(承前)
このように戦争に対する人々の認識が大きな変化を遂げたことは、その後90年代に新自由主義史観と言った歴史修正主義が台頭したり、それに付随して小林よしのりのマンガ「戦争論」が話題になって一般読者の大きな支持を受けたことで明らかでした。
それに並行するように、ソ連の崩壊と東の社会主義体制崩壊にともなって、ユーゴスラビアのコソボ紛争、ロシアのチェチェン紛争、アフリカ各地の紛争など世界各地で旧ソ連の作り上げた秩序が崩壊し始めました。そして今世紀に入ると、2001年のニューヨークの9・11テロから始まる、アフガン戦争、イラク戦争といったアメリカ帝国主義主導の戦争が始まり、日本も態度決定が迫られる状況が生じてきました。
日本でもバブル崩壊以後、戦後体制の変革が叫ばれ、1992年にPKO法案が可決されて以来、99年には日米新ガイドライン関連法の可決、イラクへの自衛隊派兵の実現、というように「国際貢献ができる国」という名目で、ふたたび日本は軍事大国化を目ざしています。
それと歩調を合わせて、2004年春に東京都で卒業式に国歌斉唱を拒んだ教員が強権的に処分されたように、反動的なナショナリズムが再び息を吹き返しています。06年にはついに教育基本法が改正され、教育の中で愛国心教育が強制される事態になりました。翌07年には、防衛庁の省への昇格、憲法改正についての国民投票法が成立します。
現在でも8月になると戦争の「悲惨さ」を回顧するドラマやドキュメンタリーが放映されていますが、そのスタンスにも変化が見られます。近年は空襲を題材にしたものが見受けられますが、アメリカの戦争犯罪(無差別大量殺人)の告発に比重が移ってきているようです。その告発自体間違いだとは思いませんが、その一方で日本の戦争犯罪と向き合ったものはほとんどありません。そう言う意味で日本の社会が本当に半世紀前の戦争と向き合おうとしているのではなく、戦後体制を呪縛してきたアメリカ神話を批判することで、日本人のナショナリズムを喚起しアメリカと対等の「大国」となろうとする、戦前に回帰しようとする体制の目論見があることは明らかです。
90年代に体制の側から戦争の「悲惨な」記憶を継承することが言われ、新宿にある平和祈念資料館や九段の昭和記念館など、「戦時、戦後の労苦を偲ぶ」という資料館の設立が相次ぎました。少し以前なら「戦争体験を語り継ごう」という呼びかけは、戦争の記憶を隠蔽しようとする体制に対し、「革新」「護憲」勢力側で言われ続けてきたことでした。国語の授業でも「反戦平和教育」とは、戦争の歴史を隠蔽しようとする体制に対し、文学教材を通し戦争を絶対悪として戦争の悲惨さを学ぶことでした。ところが現在では当の体制側が「戦争の悲惨な記憶」を想起させようとしているのです。そこには「犠牲者を偲ぶ」「労苦を偲ぶ」という戦争の記憶の共有化によって、国民としての一体化を獲得するという体制側の目論見があることは明らかです。ほおっておくと戦争の記憶はどんどん国家に回収されていく状況が出来つつあるのです。だから戦争の悲惨さを学ぶという旧来の反戦平和教育がへたをすると生徒のナショナリズムを煽る、体制の目論見に吸収されてしまう危険性を持ってしまっています。
このように戦争観も戦争の記憶をめぐる政治的状況もこの二十年の間に大きな変化を遂げています。問題は戦争の「悲惨さ」を訴えるという戦後体制の中で培われた反戦平和教育が現在の状況のなかでほとんど効力を持ち得ないということだと思います。それどころか、逆にナショナリズムを煽る手段として体制側に利用されかねないという状況にさえなっているのです。国語教育も状況の変化に対応できず、反戦平和教育の有効な手だてが見出せないままです。ちょっと昔まで国語教科書には必ず戦争教材が収録されていましたが今では収録されていない教科書も珍しくありません。
このような事態のなかで私たちは軍拡、改憲を目論む権力や勢力のことを批判しますが、問題なのは社会のなかで憲法の平和主義がこのような現実に対して無力なほどに形骸化しているという事態ではないでしょうか。この一連の事態を私たち教育に携わっている者が真摯に受け止めなければならないのは、戦後日本で行われてきた反戦平和教育がここ二十年間の国家やマスコミの暴走に対してほとんど歯止めとならなかったという問題です。権力を批判しつづけることは重要です。その重要さを了解した上で、我が身の「正しさ」に寄りかかって、その「正しさ」の中身を振り返ることがなかったならば、結局事態は体制の思うようにしか進まないのではないかと思うのです。
なぜ戦後の反戦平和教育は90年代以降の状況に対して無力だったのか。現在の状況に対抗する新たな教育のあり方を構想することが緊急の問題となっている状況です。これまでの反戦教育のあり方を反省せずに「戦争=絶対悪」という論理にしがみついているだけでは人々はますます離れていくでしょう。自分もそれに携わってきた人間として、戦後の反戦平和教育のあり方について、その根本的なところから反省していく必要があるのではないかと思うわけです。(まだまだ続く。これからが文学の問題です)
〔高口智史〕
追伸 僕ばかり書いてすみません。職場で大きな仕事から今解放されてやっと一息ついたところです。書かずにはいられない気持ち、大目に見てやってください。後藤さんや綾目さんにも言ってみます。
2001年のニューヨークの9・11テロ以降、21世紀の世界情勢は非常に混沌としたものになってきました。こんなに世界は騒然としてきているのに「反戦平和教育」というと、現在「死語」のようになってしまっている観があります。
ところで授業で戦争教材を取り上げて生徒に感想を求めると、毎回「戦争は悲惨だ」「二度と繰り返してはならない」「こんな時代に生まれなくてよかった」と言った、判で押したようなコメントしか出てきません。なにかこちらの気持ちだけが空回りして後味の悪い結果だけが残って終わります。多くの教育現場で私のような徒労感を感じている人はたくさんいると思います。これは教壇に立つようになって以来、ずっと感じてきたことですが、私の怠慢で問題を何も掘り下げず今日まで来てしまいました。しかしその反面、状況は大きく変わっていきました。
私が教職についたのは1980年代中頃の、バブル景気の真っ直中です。「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という本と言葉が流行したように、日本の「平和」と「繁栄」を招いた戦後体制の完成期として、日本人が〈戦後〉に自信を持っていた時期だったといえます。ですから平和教育の問題をめぐっても、私が70年代に受けた教育をそのまま生徒にしても、そのことに特別懐疑するということもありませんでした。
そのような状況が変わっていくのが90年前後です。米ソの冷戦体制の崩壊と日本のバブル崩壊とが前後して、1991年には湾岸戦争が起こりました。2001年の9・11テロですっかり記憶の彼方になってしまいましたが、私にとっては91年の湾岸戦争は旧来の戦争観を覆す大変衝撃的な出来事でした。
戦後、巧妙な情報統制が敷かれたことを私たちは知ることになりますが、湾岸戦争が行われているとき、テレビ報道を見ていた私(「たち」と言ってもよいと思います)は、「敵地」のバグダットからテレビ中継されたり、ミサイルに小型カメラが搭載されて目標の軍事施設に正確に命中する様子を見て、テレビに映し出された戦争像が、私たちのイメージにある戦争とはずいぶん違っているのに戸惑いを感じたのでした。なによりテレビの映し出される、ハイテク機器のオンパレードのような〈戦争〉は、私の中にある、そして私が授業で教えている戦争像とは違って、ちっとも「悲惨」ではなかったのです。
それまでなぜ戦争はいけないのかと、親たちから教えられてきたか、そして私が生徒に教えてきたかというと、それは戦争は「悲惨」だったからです。しかし、建築物など破壊されるにしても、目の前で流血のない「悲惨」ではない戦争が行われている。このことはそれまで教えてきた戦争批判の根拠を大きく揺るがせてしまうわけです。
もちろんアフガン、イラク戦争で一般市民を巻き添えにして多くの犠牲者が出たことは言うまでもありません。しかしそのような戦争の〈現実〉はメディアによって巧妙に隠蔽されてしまっています。今日戦争批判するということは、メディアの報道する「見える事実」に批判的に向き合い、その向こう側を想像するという困難を要求されているのです。
また当時、湾岸戦争が生徒にどのように映っているのか、戸惑いの感覚をもったまま授業で訊いてみました。バブル崩壊前夜でしたが、その予兆はなんとなく感じていましたから、今回のような戦争をすることで現在の景気が維持されるとすると、する方を選ぶか、それとも生活水準は下がるにしても平和な社会を選ぶか、何人かに意見を聞いた後、どっちを選ぶか手を挙げてみさせたのです。(そこには戦争をするのは自衛隊の人たちだけで、という条件も付けました)そうしたら半数以上の生徒が戦争賛成に手を挙げました。当時の高校生(現在の30代半ばの人達)にとってすでに戦争は絶対悪ではなくなっていたのは大変な驚きでした。(続く)
〔高口智史〕
前回の「夢十夜」ー「第一夜」異論の続きです。
自分はこう云う風に一つ二つと勘定して行くうちに、赤い日をいくつ見たか分らない。勘定しても、勘定しても、しつくせないほど赤い日が頭の上を通り越して行った。それでも百年がまだ来ない。しまいには、苔の生えた丸い石を眺めて、自分は女に欺されたのではなかろうかと思い出した。(太字は本文)
問題はこの男が女のメッセージをどのように受けとめたのかということですが、語られているのは、永遠の愛と復活の象徴で充たされた時空のなかで、男は女の依頼を従順に遂行しているということだけです。死んでも女は男に自分を忘れぬように様々な愛の象徴を用いて精一杯のメッセージを送っていますが、男はその意味を理解しているようにも見えません。100年が来るのをただ日を数えて待っているだけです。だから女に対する疑念が生じるのです。
すると石の下から斜に自分の方へ向いて青い茎が伸びて来た。見る間に長くなってちょうど自分の胸のあたりまで来て留まった。と思うと、すらりと揺ぐ茎の頂に、心持首を傾けていた細長い一輪の蕾が、ふっくらと弁を開いた。真白な百合が鼻の先で骨に徹えるほど匂った。そこへ遥の上から、ぽたりと露が落ちたので、花は自分の重みでふらふらと動いた。自分は首を前へ出して冷たい露の滴る、白い花弁に接吻した。自分が百合から顔を離す拍子に思わず、遠い空を見たら、暁の星がたった一つ瞬いていた。
「百年はもう来ていたんだな」とこの時始めて気がついた。
「すると」という接続詞があるように、男が「自分は女に欺されたのではなかろうかと」女の愛に疑念を抱いた瞬間です、突然石の下から茎がするすると伸びてきて、真っ白な百合の花が男の目の前で咲きます。そしてその花は「鼻の先で骨に徹えるほど匂」います。さらに空から「露」が落ちてきて、男は「露の滴る、白い花弁に接吻」するわけですが、注意しなければならないのは、男のこの接吻は男の内部では女と何も関連づけられていないことです。なぜなら男が「百年はもう来ていたんだな」と女の存在に気付くのは「暁の星」を見た時だからです。(「この時始めて気がついた」)
男が女への愛への疑念を抱いて「暁の星」が瞬くまでの結末までの一連の流れは、活字だとなかなかわかりにくいのですが、ものすごくスピーディーです。(アニメにでもしたらこの場面の印象はずいぶん変わるのではないでしょうか。面白いと思います)それに対し、ここでも男の気づきの遅さは対照的です。
この場面に登場する「百合の花」や「暁の星」も聖母マリア(純愛)の象徴であることは明らかです。この「露」は何かというと女の涙でしょう。なぜ女は涙を流したのか、それは男に女の愛への疑念が兆したからです。女はここでも彼女の愛の情念を象徴を通して強く訴えています。男に疑念が生じた途端、女は慌てて百合の花に化身して芽を出し、花を咲かせ、さらに「骨に徹えるほど」の芳香を放ち、「私はここにいるのよ」とばかりに強烈に自己の存在をアピールし、さらには空から「露」を落とし男に兆した疑念への悲しみを訴えます。男の疑念に対し、むしろ大いに焦った「人間らしい」女の姿さえかいま見えます。
死んで言葉を失った女は、様々なモノを通して切々と男への変わらぬ愛と復活を訴え続けてきたのですが、しかし残念ながら男は何も女のメッセージに気づいている様子はありません。女がこれでもかこれでもかと愛と自分の存在を訴えかけるのに対し、男は、最後に「暁の星」を見てやっと「百年はもう来ていたんだな」と女の復活に気づくのです。
この物語で際だっているのは、懸命に自己主張する女と、それに気付かない鈍感な男との意識の〈滑稽な〉すれ違いでしょう。男と女は愛し合っていないのではありません。ただ「愛してる」という女のメッセージが男に伝わらないだけなのです。私はこの二人の齟齬にこそ「第一夜」のメッセージがあると思います。
なぜ二人の意識がすれ違ってしまうのか。女は死ぬことで言葉を失い、代わりにキリスト教の象徴を通してその永遠の愛を伝えようとするのですが、男はキリスト教という精神文化を共有していないために女のメッセージがわからないからです。
このように「夢十夜」第一夜はロマンチィックな男女の愛の物語とは違うのではないか。これをどういうアレゴリーとして読むのかは自由ですが、すくなくとも永遠の愛のアレゴリーにしてはとぼけた話のようです。私はこの物語を、日露戦争に勝利して西洋化に成功し、一等国になったと有頂天になっている日本人を批判したアレゴリーなのではないかと思います。つまり西洋化に成功したと思いこんでいるが、西洋とのコミュニケーションはその深いところでは大きな亀裂があることに日本人は気づいていないということを揶揄しているのではないか、そういうふうに読みます。
横文字の思想家の名前を本のタイトルに並べてありがたがる風潮は、今になっても変わりません。これではロマンチィックな幻想譚が台無しですが、こう読めてしまったのですからしょうがありません。(高口)
前田先生もお元気そうでなによりです。しかし連日大企業が千・万人単位でリストラを発表しています。ひどい社会です。イタリアに行ったから調子にのっているわけではないですが、私たちが自然に思っていた価値が如何に日本でしか通用しないものか実感しました。前田先生のいう「一国主義的な価値」を日本で言うことがなぜ問題なのか、それは日本では国民の間で共有されている価値が、如何に一国主義的なものか相対化されることがないというところが問題なのだということだろうと思います。
高校生と話をしていると、世間のなかで形づくられた彼らの社会観、人生観を揺るがすことが困難かということで日々実感させられます。真面目にコツコツと勉強する、働くということが侮蔑され、「清貧」がたんなる「ビンボー」で惨めでしかない。勉強も、それは自分が出世する手段でしかないというエゴイズム、できなくてもなんとかなるさという何の根拠もない楽観主義が支配しているこの社会(だから現実に直面したときのショックは大きいです)は、おかしな社会です。まさに新興宗教の世界です。私ですらあんな短い時間でそういうことを感じたのですから、明治に海外体験をした漱石、鴎外、荷風らはもっと深刻だったのでしょう。
ところで1年生の授業で夏目漱石の「夢十夜」の「第一夜」をやりました。この作品は指導書を見ると男女の永遠の愛が成就するロマンチィックな物語として読まれているようです。私もこれまでいろいろ論じられてきたように、それこそ漱石のかなわぬ恋の幻想的な夢の物語ではなかろうかと思ってきました。しかし一つだけ引っかかることがありました。愛の成就の物語と読むとすると、他の夢が文明批評的な寓話であるのに対して、この「第一夜」だけが異質な物語として挿入されていることになるからです。そういう引っかかりをもとに考え、また男女の永遠の愛の成就の物語では生徒にちょっとインパクトが足りないと思い、第一夜の表現を再度検討していったところ、まったく違った物語の姿が浮かび上がってきました。ちょっと自分でも面白いなと思ったのでブログに載せてみることにしました。
この物語で不思議なのは、「もう死にます」と男に別れを告げる女の枕元にいる男が、「これでも死ぬのか」と女の死を実感できないという点です。男は「とうてい死にそうには見えない」と言い、女が「もう死にますとはっきり言」うと「たしかにこれは死ぬな」といったん思うものの、女の「透き通るほど深く見えるこの黒目のつやを眺めて、これでも死ぬのか」と思い、「死ぬんじゃなかろうね、大丈夫だろうね」とききかえす。また「じゃ、私の顔が見えるかいと一心に聞くと」、女は「見えるかいって、そら、そこに、写ってるじゃありませんかと、にこりと笑って見せ」る。それでも男は「腕組をしながら、どうしても死ぬのかなと思」う。
この冒頭場面では、女が死に直面しているのに対し、男はアホなくらいそれが実感できません。二人の意識のすれ違いが際だっています。愛し合っていないわけではないのに、最後まで二人の感覚がぴったり噛み合わない――この齟齬がこの物語の基調をなしています。
死の間際、女は男に遺言します。「死んだら、埋めて下さい。大きな真珠貝で穴を掘って。そうして天から落ちて来る星の破片を墓標に置いて下さい。そうして墓の傍に待っていて下さい。また逢いに来ますから」と。そして女の死後、男は遺言通りに「大きな真珠貝で穴を掘って」、「天から落ちて来る星の破片を墓標に置」きます。さらに穴を掘るとき「土をすくうたびに、貝の裏に月の光が差してきらきらした」、土を「掛けるたびに真珠貝の裏に月の光が差した」と、「月の光」が強調されます。
これら女の指示した「真珠貝」「星」、そして墓標に差す「月の光」などここに溢れているのはキリスト教のシンボルです。「真珠貝」「星」「月」――これらはすべて聖母マリアの象徴であり、純粋な愛、真実の愛を表すものです。女は自分の死後の空間を、愛の象徴で埋め尽くそうとするのです。埋め尽くそうとするだけではありません。男に「大きな真珠貝で穴を掘」り、「天から落ちて来る星の破片を墓標に置」くことを命じて、同時に男に永遠の愛を確認させようとするのです。
そして「墓の傍に待っていて下さい」「百年、私の墓の傍に坐って待っていて下さい。きっと逢いに来ますから」と言う女の願いが、男との永遠の愛の契りたいという女の切なる願いを表していることは言うまでもありません。
そして女を墓に埋めるとき「きらきら」差す「月の光」が、「永遠に私はあなたを愛する/永遠に私をを愛せ」という女の両義的なメッセージだと言えましょう。
そしてそのようなコンテクストで考えれば、毎日東から西へ上っては落ちる「太陽」が女の復活を意味していると考えてもおかしくありません。
このように考えていくならば、男は女の死後も女の意志の支配する象徴空間で待ち続けることになります。女が毎日永遠の愛と復活のメッセージを発しているとするならば、女は死後もこの男の待ち続ける時空を支配しているのです。つまり女はどこに行ったのでもない、〈ここ〉にいるのです。にもかかわらずなぜ彼女がいなくなったのかというと、それは「待っていられますか」と女の言葉に明らかなように、男の愛を試すためなのです。 (続く) 高口