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試想の会のブログです。
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 だいぶ前に高口さんから、ブログに何か書くように言われ、承諾の返事をしてそのうち書こうと思っていたのですが、いつのまにか夏休みも終わり、後期の授業が始まって、雑用に追われているうちに、つい忘れてしまってました。今日、フト思い出してブログを見たら前田さんが書いているので、ひとこと近況報告をしようという気になりました。
 みなさん、お元気ですか。高口さんは本を出されるとのことで、楽しみですね。前田さんの猛烈な仕事ぶりには圧倒されます。綾目さんはその後、例の城山三郎論の方いかがですか。ところで、前田さんの基調報告、プリントアウトしたときの厚さと重さには驚きました。ここで何か言い始めると、討論が始まってしまうので、やめますが、今年はどういう展開になるか、「破戒」出版101年目のEメール討論、充実させたいものです。
 わたしは相変わらずマイペースでやっています。この夏は、大江についてちょっと書いたり、辞書の項目を執筆したりしていたら、いつのまにか過ぎてしまいました。夏の終わりに附近の山をぶらついたり、安達太良に登って途中にある露天風呂を楽しんだりもしました。今年の紅葉は遅いようです。いま、このへんの山はようやく1500メートルぐらいまで紅くなってきました。前田さんの行かれた燧や尾瀬は草紅葉の時期ですね。そういえば、瑞牆山に登られたとのこと、学生時代に行ったときのことを思い出します。あの巨大な岩の突っ立っている様子は印象的でした。金峰山とセットで登った記憶がありますが、奥秩父のあの辺は落ち着いていいとこですね。では、また。  後藤康二
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大学院の演習で横光利一の「頭ならびに腹」と「蝿」をやりました。
そもそも新感覚派の「新感覚」とは何が「新感覚」なのか?というところから始めて、作品を読みながら、横光は近代になってもたらされた<身体>や<時間>の制度、ひいては西洋文化を批判していたのではないか、それが故に<反西洋=日本>という図式の中で戦争協力に走ったのではないかといったことを議論しました(・・・議論というよりは前田先生に教わってばかりですが・・・)。

いろいろ論文も読んでみましたが、横光のそういった側面に触れていたものは見当たりませんでした。もし、そういった点で触れられている論文があれば教えて頂きたいと思います。

今週は葉山嘉樹の「淫売婦」をやります。
毎週ひとり(登録している受講生は僕だけなので・・・。実際は現場から派遣されている先生が2名オブザーバーの形で受けておられます。)でレジュメを作って発表しているので大変ではありますが、いい勉強の機会だと思ってなんとかやっているところです。

11月は国語教育学会(岡山)と社会文学会(富山)に参加します。
本格的な学会への参加はこれが初めてですので楽しみにいています。
同じ年代の学生がどんな研究をしているか、特に気になるところです。いろいろ刺激を受けたいと思っています。

宮崎もずいぶん寒くなってきました。
皆様、風邪など召されませぬようご自愛くださいませ。
『試想』の会同人のブログです。 落ち着いたところで、久しぶりにブログでもと思ったのですが、頭のなかが空っぽの状態です。かわりに、先日(8日)に「種蒔く人」「文芸戦線」を読む会に呼ばれて、黒島伝治のシベリア物をめぐって話をし、そのまとめを書く機会がありましたので、そのまとめに加筆したものを載せたいと思いました。(おおよその内容は「試想」4号の「渦巻ける烏の群」論と重複することをお断りします)


日本の反戦文学の多くは、軍隊内部の抑圧構造を問題化できても日本の帝国侵略を被害者側から捉えることができず、帝国主義侵略戦争を問題化できなかった。対軍隊に対する被害者としての自分を描くことはできても、侵略されるアジアの民衆にとっての加害者としての自分を描くことができなかったのである。そのために戦後日本の反戦文学は反軍小説、反核小説、厭戦小説はあったにしても、日本の帝国主義侵略戦争の問題と正面から向き合ったとは言えない。
 それに対し、今日でも黒島伝治の反戦文学作品が重要なのは、「橇」(1927)や「パルチザン・ウォルコフ」(28)などの作品で、日本軍に侵略されるロシア人側の視点からシベリア干渉戦争を捉えたという点なのである。今日では常識化した方法のように思えるかもしれないが、「橇」でシベリアに連れてこられた下層日本兵士と、日本軍の部隊の移動のために橇を徴収されるロシア人と、双方からの視点で戦争を捉えたことは、たんに技巧的な問題と片づけられないものがあると思う。反戦文学の多くが侵略戦争を被害者側から捉えることができなかったのは、作家が自身に内面化されたナショナリズムに無自覚だったためである。逆に、黒島に侵略されるロシア人の視点を取り入れることが方法的に可能だったのは、ナショナリズムを超える視点を彼が持ち得たためだと言えるだろう。その契機として「反戦文学論」(29)に明らかなように、たしかに当時のプロレタリア国際主義の影響を無視することはできない。しかし「橇」や「パルチザン・ウォルコフ」がそのような公式主義的を免れているのは、作者に侵略されるロシア民衆の側に立ってリアルな視点で戦争を捉える想像力と感性――あくまで民族を超えて民衆の側に立ってものを見るという作者の民衆主義という信念あってのことだと言える。
 それを踏まえ、次の、黒島の代表作「渦巻ける烏の群」(27)を読むと、ロシアを侵略する帝国日本軍の下で抑圧されたもの同士である日本人下層兵士とロシア人との交流を語り、革命と戦争で疲弊したシベリアの民衆の生活を克明に語りながらも、ロシア側の民衆の視点が物語のなかで空白化されている点は異様に思われる。物語のなかのロシア人の視点の空白が作者の認識の限界ならば、逆に我々はこれをそれだけの作品として素通りすることができるだろう。しかし「渦巻ける烏の群」には、下層の日本兵とロシア民衆との直接の交流が語られ、革命と戦争によって疲弊したロシアの民衆の生活を凝視する作者のまなざしを見て取ることができる。帝国日本の権力という共通の〈敵〉を前にして、日本とロシアの民衆の連帯の問題に一歩踏み込もうとする作者の意図を見ることができるのである。
 しかしその「踏み込み」は、戦地に於けるロシアの民衆と下層日本兵との関係を凝視することに繋がっていったろう。それはロシア民衆にとっては下層の日本兵といえども侵略者にすぎないという帝国主義戦争の持つ、関係の非対称性、抑圧の重層構造を、作者により深く認識させることになったと考えられる。上官の恣意によって一部隊が無謀にも吹雪の中を出発し、シベリア雪原で遭難全滅するという悲劇的結末も、ロシア民衆にとっては喜劇でしかない。そういう意味で日本兵とロシア民衆との間の非対称性を隠蔽することによって「渦巻ける烏の群」の日本兵の悲劇はなんとか成立した作品だった。皮肉なことに、帝国主義戦争の現実への認識の深まりが、「渦巻ける烏の群」でのロシア民衆の視点の空白を生み出したと考えられるのである。
 おそらく黒島は、その隠蔽を倫理的問題として自覚していたからこそ、「パルチザン・ウォルコフ」では逆に日本軍、そして日本兵の犯罪性を正面から問題にしなければならなかったのであろう。イワノフスカヤ村民虐殺事件(19・2)に取材したと思われる、日本軍によるパルチザンの村民虐殺という戦争犯罪に向き合ったこの物語は、日本の反戦文学の傑作と言える。(それゆえに日本の読者のナショナルな意識によって葬られてきた可能性はありえる)しかしそこでもなお、厭戦的に侵略戦争批判に目覚めていく一兵士を登場させざるをえなかったところに、黒島の民衆主義の限界があったと思われる。黒島は民衆が加害者になるという帝国主義戦争の抱えた矛盾の前で、彼の依拠する民衆に対する肯定的な視点(それは民衆信仰とも言うべきものだが)を手放すことができなかった。そしてその裏返しとして、権力者である上官はつねに「悪意」を持った存在として描かれねばならなかったのである。
 このように黒島には、関係を構造として捉える視点が欠落しているという問題があった。そして民衆は本質的に善意の存在で、それゆえに被害者で、抑圧-被抑圧の関係が、権力者の「悪意」の問題としてしか捉えられないということは、逆に民衆が自発的に戦争に協力するというナショナリズムの問題を批判の視点、さらには民衆が独裁体制を支えるというファシズム批判の視点を作者から欠落させることとなった。そしてこれは1930年代の日本の軍国主義台頭期に、ナショナリズム、ファシズム批判の有効な視点を持てず、急進的かつ観念的にプロレタリア国際主義という「理想」を唱えるしかないという事態を招き、黒島を時代のなかで孤立させる原因になったのである。(しかし「穴」(27)では朝鮮人に対する差別的な視点があり、「氷河」(29)では偽札を遣うアメリカ兵に対する日本兵の敵愾心を作者自身が肯定的に題材化しているように、無自覚にナショナリズムに取り込まれてしまう危険性も黒島の民衆主義は宿していたことも確認する必要はあるだろう。)
 今日でも、大正時代を平和な時代として、失敗した帝国主義戦争としてのシベリア干渉戦争を「シベリア出兵」という呼称で歴史記述のなかで曖昧にすることこそ、ナショナリズムによる捏造なのだといえるだろう。日露戦争-シベリア干渉戦争-日中戦争と日本の帝国主義的膨張は連続しているのである。そのことを黒島の「シベリア物」と呼ばれる反戦文学は今日の読者に教えてくれる。(なによりも「パルチザン・ウォルコフ」は、シベリア干渉戦争が先取りされたベトナム戦争であることを告発している。)黒島の反戦文学は、その連続性――所謂帝国主義的膨張に対する文学的抵抗だったといえるだろう。黒島の反戦文学は日本の帝国主義と闘ったのであり、現在でも文学によって国民の共同の記憶としての歴史を批判し続けている。
 このような黒島の反戦文学の抱える可能性と限界は、その後十分検証されたとは言えない。その後の日本の反戦文学が黒島の作品を戦争認識に於いて超えているとは思えない。新たな戦争状況に陥っている21世紀の現在、黒島の反戦文学を現在の私たちの戦争認識、反戦意識の内実を照射するために、再び検証してみる必要があるだろう。

以上です。みなさんよいお年をお迎え下さい。
 この連休は、田舎の母が危篤状態になり帰省しました。奇跡的に持ち直してくれたので少し安心です。ただ、90歳になるので正直心配しています。
 東京では、4日、渋谷で、ドキュメンタリー映画「靖国」を妻と見ました。ものものしい警戒で、映画館の中にもガードマンらしき方が二人、前列に陣取るという具合でした。映写幕への攻撃を警戒してのものでしよう。ただ、そんな心配などどこふく風で映画はあっという間に二時間が過ぎました。映画は二組のドラマを交錯させながら淡々と進行していきます。一つはかって靖国で日本刀をつくったという90歳の刀工刈谷直治さんの日本刀制作と監督の対話で構成され、もう一つは8・15の靖国で繰り広げられる様々な光景です。軍服をきた人が英霊に哀悼の意を捧げる、また海軍の軍服をきて進軍ラッパをふき、天皇陛下万歳を三唱するといった、いわば60年前に一挙につれもどされたような感じの光景があるかと思うと、台湾で結成された高砂義勇兵の魂を靖国神社から取り戻そうとする台湾の人の行動が映し出される。一切のものが右や左から交差し乱れる。しかし、語り手は何もコメントしない。さまざまな靖国をめぐる言説、行動、記憶を集め、その錯綜する現場(映像)を観客に投げ出してくるだけだ。観客がどう考えるかにまかせている映画であり、それだけにかなり重い。個人的な感じであるがメディアで靖国の意味、あるいは思いこみをこれほど丁寧に伝えたものはないのではないか。それは中国人の監督だからこそできたことかもしれない。公平といってよいのかどうかわからないが、これだけ日本(人)の外から「靖国」が照らし出されると、靖国の問題に真正面からコミットしてこなかった戦後の日本人とは一体何者なのかが鋭く問われているような感じになる。たとえば、中野重治の「五勺の酒」にはアメリカによって戦死者の御霊をまつることを禁止された無念さが語られているが、私たちはこのこと一つをとってみてもどれだけ真剣であったかどうか疑問である。くにが戦死者の御霊に対してなんにもしてこなかった時、靖国神社は、この国際的力関係のいびつさの中で、認めるかどうかは別として、自分たちだけが英霊をお守りしてきたという思いがあるのだと思う。こういう人のいのちのねじれた扱いが残念ながらこの国にはあったことを知った上で遅まきながら戦争犠牲者への哀悼の意をどうするのか考える必要があるのかもしれない。
 いずれにしても反日的映画という攻撃がしかけられたが、この映画はそんなレベルをはるかに超えた映画であることはたしかなようだ。   前田角蔵


12月の掲示板に、「種蒔く人」「文芸戦線」を読む会で黒島伝治について報告したことを書きました。黒島の民衆主義の問題は、現在の私たちにとっても意外に根深い問題として残っているのではないか、そんな感じが払拭できません。同じことを繰り返しているのですが、自分としてはきちんと片付けたい気持ちがあります。これについて考えたことを述べさせてもらいたいと思います。その続きです。

 黒島の民衆主義の問題点は、吉本隆明の言うように民衆から遊離したということではなく、民衆の加害責任を問う視点を欠落させたことです。
 帝国の平和と自由を享受しているとき、帝国の内部にいる人間には帝国の抑圧、暴力は見えません。被害者としての他民族の視点から反照したときに自国の帝国主義は内部の人間に相対化できるものです。(内部矛盾を徹底的に弾圧し、また国外に転化して、国内問題を消去することで、平和で豊かで自由な社会の現出した80年代のバブル期は、帝国主義のひとつの表れだといえましょう。)そして、それが見えたとき、帝国主義的膨張を支える民衆=我々の欲望が問題となるはずです。
 ところが「民衆=善」という信仰は、帝国主義的膨張とは支配者の問題であり、民衆はその被害者に過ぎないということになります。「パルチザン・ウォルコフ」にはシベリアで略奪行為を働く民衆兵士の姿を語りながら、しかし彼らも権力によってそれを強いられている被害者なんだという思想が見えます。確かにそれは半面の真実だとは思います。しかしそうであっても「抑圧」をシベリアの民衆に暴行、略奪というかたちで転嫁した日本兵たちの、より弱者に向かった戦争犯罪の問題は看過しえないものです。暴行、略奪された被害者の側から言えば「民衆=被害者」という理由は、国内でしか通用しない理屈であることは言うまでもないことです。
 結果的に黒島は民衆の他民族に対する戦争犯罪の問題を物語の中から隠蔽してしまったといえます。なぜそうまでして黒島は民衆像を守ったのだろうかと考えると、自分も民衆の一員だという意識があったように、岸田秀風に言うならば民衆信仰が価値として彼の自我に組み込まれていたからです。それが民衆をリアルに見る目を黒島から奪ったのだと思います。結果的に黒島は日本の帝国主義戦争に対する批判的問題意識をもちながらも、民衆のナショナリズムの問題には踏み込めず、帝国主義とはたんに資本家の利己的な欲望によるものであって、民衆はその欲望の犠牲者にすぎないと、帝国主義に対するとらえ方を見誤らせることになりました。
 ただ誤解のないように言うならば、黒島を否定したいのではありません。私は戦前の軍国主義に傾斜していく中での黒島の帝国主義戦争批判を高く評価しています。水準の高いものであるために、逆にそれを貴重な反省材料として振り返る必要があると思うのです。この民衆主義と帝国主義観の誤りの問題は、一黒島の問題に留まらず、今日に至るまで日本人の思想的死角として私たちの歴史観とその延長としての現在を見誤る原因を作っていないかと思うのです。ヒューマニズムの限界でもあります。それは依然私たちを呪縛する、加藤典洋の言う「ねじれ」の問題です。戦死者たちへの追悼と日本の戦争犯罪の問題と、どちらかを取るとどちらかが否定されるという、この問題の本質には日本人が、とくに戦争を批判する側であった左翼の知識人がレーニンの「帝国主義論」などの外国文献によって歴史を理解してきただけで、実際に起こった事実として日本の帝国主戦争の問題をしっかり見据え、反省してこなかったということがあるのではないかと思うのです。
(なんて書くと批判したくなる人もいると思います。もし私の理解に誤解があればそれは素直に認めたいと思います。誤りについては教えていただければ幸いです。)

 

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