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試想の会のブログです。
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 先生の文章を読んで、なるほど、という思いです。
 テクスト論の流行と衰微は、日本の知の根本的な問題のひとつの象徴(=深いところまで理解しないで、うわべだけをすくいとって利用してしまう)、というふうに理解しましたが、そういうことでしょうか?・・・と、質問してしまうと、ブログで永遠に問答が続いてしまいますね(笑)いずれにせよ、僕にはそこまで踏み込んでお答えする力はまだまだありませんので、他の答えを僕も待ちたいと思います。

 さて、<複雑系>の話です。複雑系の概念は、文学とか社会学の分野に入ってきているわけではないので、そこで人間の問題や「関係」あるいは「構造」の問題が議論されているわけではありません。もしかして今後そういう議論があるかも分かりませんが、今は、僕が勝手に使わせてもらっているだけです。ただ、それこそ僕は<複雑系>をしっかり理解しないまま、その都合のいいところを使っているので明らかに問題なのですが、ちょっとそこはお許しいただきたいと思います。以下、先生の文章を拝読しての補足を述べたいと思います。補足というより、まるっきり言い直しになってしまうかも分かりませんが・・・。
 僕があまりにも思いつきで、考えながら文章を書いていたので支離滅裂になって結局僕のいいたいことはまったく伝えられていなかったように思います。僕は、実は<主人公中心主義>との関連で<複雑系>の考えを述べたかったのですが、ちょっとあれこれ言い過ぎて、話が散漫になってしまいました。テクスト論の議論を離れ、国語教育への問題提起として読んでいただきたいと思います。

 <複雑系>について補足すると、「複雑なものを複雑なまま理解する」以外に「全体として秩序が起こる」というのがその概念のイメージです。イワシの大群が全体として同じ向きに泳ぐのがその典型です。イワシ一匹一匹は個別に動いているのですが、同時に全体として個になって動いている。あれが複雑系のイメージです。
 作品は、登場人物の心情や行動、情景描写など、いろいろな要素が複雑に折り重なって構成されています。つまり、それらの要素は複雑にそれぞれの方向をもって運動していながら、しかし作品世界として秩序をもっているわけです(この「秩序」という言葉がまた厄介ですが、ここでは、作品の始まりから終わりへの方向性くらいに理解していただければと思います)。しかし、実際に作品を読む場合、そういった作品のもつ複雑さは無視され、特に学校教育においてですが、読解は主人公の言動や心情の読み取りという一点に特化されています。前田先生の言うところの<主人公中心主義>です(その結果とし、主人公が他の登場人物とどういう関係を結んでいるか、などの<関係性>が無視され、加えて、語りのもつ抑圧や排除の問題が見えなくなっている、というふうに理解しています)。前の記事で述べたように、それが、僕には、化学の分解イメージと結びついているのです。主人公を他の登場人物から切り離し、特権的に扱い、ばらばらにして、それで作品を読んだ気になってしまっていたのが、これまでの国語教育の作品読解ではなかったかと思ったのです。そういう読みでは、作品をひとつの有機的世界として読んだことにはならないだろうと思うのです。「作者の言いたいことは何か」とか「作品の大意は何か」という終着点に読みが収斂してしまうことは、結果的に、作品のもつ複雑さを解消させ、作品のもつ立体性を失わせることになると思うのです。
 もちろん、なんでも複雑に読めばいいというわけではないとは思います。実際に複雑であるのか、という点も考える必要があるとは思います。複雑に読みすぎて、結果、作品を見失ってしまっては下も子もありません。しかし、テクスト論などの手法を用いて作品を読むことは、少なくとも、字面に現れた主人公の意識を読み取るだけの表層的な読みよりは、作品を複雑に読むことになると思います。ですから、作品の世界を深く読むためには(その行為を作品の複雑さを読むと言っていいならば)、間違いなくテクスト論を用いた読みが必要だと思うのです。ですから、テクスト論については、高口先生がおっしゃるように、その知的磁場の問題も含めてよく議論するべきだと思います。いずれにせよ、作者に返ってしまう読み方は、あってはならないと思います。
  先生がご指摘になったように、「複雑なものを複雑なまま理解する」というのが作品の読みへの反省ではなく、認識の問題になってしまっては、結局それは作品を「理解できる」という絶対的な立場に立ってしまうことになります。僕は反省の意味で述べたつもりでしたが、誤解を招くような書き方でした。「訓練が必要」と言ったのは、上に述べたような国語教育との関連でのことです。たとえば、小学1年生に「作品を複雑に理解しよう」と言っても、それは無理な話です。最初は主人公中心的な読みだとしても、それは致し方ないとも思います。しかし、ずっとそれではまずい。発達段階にあわせて、徐々に作品のもつ複雑さを読み取っていけるように練習していく必要があると思います。それで、最終的には、作品のもつ複雑さを理解し、しかし、決してそれで作品を理解できたというふうに思い込まず、むしろその複雑さを作品のもつ豊かさとして感受できればよいのでは、と思っています。複雑さを読み取るためには、先に述べたようにテクスト論などを用いる必要があると思います。しかし、テクスト論、あるいは<行間を読む>という力をつけるには相当な訓練が必要だと思うのです。そういう意味で「訓練」が必要だと思います。いわば、読解の練習です。しかし、練習のために作品を消費するのではなく、作品と向かいあうなかで自然にそれができればと思います。
 
 ところで、ここまで書いてきて、作品の<複雑さ>の中に、作者のイデオロギーの問題まで含めるのかということは考えないといけないなと思ったのですが、僕は、含まれると思います。ただ、それも複雑なものとして処理してしまうと、結局イデオロギーの問題は隠れてしまうように思うので、<複雑系>は作品への姿勢としては不十分に思えてきました。こんなに自分で力説して、最後には否定してしまうことになろうとは・・・(苦笑)
 僕の説明の不十分だったところは、これで少しは足しになったでしょうか?


またまた、まったく関係ないのですが、動画投稿サイトのYoutubeに安部公房の映像があったので載せておきます。ご覧になる際はURLをクリックしてください。
http://jp.youtube.com/watch?v=4v7X0flH1dU&NR=1
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 早速、コメントありがとうございました。
 テクスト論は異端とは感じられないとのことでしたが、文学研究者の問題について述べたのは一つの具体例です。僕が言いたかったのは、テクスト論の持つ民主性?というようなものを、歪めたり排除してしまう日本の知的磁場の問題があるぞといいたかったのです。これは学問の問題にとどまらず、教育とは無関係な問題ではなくて、むしろ現場でテクスト論を展開することは(「十人十色の読み」)、正解主義と闘うことですから(しかも正解主義は僕の中にもずいぶんと浸透していますから)もっと厳しい問題としてあるのです。ちょっと言葉が足りませんでした。
 また黒木さんから「どうでしょうか」と振られたので、今度は返事をしなければなりませんね。〈複雑系〉ですか。聞いたような、ないようなことなので、それについては何ともいえませんが、「目の前の人間をありのまま受け入れる」「簡単に相手を切り取らないということ」ならわかります。でも「関係性の読み、構造的な読みといったものは、「複雑なものを複雑なまま理解する」という考えに近いような気がします」というところは、ちょっと違うかなという感じです。
 僕も前田先生からずいぶん教えてもらった人間ですが、「関係性」や「構造」がどういうものなのか黒木さんと前田先生の正統性を争ってもしかたがないので(笑)、僕なりの理解を述べさせてもらいます。
 「関係」や「構造」という言葉を使用するとき、それはたとえば作品を客観的に分析するということではなくて、そこには「評価」の問題が入ります。つまり「関係」や「構造」といったとき、そこには必ず抑圧や排除の問題があって、それを明らかにすることが「関係」や「構造」を読むということになります。
 作品には、語り自体が社会の抑圧や暴力を告発している(プロレタリア文学のように)見えやすいものから、語り自体が誰か(何か)を隠蔽排除して(たとえば「羅生門」の老婆を)見えにくいものもあります。
 では語りが権力を告発しているからいい作品なのかというと、それが何かを隠蔽していたりします。たとえば石川淳の「焼跡のイエス」は戦災浮浪児を題材としながらも、彼らを作者の思想的関心から都合良く捉えているだけで、現実の戦災浮浪児の存在を直視しているわけではありません。ブログにも書きました「渦巻ける烏の群」は日本兵の悲惨な現実を語りながら日本の支配階級の暴力性を告発していますが、日本の支配階級の「被害者」である日本兵によって占領、抑圧されているシベリアの民衆の視点は語りの中から排除されていました。(登場人物の日本兵は、シベリアの民衆と敵対しているという意識もありません)
 だから文学の場合、作者が既成の人間解放のイデオロギー(たとえばマルクス主義、フェミニズムなど)に立っているからいいかというと、そこには本人の自覚しない人間観の歪みが表現されてしまいます。ですから読者の前には、作品世界がフラットなかたちで読者に開示されるわけではなく、語りの権力構造によって見えたり見えなかったりするために、作者のイデオロギーで大雑把な切り方をするのではなく、緻密な語りの構造分析が必要とされるわけです。作品の構造分析とは、ひとつには語りのイデオロギー分析なのだと理解しています。
 そこから〈複雑系〉の話に戻ると、どうしても人間は自分の関心や興味のないところは、目の前にあっても見ないというところがあります。「<ゆらぎ>や<あいまいさ>というのを否定的なものと捉え、肯定的に受け入れようとはし」ないという、そういう自分たちが陥りがちな偏見に対する反省、戒めとして「複雑なものを複雑なまま理解する」という姿勢はわかりますし、とても大切なことだと思います。しかし「複雑なものを複雑なまま理解する」ということが反省ではなく、認識能力の問題になって、「複雑」さという「ありのまま」の真実を捉えることが可能だというならば、それはテクスト論とは本質的に違うのではないかと思います。また、なにか「絶対矛盾の自己同一」なんて言葉をイメージしたり、「複雑なものを複雑なまま受け入れるには相当な訓練が必要だという気はしています」というと、「修業によって曇りなき認識を得る」そんな感じを抱いてしまいます。
 また「複雑」さをフラットなものと見てしまうと、逆にそれは抑圧や排除を見て見ないことになりはしないか、そんな感じもいだきます。〈複雑系〉についての知識がなく、黒木さんが書かれていることからしか判断できないので、断定的なことは述べることができません。その〈複雑系〉のなかで、人間の視点の問題や僕が述べた意味での「構造」や「関係」の問題はどう考えられていますか、教えてください。(高口)

 前田先生から高口先生が記事を書いているので読んで、それに応えてみなさいと言われて、いま読んだところですが、先生がわざわざ読みなさいとおっしゃった意味がわかったところです。本当なら、コメント欄に書けばよいのですが、ちょっと長くなりそうなので記事として書きたいと思います。

 その前にひとつ。記事を復活させたのは実は前田先生です。前田先生が昔の記事のデータを偶然に保存していらしたようです。これで前田先生も消してしまった罪の意識から解放されたことでしょう(笑)

 さて、本題ですが実は僕も最近、高口先生のように文学研究の手法やあり方、歴史的背景を自分なりにまとめたところでした。といっても、国語を勉強している後輩の学部生向けにまとめたもので、先生の書かれたような問いかけは含んでいません。もっと初歩的な、テクスト論って何?語り手論ってどういうこと?バルトって誰?というようなものです。多くは前田先生から学んだことですが、そこに僕自身が勉強したことを少し加えてまとめました。
 なぜそのようなことをしたのかと言うと、僕は前田先生の講義でティーチング・アシスタントという役割を与えられているのですが、ティーチング・アシスタントとは学部生の勉強の手助けをするのが仕事ですので、少しでも前田先生の講義が分かりやすくなれば、と思ったからです。僕自身、前田先生の講義は学部生のときに受けており、他者論やテクスト論、語り手論のお話はちらほら聞いてはいましたが、正直なところ講義を受けただけでは理解しきれていませんでした。文学部でもありませんし、講義の中ではそこまで深く文学理論を勉強することはなかったのです。僕は、その後前田先生のゼミに入り、卒論を書く頃にやっとテクスト論や語り手論のおおまかなことが分かったくらいでした。それで、学部生のときに簡単にでもテクスト論や語り手論といった文学理論を知っていれば・・・という思いがあったのです。それに加えて、教員養成課程ということもあり、先生になったとき、教育実習のときの教材研究のために多少の文学理論は知っておいたほうが役立つだろうし、知らないまま教師になるのはいかがなものかという思いもありました。とにかく、そういう僕なりのいろいろな思いがあったのです。
 僕は、高口先生がお書きになったようなことを運よく直接に前田先生から学ぶことができたので、そういう研究のありかたが当たり前だと思っているところもあり、正直、テクスト論が<異端>なのかという問いに対して、「え?そうなんですか?」と逆に問いかけてしまうような感じであります。つまり、僕にとってテクスト論は<異端>ではないというのが答えになってしまうので、僕がお答えしたところであまり意味はないものと思われます。
 
 話はまったくかわってしまいますが、僕の今の関心は、文学研究と<複雑系>にあります。複雑系というのは、僕もあまり詳しく知っているわけではないのですが、数学の分野で起こった考えかたで、端的に言えば「複雑なものを複雑なまま理解する」ということのようです。そういう考えが起こってきたのには、実は化学の研究手法への限界と反省があったようなのですが、それは、今までとにかくモノを小さく分解することを中心にやってきたことへの反省です。モノは分子で出来ていて、分子は原子で出来ていて、原子には原子核があって・・・というような具合に、とにかく分解して小さな要素に分けていくのが化学の基本だったわけです。ところが、それでは解決できない問題が出てきた。「天体の三体理論」というのがその典型のようですが、詳しくは池谷裕二『進化しすぎた脳』をご覧ください。とにかく僕は、この本を読んで<複雑系>の概念に出会ったとき、それが前田先生のおっしゃる<主人公中心主義>の概念と急速に結びついたのです。主人公の心理や性質を細かく分析していくことで、その主人公のみならず、ひいてはその物語全体さえ分かったような気になっていたのではないかと思ったのです。その段階で、さらに<関係性>の理論が頭をよぎりました。関係性の読み、構造的な読みといったものは、「複雑なものを複雑なまま理解する」という考えに近いような気がします。多面的、多層的といってもいいかもしれませんし、いろいろ言い方は出来ると思いますが、文理を問わず、知の体系の全体的な流れは分解主義・個別主義から複雑主義・関係主義への向かっているのだということは確実だろうと思います。
 しかしながら、「複雑なものを複雑なまま理解する」というのはそう簡単には出来ないことだと思います。具体と抽象、マクロとミクロ、部分と全体・・・それらのはざまに存在しているのが<複雑>なわけですが、そういうはっきりしない部分というのは、人間が根源的に嫌う部分でもあり、多くの人は<ゆらぎ>や<あいまいさ>というのを否定的なものと捉え、肯定的に受け入れようとはしません。そういうわけで、複雑なものを複雑なまま受け入れるには相当な訓練が必要だという気はしています。ですから、そういう力を学校教育や文学教育でどう養っていくのか、というのが僕の次の課題になります。採用試験前で、あまりラディカルな発言をするのは怖いのですが(笑)、少なくとも今の教育のあり方では難しいだろうと思います。教育課程全体を考え直す必要もあるかもしれません。まだそれは考えている最中です。
 複雑なものを複雑なまま理解するというのは、人間にも言えることで、目の前の人間をありのまま受け入れるというような考えにつながるものでもあると思います。そしてそれは、簡単に相手を切り取らないということであり、他者論にもつながっていくものだと思います。「この人(あるいは作品)が分かった」と思った瞬間、我々は神になってしまうというのは前田先生から良く言い聞かされている話ですが、今はそれが身にしみて分かるような気がします。
 まとまりのない文章になってしまいましたが、僕は今こういう考えをもっているというのを以て、高口先生へのお答とし、また、僕のこういう考え方はいかがでしょうか?という問にしたいと思います。(黒木豪)

 「試想」の論文が書けずに悪戦苦闘していたのでブログの方、本当にご無沙汰していました。あまりブランクが大きいので、黒木さんが頑張って昨年のものを復刻してくれています。せっかくホームページを作ってもらったのに申し訳ないと思いつつ今日まできてしまいました。「試想」ももうすぐ6号が出ます。これからは少しずつまた文章を書いて載せていきます。

 最近、作家をめぐる緻密な実証研究をもとに作品を読む傾向が増えてきたように思います。ひところのカルスタ研究が隆盛だったときのように作品を恣意的に読む人は減ってきたようですが、ではどう作品を読むかという問題について、かつて記号論、構造主義が日本に入ってきたときに議論されたような読みの方法論をめぐる論議はすっかり消えています。かつてテクストか、作品か、などと盛んに議論されましたが、記号論、構造主義、テクスト論、受容理論、ポリフォニーの問題、語り手や視点の問題など、文学作品の構造をめぐる議論や問題意識は、現在の文学研究に消化されたのではなく消えてしまっているように思います。あの作品の構造分析をめぐる議論はもう時代遅れなのだろうか?つい誰かにきいてみたくなるような状況です。
 R・バルトは「作者の死」を宣告しました。日本でテクスト論が隆盛の頃にそれが盛んに援用され、作者は無視して読むのが自由なのだと思われた時期がありました。(いまだにそういう人がいますが)バルトのテクスト論は、テクストは記号として豊かな意味産出機能をもち、その意味・価値は読み手と作品との関係(読書行為)のなかに発生するもので、作品に内在するものではないという考えです。そこから作者の意図に還元する読みが否定されるわけですが、しかしバルトが作者還元的な読みを批判したのは直接作者そのものというよりも、それ以上に研究者が作者についての知識を独占し、作者の代理表象(作者という「真理」を研究者が代理するわけです)として作品を支配するという、その権力性の問題だった、というように理解しています。(記号論、テクスト論の革命性、日本に於ける思想的に骨抜きにされた恣意的解釈の問題については、「試想」誌上で前田先生がたびたび言及されていて、それを参考にさせてもらいました。)
 ところで日本では、作者の意図に還元することは語りの戦略にはまることだからダメだ、ということで、作者は無視してもいい、無視することがいいのだというふうになりました。そこで起こった事態はバルトの主張とは正反対の、読み手(研究者)の絶対化という現象だったわけで、作者の権力性を批判しながら、なんのことはない読み手である自己の権力性に対する自意識を欠落させていたのが日本のテクスト論の最大の問題だったと思います。
 結果的に読みのパフォーマンスは、文学に何らかの意味を見いだそうとする読者にそっぽをむかれて文学離れを加速させただけだったようです。また文学研究でもテクスト論は衰退していきましたが、それは研究スタイルが飽きられただけで、思想・方法としてどこが問題だったのかという反省があったからではありませんでした。
 その後、読みのパフォーマンスに飽きて、堅実な文学研究の必要性を感じてきた人たちに復活してきたのが、作者の伝記的事実や社会的背景を詳細に調べ作品を意味づけるという作者還元的な研究スタイルです。しかしそれはバルトのテクスト論が批判した地点に戻っているだけです。
 また少しでもそれまでのポスト・モダニズムの影響の下で文学研究を意味づけようとした人々は、カルチュラル・スタディーズの影響から、作品そのものではなく文学作品を権威化させる社会的な場を問題にしていきます。B・アンダーソンの国民国家論などの影響から、文学は国民国家に於いて国民統合の機能を果たすという権力作用を文学観の前提にしており、「作品の中へ」という視点は最初から排除されていました。
 現在でも、依然として文学研究の動向は記号論、テクスト論を顧みる気配はみえません。日本に於いてはやはり一過性の「流行」にすぎなかったからだとも言えます。
 しかしそれだけでないのではないか。テクスト論にとって、作品を書いた作家についての知識は、作品を読む場合のコンテクストの一部にすぎません。あくまでも中心となるのは作品の構造分析です。(もちろんどうでもいい情報だと言っているのではありません。)ということはそれまで作者についての情報を営々と集積してきた研究は、あくまでもテクスト論を基軸に据えた文学研究に於いては副次的な情報でしかないということになります。しかしそのことを直視することは、多くの研究者にとって耐え難いことでしょう。外部の思想の世界では「テクスト」という言葉がごく普通に口にされているのに、現在の文学研究であまり口にされないのは、研究者の自己防衛で、意図的に回避しているとしか思えないのです。
 そこで現在の日本の文学研究に於いて、テクスト論は〈異端〉の思想なのだという結論に至ったのですが、どうでしょうか。(高口)

  疲れているせいか映像作品をよく見ています。先日は94年に録画した埴谷雄高の「死霊」を語るというビデオを見ていました。地球上の生命を殺して生きる人類の罪を問う、埴谷の言う「存在の革命」の問題は、十数年前はちょっと観念的な感じがして、このじいさんボケかかってきてるのかと思っていましたが現在では現実の問題となってきたと思います。やはり作家の目はすごいですね。反省しました。チャップリンもよく見ます。「殺人狂時代」は面白かったです。

  先週土曜に社会文学会の大会が法政であって綾目さんにお会いしました。合宿のときはひどく疲れておられるようでしたが、今回はお元気そうで安心しました。前田さんは先月の近代部会の「出発は遂に訪れず」の報告でお会いしました。後藤さんからも音沙汰なかったので心配していましたが久々にメールをいただき安心しました。みなさん忙しそうですがお元気そうで何よりです。僕は8月22日にまた学校行事で富士山に登らなくてはならないので、今年の夏は憂鬱です。(ちなみに今日下見隊が登山したのですが、この雨で8合目までで断念したそうです。高口智史
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