉の記憶、それも普通の記憶ではなく、引き揚げ途中に日本女性が陵辱されようともそれを傍観していきてしまったという罪の記憶として書き留められている。阿万は当時の引き揚げ経験者なら誰でも経験したであろう忌まわしい記憶を風化させることなく、むしろそれをトラウマのように抱えこんだ作家であった。そのため、彼の〈いま・ここ〉の幸せの世界はいつでも簡単に壊され、宙づりにあった。阿万はこの引き裂かれた生の構造と闘い、その闘いは語りの複雑な構造とともに、死ぬまで継続していた。とても乱暴な言い方になるが、日本の戦後の文学は、阿万が終生抱え込んだ課題をいち早く忘却し、第三の新人、内向の世代という都市・中央の都合のいい文学史へと組み換えられてきたが、阿万文学は、こうした戦後の文学史を大きく揺さぶっている。作品集の刊行の意義は大きく、重い。 (宮崎日々新聞 2009・3・6 掲載)
 こう私は書きました。阿万鯱人がどういう作家か少しおわかりになったと思います。全国には我々が考えている文学史をゆさぶるような作家なりは数多くいるというのが、宮崎にきての私の確信で、まあこういうことはほうぼうで発言もしています。次回は、もう少し、「新しい村」と阿万のかかわりについて紹介します。
   2009・3・9        前田 角藏
 みなさん、お久しぶりです。久しぶりだぜ、おとみさん・といいたくなるほどですね。朝からおっさん何言ってるねぇやときそうですが、正気です。まあぼけてはおれませんということですね。
 さて、高口さんが、久しぶりにイタリヤ見学からの報告をしてくれました。修学旅行だから大変だったろうなと思います。お疲れさんでした。読ませてもらって、日本もそろそろ本格的に一国主義的なあの上昇=、価値、幸福、いきがいのアイデンティティからそれこそ卒業しないと、すべての人が絶望的になり暴発するか自殺してしまうかの悲惨なことになりそうだと再確認しました。実は、日本近代文学は、森鴎外「舞姫」以来、この課題を背負ってきたというのが私のおおざっぱな文学史観ですが、本当にこの脱出の方向で書かれたテクストの再発見、あるいは再評価、読み直しにすすまないと大変なことになると思っています。今度、メール討論は大岡昇平の「野火」ですが、これまでの主人公中心主義的な古風な読みを転換して、新しい読みが展開されそうですので、今から期待しています。われわれは文学史の先端に立っている自負と情熱をもってすすみたいものですね。  どうですか。少しぼけていますか。くすっと照れて笑っている後藤さん、そうですねといつも真摯に真顔に応じていただく綾目さんの顔が浮かんできます。一つ何かブログに書いてください。   前田角藏

   芥川神話の崩壊について  
 芥川龍之介の「鼻」を例に考えます。「鼻」は、禅智内供という坊さんが、「傍観者の利己主義」というものに出会うことによって、自分の異常な鼻に劣等感から解放されるという筋の物語です。これまで、「鼻」は、自分の鼻に過剰な劣等感を抱き、何とかしてそこから抜けだそうともがき苦しんでいる禅智内供をおもしろおかしく風刺した一種の滑稽小説、あるいは過剰な自意識の世界から解放される物語として読み取られてきました。しかし、「鼻」はそんな自意識をめぐるドラマなのでしようか。そもそも長い鼻は身体の障害に近いもので、その苦悩は笑いの材料にならない深刻なものではないかと私には思えます。そもそもそういう身体に障害をもった人々の苦しみを笑いのネタにする感性そのものが暴力に近いのではないかと考えています。
 禅智内供という坊さんは、「傍観者の利己主義」というものに出会うことによって、自分の異常な鼻に苦悩するのはばかげたことだと悟り、その結果、劣等感から解放されるという筋の物語だと紹介しましたが、他者、他人の評判、評価に怯え、翻弄されていた坊さんが、そんな他人の評判を気にしなくなるという話ですから、一見健康な境地を獲得する結構な物語ではないかと考えます。事実、そういうように思われてきたのでした。考えてみますと、これは、みんな他人は、「傍観者の利己主義」だときめつけることであり、一種の唯我独尊の世界ということにもなりかねません。なぜなら、他者、他人はいつも「傍観者の利己主義」者によって満たされているわけではないからです。人が不幸から抜けてしまうと残念だ、元のように不幸になればいいと願うような人もいるかもしれないが、しかし、そんな人は、ともかく全員ではないはずです。本当に人の悲しみに同情し、悲しむ人も多くいるはずです。こういうわけで「鼻」は一見、人間の歪んだ一面を見事に捉えたテクストのように思われがちですが、事実そういうふうにも理解されてきたのですが、そもそもそういうテクストではなく、それどころか、そこには身体の障害に悩む人を一種の滑稽として笑い飛ばす非情な感性が表出されていて、それこそまず問題にされるべきであったと今は考えることができるのです。芥川には、弱い、劣悪な立場にいる人々を愚弄するところがあり、それが最大の問題なのです。要するに感性的に言えば、芥川には、現在のいわゆる勝ち組の心理があふれているのであり、そこが最大の問題なのです。たしかに、禅智内供は自己の身体コンプレックスから解放され、はじめて幸せな気分を味わっています。しかし、その幸福感は、他者はみんな「傍観者の利己主義」者だという恐ろしい偏見によって生み出されているのであり、とても鼻を意気揚々と風になびかせる禅智内供の心は豊かであるとはいいがたいのです。
 どうして、それでは、こんな暴力的な、非人権的な読みが「鼻」においてこれまでされてきたのかと考えますと、そこには、主人公の意識中心的な読み方があったからだと思います。主人公の意識だけに着目すれば、たしかに、内供は、自己のコンプレックスから解放されたのです。しかし、意識ではなく実現された〈今、ここ〉の関係性の豊かさでテクストの価値を判定するとなると様相がちがってきます。〈今、ここ〉の関係性においてどういうものを実現しているかというその構築された関係性の豊かさでテクスト、作品の善し悪しを判定すると、「鼻」は、あまりにも貧しい世界しか獲得していないのだという評価になります。まあこんなに難しく考えないでも、ともかく、「鼻」を自意識に翻弄されてはいけませんよと単純に読む読み方だけはしてはいけないのではないかと思います。
 時代が変わればテクストの読み方、評価も違ってきます。もちろん、なんでも新しく読めばいいというのではありません。時代にあった人間的な読みを進めることが大切ということになります。大いに今までの古い人間的でない読み方に異議を提出したいものです。あるいは勝組的な感性でテクストを読む習慣から解放されたいものです。そこから新しい文学史を構想していきたいものです。    前田 角藏

 

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