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試想の会のブログです。
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 前回の「夢十夜」ー「第一夜」異論の続きです。

 自分はこう云う風に一つ二つと勘定して行くうちに、赤い日をいくつ見たか分らない。勘定しても、勘定しても、しつくせないほど赤い日が頭の上を通り越して行った。それでも百年がまだ来ない。しまいには、苔の生えた丸い石を眺めて、自分は女に欺されたのではなかろうかと思い出した。(太字は本文)
 
 問題はこの男が女のメッセージをどのように受けとめたのかということですが、語られているのは、永遠の愛と復活の象徴で充たされた時空のなかで、男は女の依頼を従順に遂行しているということだけです。死んでも女は男に自分を忘れぬように様々な愛の象徴を用いて精一杯のメッセージを送っていますが、男はその意味を理解しているようにも見えません。100年が来るのをただ日を数えて待っているだけです。だから女に対する疑念が生じるのです。
 
 すると石の下から斜に自分の方へ向いて青い茎が伸びて来た。見る間に長くなってちょうど自分の胸のあたりまで来て留まった。と思うと、すらりと揺ぐ茎の頂に、心持首を傾けていた細長い一輪の蕾が、ふっくらと弁を開いた。真白な百合が鼻の先で骨に徹えるほど匂った。そこへ遥の上から、ぽたりと露が落ちたので、花は自分の重みでふらふらと動いた。自分は首を前へ出して冷たい露の滴る、白い花弁に接吻した。自分が百合から顔を離す拍子に思わず、遠い空を見たら、暁の星がたった一つ瞬いていた。
 「百年はもう来ていたんだな」と
この時始めて気がついた。

 「すると」という接続詞があるように、男が「自分は女に欺されたのではなかろうかと」女の愛に疑念を抱いた瞬間です、突然石の下から茎がするすると伸びてきて、真っ白な百合の花が男の目の前で咲きます。そしてその花は「鼻の先で骨に徹えるほど匂」います。さらに空から「露」が落ちてきて、男は「露の滴る、白い花弁に接吻」するわけですが、注意しなければならないのは、男のこの接吻は男の内部では女と何も関連づけられていないことです。なぜなら男が「百年はもう来ていたんだな」と女の存在に気付くのは「暁の星」を見た時だからです。(「この時始めて気がついた」)
 男が女への愛への疑念を抱いて「暁の星」が瞬くまでの結末までの一連の流れは、活字だとなかなかわかりにくいのですが、ものすごくスピーディーです。(アニメにでもしたらこの場面の印象はずいぶん変わるのではないでしょうか。面白いと思います)それに対し、ここでも男の気づきの遅さは対照的です。
 この場面に登場する「百合の花」や「暁の星」も聖母マリア(純愛)の象徴であることは明らかです。この「露」は何かというと女の涙でしょう。なぜ女は涙を流したのか、それは男に女の愛への疑念が兆したからです。女はここでも彼女の愛の情念を象徴を通して強く訴えています。男に疑念が生じた途端、女は慌てて百合の花に化身して芽を出し、花を咲かせ、さらに「骨に徹えるほど」の芳香を放ち、「私はここにいるのよ」とばかりに強烈に自己の存在をアピールし、さらには空から「露」を落とし男に兆した疑念への悲しみを訴えます。男の疑念に対し、むしろ大いに焦った「人間らしい」女の姿さえかいま見えます。
 死んで言葉を失った女は、様々なモノを通して切々と男への変わらぬ愛と復活を訴え続けてきたのですが、しかし残念ながら男は何も女のメッセージに気づいている様子はありません。女がこれでもかこれでもかと愛と自分の存在を訴えかけるのに対し、男は、最後に「暁の星」を見てやっと「百年はもう来ていたんだな」と女の復活に気づくのです。
 この物語で際だっているのは、懸命に自己主張する女と、それに気付かない鈍感な男との意識の〈滑稽な〉すれ違いでしょう。男と女は愛し合っていないのではありません。ただ「愛してる」という女のメッセージが男に伝わらないだけなのです。私はこの二人の齟齬にこそ「第一夜」のメッセージがあると思います。
 なぜ二人の意識がすれ違ってしまうのか。女は死ぬことで言葉を失い、代わりにキリスト教の象徴を通してその永遠の愛を伝えようとするのですが、男はキリスト教という精神文化を共有していないために女のメッセージがわからないからです。
 このように「夢十夜」第一夜はロマンチィックな男女の愛の物語とは違うのではないか。これをどういうアレゴリーとして読むのかは自由ですが、すくなくとも永遠の愛のアレゴリーにしてはとぼけた話のようです。私はこの物語を、日露戦争に勝利して西洋化に成功し、一等国になったと有頂天になっている日本人を批判したアレゴリーなのではないかと思います。つまり西洋化に成功したと思いこんでいるが、西洋とのコミュニケーションはその深いところでは大きな亀裂があることに日本人は気づいていないということを揶揄しているのではないか、そういうふうに読みます。
 横文字の思想家の名前を本のタイトルに並べてありがたがる風潮は、今になっても変わりません。これではロマンチィックな幻想譚が台無しですが、こう読めてしまったのですからしょうがありません。(高口)

 

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 前田先生もお元気そうでなによりです。しかし連日大企業が千・万人単位でリストラを発表しています。ひどい社会です。イタリアに行ったから調子にのっているわけではないですが、私たちが自然に思っていた価値が如何に日本でしか通用しないものか実感しました。前田先生のいう「一国主義的な価値」を日本で言うことがなぜ問題なのか、それは日本では国民の間で共有されている価値が、如何に一国主義的なものか相対化されることがないというところが問題なのだということだろうと思います。
 高校生と話をしていると、世間のなかで形づくられた彼らの社会観、人生観を揺るがすことが困難かということで日々実感させられます。真面目にコツコツと勉強する、働くということが侮蔑され、「清貧」がたんなる「ビンボー」で惨めでしかない。勉強も、それは自分が出世する手段でしかないというエゴイズム、できなくてもなんとかなるさという何の根拠もない楽観主義が支配しているこの社会(だから現実に直面したときのショックは大きいです)は、おかしな社会です。まさに新興宗教の世界です。私ですらあんな短い時間でそういうことを感じたのですから、明治に海外体験をした漱石、鴎外、荷風らはもっと深刻だったのでしょう。

 ところで1年生の授業で夏目漱石の「夢十夜」の「第一夜」をやりました。この作品は指導書を見ると男女の永遠の愛が成就するロマンチィックな物語として読まれているようです。私もこれまでいろいろ論じられてきたように、それこそ漱石のかなわぬ恋の幻想的な夢の物語ではなかろうかと思ってきました。しかし一つだけ引っかかることがありました。愛の成就の物語と読むとすると、他の夢が文明批評的な寓話であるのに対して、この「第一夜」だけが異質な物語として挿入されていることになるからです。そういう引っかかりをもとに考え、また男女の永遠の愛の成就の物語では生徒にちょっとインパクトが足りないと思い、第一夜の表現を再度検討していったところ、まったく違った物語の姿が浮かび上がってきました。ちょっと自分でも面白いなと思ったのでブログに載せてみることにしました。
 
 この物語で不思議なのは、「もう死にます」と男に別れを告げる女の枕元にいる男が、「これでも死ぬのか」と女の死を実感できないという点です。男は「とうてい死にそうには見えない」と言い、女が「もう死にますとはっきり言」うと「たしかにこれは死ぬな」といったん思うものの、女の「透き通るほど深く見えるこの黒目のつやを眺めて、これでも死ぬのか」と思い、「死ぬんじゃなかろうね、大丈夫だろうね」とききかえす。また「じゃ、私の顔が見えるかいと一心に聞くと」、女は「見えるかいって、そら、そこに、写ってるじゃありませんかと、にこりと笑って見せ」る。それでも男は「腕組をしながら、どうしても死ぬのかなと思」う。
 この冒頭場面では、女が死に直面しているのに対し、男はアホなくらいそれが実感できません。二人の意識のすれ違いが際だっています。愛し合っていないわけではないのに、最後まで二人の感覚がぴったり噛み合わない――この齟齬がこの物語の基調をなしています。
 死の間際、女は男に遺言します。「死んだら、埋めて下さい。大きな真珠貝で穴を掘って。そうして天から落ちて来る星の破片を墓標に置いて下さい。そうして墓の傍に待っていて下さい。また逢いに来ますから」と。そして女の死後、男は遺言通りに「大きな真珠貝で穴を掘って」、「天から落ちて来る星の破片を墓標に置」きます。さらに穴を掘るとき「土をすくうたびに、貝の裏に月の光が差してきらきらした」、土を「掛けるたびに真珠貝の裏に月の光が差した」と、「月の光」が強調されます。
 これら女の指示した「真珠貝」「星」、そして墓標に差す「月の光」などここに溢れているのはキリスト教のシンボルです。「真珠貝」「星」「月」――これらはすべて聖母マリアの象徴であり、純粋な愛、真実の愛を表すものです。女は自分の死後の空間を、愛の象徴で埋め尽くそうとするのです。埋め尽くそうとするだけではありません。男に「大きな真珠貝で穴を掘」り、「天から落ちて来る星の破片を墓標に置」くことを命じて、同時に男に永遠の愛を確認させようとするのです。
 そして「墓の傍に待っていて下さい」「百年、私の墓の傍に坐って待っていて下さい。きっと逢いに来ますから」と言う女の願いが、男との永遠の愛の契りたいという女の切なる願いを表していることは言うまでもありません。
 そして女を墓に埋めるとき「きらきら」差す「月の光」が、「永遠に私はあなたを愛する/永遠に私をを愛せ」という女の両義的なメッセージだと言えましょう。
 そしてそのようなコンテクストで考えれば、毎日東から西へ上っては落ちる「太陽」が女の復活を意味していると考えてもおかしくありません。
 このように考えていくならば、男は女の死後も女の意志の支配する象徴空間で待ち続けることになります。女が毎日永遠の愛と復活のメッセージを発しているとするならば、女は死後もこの男の待ち続ける時空を支配しているのです。つまり女はどこに行ったのでもない、〈ここ〉にいるのです。にもかかわらずなぜ彼女がいなくなったのかというと、それは「待っていられますか」と女の言葉に明らかなように、男の愛を試すためなのです。 (続く)         高口

 

 昨年の秋以来、ご無沙汰していました。あまり忙しくない私ですが、昨年11、12月には発表報告を二つ抱え、そしてこの1月には修学旅行の引率と大きな仕事があってブログの記事を書く心の余裕がありませんでした。管理人の黒田さんには社会文学会の宮崎大会ではお世話になったうえ、ブログをご無沙汰して申し訳なく思っていました。これからは定期的に頑張って書いていこうと思っています。

 その修学旅行先は実ははイタリアでした。とくにお金持ちでもない一般家庭の子供の通う私立高校の行事としては、費用の面でかなりきついものがあり冒険的な行事でもあります。それ自体の問題はいろいろありますが、まあイタリアに行けたこと自体は決してマイナスではありませんでした。
 ところで実は私としては初めての海外旅行で、いろいろ驚きの体験もありました。文化遺産は別にして、イタリアで一番印象に残ったのは、買い物をしたときの店員の態度の横柄さです。個人経営の店舗はいいのですが、市内のスーパーマーケットや空港の売店など、買い物をするたびに横柄な店員の態度にはずいぶん不愉快な思いをしました。これは私が出会った人がたまたまそうだったというよりも、生徒達も全体的にそういう印象を受けたので、偶然ではなかったようです。不愛想で、買う場合の向こうルールをわきまえていないと露骨に不愉快な表情をされます。(舌打ちされた生徒もいたとか)あたかも売る側の事情も考えろと言わんばかりの傲慢な態度が印象的でした。
 他には、BAR(バール)という個人経営の、立ち食いのファーストフード店を至る所に見かける代わり、日本ではごく普通に定着した自動販売機、コンビニ、ファースト・フードのチェーン店が見られないのも街の光景の大きな違いです。後で帰って島津菜津という人の書いた「バール、コーヒー、イタリア人」(光文社新書)という本を読んでみたら、やはりマクドナルドがあるくらいで、スターバックスなど外資の大型チェーン店はないそうです。ジェラートの本場に鳴り物入りで進出したサーティーワンはあっという間に閉店してしまったという話です。街の構造もあるのでしょうが「簡単便利」を旗印に世界を席巻する外資の大型チェーン店の進出しにくい国なのだそうです。実際スーパーの規模も都心にありながら、それほど大きなものではありませんでした。

 そういうことから、帰ってローマでの不愉快な経験をよくよく考えてみたのですが、サービスを受ける側からすれば不愉快なことですが、売る方があれほど横柄で、それでありながら商売が成り立っているということは、視点を変えれば売る側にそれだけストレスのかからない社会だといえるでしょう。日本のように、とにかく客に快適さを与えるための至れり尽くせりの、どこまでも過剰なサービスを追求、提供する社会は、売る側(社員)にものすごく大きな負担がかかります。そのことが最終的にはどこまでも会社のため、顧客のための奉仕を強いられサービス過剰で挙げ句の果てには過労死を生み出す遠因になっていくわけです。(江戸時代の経営思想の影響もあるでしょう)しかしイタリアでそういう雰囲気が感じられず、しかも商売が成り立っているのは、彼らは売る立場と買う立場を別々のものとして切り離して考えず、買う立場がもしサービスを要求し続けると売る立場の自分たちにそれが同時に跳ね返ってくるということを知っているからではないでしょうか。もちろん島津さんの本には地域に密着して経営努力をするバールの経営者の話が出てきます。だから一般化はできないかもしれませんが、雇われる労働者にそのような努力を強要しない、また労働者の側もそんな努力までしようとは思っていない社会のように思いました。そういう意味で彼らは売る立場と買う立場を切り離して考えず、飽くなき利潤追求への努力がやがては我が身を滅ぼすということを知っており、働くバランスを大切にしている人々のように思いました。
 生徒達はコンビニも自動販売機もなく、都心でありながら飲料水を手に入れるにしてもホテルから歩いて十数分かかるスーパーまで行かなければならないイタリアに、ずいぶん不便さを感じていました。たしかに買い物をするにもいつでもどこでも簡単に手に入り、しかも店員に不愉快な思いをしない日本社会に比べたら不便きわまりないところです。端から見ると、彼らはよく言えばおおらかだけど、なまけものでいい加減、そのために社会が「発展」しないんだということになるのでしょう。
 得体の知れない物売り(明らかにイタリア人ではないマイノリティーです)や物乞い(老人でした)をよく見かけました。もちろんイタリアの社会問題についてはよく知りませんし、たがが数日の旅行というお客さんの目で見ただけで、調子に乗ってイタリアを日本に比べて良い社会だと言おうとしているのではありません。
 今書店に行くと、アメリカのサブプライムローン問題に端を発して世界恐慌に突入するといった話題の本がやたらと目に付きます。今私たちは戦後の経済成長終焉の地点に立っています。昨年、自動車産業が軒並み赤字決算に転落したことは、戦後資本主義の終焉が一際強く印象づけられる事件でした。だからアメリカ化を頑なに拒否するイタリアの資本主義社会をみると、急速な経済発展を「民族の優秀性」の証とし、そのために経済の発展を支え、社会を支配してきた日本人の価値が、人類の長い歴史のなかで本当に人間を幸福にする普遍性を有する価値なのかどうか、それを反省させられます。

 今日本の社会の貧困化が問題にされています。たしかに失業したり、派遣で労働法を無視した仕事に従事せざるをえない当事者にとっては深刻な問題です。しかし振り返ってみると、90年代に「リストラ」という言葉が登場したとき、経済誌などでこれから企業は「リストラの時代だ」という見出しを肯定的にかかげていましたし、労働者も会社のためにそれを肯定的に受けとめていたのを記憶しています。「リストラ」されるにしても、それは自分ではないはずだと、会社を守るためには仲間が「リストラ」されるのもやむをえないと自らの立場を忘れ、多くの労働者が会社に加担したのではなかったのでしょうか。
 現在の社会問題の原因となった小泉新自由主義改革をやすやすと進行させてしまったのも、社会にまだ余裕があったときに、私たちは経済的な価値を優先させ、そのためには多少の犠牲もやむをえないと重要な価値を手放してしまったのだろうと思います。
 だから景気が再びよくなれば、失業者がいなくなれば、経済的に豊かになれば、戦後日本の問題はかたがつくのでしょうか?今、社会の不平等に声をあげる人々が増えてきて、それ自体は評価できます。しかし依然、そういう声をあげている人たちが要求している問題も、日本の労働運動が高度経済成長とバブルのなかで解体したように、彼らの要求が満たされれば解体してしまうようなものではないのだろうか、これまでの日本人の過ちを根本的なところで反省しているのだろうか、そんな危惧をイタリアの社会を見ながら抱きました。(高口)


 

 お久しぶりです。もう少し芥川のことでも書ければと思っていましたが、9月は高校の新学期で、いろいろ振り回されて、なかなか書くことができませんでした。すみません。今日は高校の文化祭です。私は文芸部の顧問をしているのですが、今年は「物語研究――子供の読めないグリム童話」というタイトルで展示発表を行っています。グリム童話を素材に、物語を恣意的に読むのではなく、まずストーリー、プロット、語りのメッセージという手順できちんと分析してみようということと、グリム兄弟の意図を超えて、収録された個々の物語(「赤頭巾ちゃん」「灰かぶり」「ヘンゼルとグレーテル」)のなかに、どんな歴史社会的、文化的背景があるのか、童話という視点を超えて読んでみようということと、二つの視点からグリム童話にアプローチしてみました。
 最初、生徒の発表する作品が少ないかもしれないと、私も「ブレーメンの音楽隊」についての文章を書いて、いざとなったら生徒の名前で発表して場所を埋めようと思っていたら、幸い生徒の作品だけで会場を埋めることができました。しかし残念ながら「ブレーメンの音楽隊」の文章はどこにも発表できなくなったので、せっかくですからここに発表させていただくことにしました。

「ブレーメンの音楽隊」について
 ロバ、イヌ、ネコ、オンドリ、いずれも人間の生活に密接し、人間の生活に役に立っている動物です。彼らは人間の生活に役立たなくなったというだけで殺されようとします。(オンドリはお客をもてなすためにいきなり食べられそうになります。)そこで12月の寒空のなか、彼らはブレーメンの街に行って音楽隊の仲間に入れてもらおうと、生きる望みを求めて旅立ちます。
 彼らが目指したブレーメンは、共和制の自治都市としては、ドイツで最も古い歴史を持っています。神聖ローマ帝国時代においても、ブレーメンは帝国自由都市の地位を確保していました。また、ドイツ史上有数の惨禍であった三十年戦争の際も、かつてのハンザ同盟の仲間であったハンブルク、リューベックと同盟を結び、独立を守りきることが出来た自由と独立を象徴する都市でした。(ブレーメン市のサイトを参照)
 しかし役に立たなくなったものが捨てられる、殺されるというのは、そんなに昔の世界の話ではありません。昔の世界は、人々の共同性によって築かれ、みんなが支え合って生活していました。たとえ労働力としては役に立たなくなった人間でも、古くからの事を知っている老人は村の秩序を維持するために大切にされていました。孤児や、たとえ人々に役にたたないと思われるような人々でも、差別はあったにせよ、彼らは村から養われ排除されたり、ましてや殺されたりなんてことはなかったのです。
 そのような世界が壊れたのは、共同体が崩壊し、人間が個人の力で生きていかざるをえなくなった時代になってからです。自分を労働力として提供して報酬をもらって生きなければならなくなった時代――所謂市場経済が世の中を支配しはじめた時代(資本主義)の時代になってからなのです。
 田舎にくらべ、とくに都市ではお金による人々の支配と共同体の崩壊が、いち早く進行したと考えられます。市場経済の浸透によって、労働力として役に立たなくなるということはすなわち死を意味するようになりました。(今の社会みたいです)聖母マリアの日の翌日(日曜日)にオンドリが食べられそうになるというのは、神様なんてもう役に立たないというキリスト教への皮肉でしょうか。(事実かれらは神様に頼らず、自らの知恵と団結によって幸福を勝ち取ったのですから。)「ブレーメンの音楽隊」の動物たちが象徴しているのは、そのような過酷な社会から排除された人々です。とにかく彼らが自分の身は自分で守るしかないという厳しい世界を生きていたのです。そして泥棒は力しか頼ることのできない弱肉強食の社会の象徴でしょう。
 役立たずとして殺されそうになったロバ、イヌ、ネコ、オンドリたちは同じ境遇同士、力を合わせ、知恵を絞って、弱肉強食の社会の象徴である泥棒たちから住処を奪い、最後に自分たちの安住の土地を見つるのです。このお話は、冷酷な社会に対する弱者の精一杯の抵抗の物語であり、そしてそのような彼らに共感する暖かい無名の語り手(グリム兄弟ではありません)の視点を読み取ることができます。                (高口)

 

 久しぶりに書きます。夏休みに書けると思っていたら、今年の夏の気候はおかしかったですね。夏バテでなにもできませんでした。

 前田先生の芥川批判を受けて芥川龍之介をめぐる文学教育、文学研究について思うことを書いてみたいと思います。「試想」5号に書いた「羅生門」論も授業の現場で「羅生門」について批判的に思い始めたことに端を発して、前田先生の「羅生門」論に刺激を受けながら、そこから芥川批判に至ったものでした。これを書いているとき、芥川について象徴的に表れているように、現在の文学研究にしても教育にしても大変異常な状態にあるなと思いました。
 前回私はテクスト論は日本の文学研究では異端だ、と書きました。そんなことを書いたのも、「テクストの読みは多様だ」「読みは十人十色」だという言葉をよく聞きますが、その「多様な読み」というのは、そのテクストに対して批判的な読みを含めての「多様さ」であるはずです。ところが文学研究や文学教育の分野で、芥川についての批判的な発言はほとんどお目にかかりません。「芥川の作品がダメだと思うなら無視すればいいし、そこに意味を見出すものだけが発言すればいいじゃないか」という人がいるかもしれません。しかしマイナーな作家ならそれでいいと思うのですが、芥川龍之介は事情が全く異なります。なによりも「羅生門」を日本全国のほとんどの高校生が読まされるように、「芥川龍之介」は一部の研究者が独占していいような作家とは違います。
 だからこそ「羅生門」にしろ芥川龍之介にしろ、自由に議論することが必要だし、むしろ教育や学問の場こそ、特定の作品や作家が特権化していく事態に対して健全な批判精神が発動されなければならないはずだと思うのです。
 しかし芥川についても「羅生門」についても、自由に議論するような場はありません。あたかも芥川龍之介が文豪で、「羅生門」が名作であることは自明のことであるかのような雰囲気が支配して、批判的な言説はほとんど見あたりません。(特に文学教育の領域では、文学は無前提に「いいものだ」という文学至上主義が支配的な感じで、教材化される作品をめぐって議論する自由はもっと狭められます。)

 前田先生が「鼻」で指摘するように、私も芥川の感性は非常に差別的だと思います。それは吉本隆明が指摘したように出自への劣等感への裏返しとして、出自を消してひたすら上昇しなければならないという衝動があったからでしょう。(この問題点については、私も具体的に作品をあげて書いていきたいと思っています。)そう言う意味で「羅生門」は文明主義者?芥川の「普遍信仰」という差別意識がもっとも明瞭に表れた作品だと言えます。
 なぜそれが研究者・教育者に感じられないのか。その先は書きませんが、そこが現在の知の状況の抱えている大きな問題でしょう。哲学の大原則が「懐疑する」ということであるとすれば、現在の研究者なり教育者に一番欠如しているものは哲学だと思います。作品評価、作家の評価など、時代や状況が変われば変わってしまうものです。ですから状況に迎合するという意味ではなく、その状況に対して個々の作家、作品がどういう批評性を持つのか、それは状況との対話のなかでたえず検証されどんどん読み変えられねばならないと思います。
 しかし研究者・教育者ともに自己の認識の特権性を疑うことはありません。問題は、そのために文学の研究状況や教育状況と現実との乖離は拡大していきます。「蟹工船」ブームはジャーナリズムがつくり出した側面は大きいものの、政治の問題を切り捨ててきた文学研究はこの状況に沈黙するしかありません。

 授業の現場で、「羅生門」の下人に「自己解放の叫び」(関口安義氏)など言っても共感する生徒はいなくなっていました。その後、ポストモダニズムが隆盛の頃、「読みの多義性」なんていって、どう読むのも自由だなんて、読みに責任をもたないごまかしの指導書がしばらくは幅をきかせてきました。しかし「蟹工船」がブームになるような現在の不穏な状況をみると、リストラされた下人が生きるために自分の暴力性に目覚めるという物語は「自己解放の叫び」として再び読み返され評価される可能性もあるなと思うのです。でも「自己解放の叫び」がダメなのは、下人は「自己解放」の物語を獲得するために、より弱者である老婆を踏みつけにしているからです。そしてそのことに「羅生門」の語り手は気付くことがありません。
 差別・抑圧される人々が差別される屈辱から逃れるために、より弱者を差別・抑圧するということは人間世界の至る所にみられる現象です。そのような構造的な差別・抑圧を問題化するどころか、芥川は弱者を抑圧する下人の視点に同調したのです。(それは「芥川」ではなく「語り手」だと言う人がいるかもしれませんが、その語りを相対化する視点はこの作品にはありません。)そういう問題を抱えている芥川のテクストを「懐疑」しないことは大変な問題があるのではないでしょうか。
 「羅生門」は研究者や教育者、教科書会社の欲望の生み出した正典だと私は思っています。日本のカルチュラル・スタディーズ研究者など、体制に批判的なスタンスを持とうと思っている研究者、教育者は、ここにこそ切り込まねばならないはずです。それなのに、この事態を看過しているのは不思議なことです。(これは心ある芥川研究者なら、芥川が権威化される事態に批判的であらねばならないだろうという意味も含めてです。)      (高口)
 

 

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