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試想の会のブログです。
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 たしかに私たちが高校・大学生の頃は、原爆神話や安保神話の否定が戦後体制を揺るがす可能性はありませんでした。戦後体制は分厚い岩盤で、私たちは経済大国の中にあって権力に憤ることはあっても、それは意識の中の出来事で、身体は高度資本主義文明を享受していればよかったわけです。全共闘世代より上の人たちは、意識と実践とはつながっていたというかもしれませんが、それは実践によって現実は変わるという可能性が信じられていからだと言えます。とりあえずここで述べたいのは、今の高校生が、現在についての問題意識が希薄なのは、彼らが私たち大人に比べけっして幸福な状況を生きているからではないということを言いたいのです。
 
 現在の高校生は戦後の経済的繁栄の残滓のなかで生活していますが、彼らはこの生活が非常に危うい基盤の上にあることをなんとなく感じています。そういう点で、現在の高校生にとっては、神話の否定と現実の再編の問題は実感的に見えるかたちでつながっています。神話の中に生きていたいのに、その外部ではそれを否定する現実が勢いを増してきて彼らを脅かしてきている。大人でさえ暗中模索の状況の中で、現実から彼らが眼を背け耳を塞ふさごうとするのは当然と言えるかもしれません。そういう高校生に対して国語教育、文学教育はどうアプローチするのか、かなり難しい問題です。
 
 そのようななかで「夏の花」をどう教えるのか、これもかなり難しい問題です。高校生がこの作品を戦後の原爆神話の中で消費しようとするのは、以上のようにある種強迫観念的な動機があるので、そこに亀裂を入れるにはどうすればいいのか、よい方向性がみつからないまま授業に突入したような状況です。(ここにはカルチュラル・スタディーズやポスト・コロニアリズムに於いてすでに自明化している読みのコードとイデオロギーの関係について、現在の日本の文学研究がほとんど触れようとしない問題とも通低しているように思います。)
ただ「夏の花」を読んでいるうちに、戦争末期の日本の状況と現在の高校生の置かれている状況とはそれほど違わないのではないか、現在の高校生、さらには現在の日本人を批判的にとらえるテクストとして「夏の花」と、「夏の花」に表象された〈原爆〉を通して読むことはできないだろうか、と考えたのでした。そこでいま「夏の花」を授業で扱いながら考えたことについて記してみようと思っています。

 「夏の花」は次のような書き出しで始まります。
 
 私は街に出て花を買うと、妻の墓を訪れようと思った。ポケットには仏壇からとり出した線香が一束あった。八月十五日は妻にとって初盆にあたるのだが、それまでこのふるさとの街が無事かどうかは疑わしかった。恰度、休電日ではあったが、朝から花をもって街を歩いている男は、私のほかに見あたらなかった。
 
 「八月十五日は妻にとって初盆にあたるのだが、それまでこのふるさとの街が無事かどうかは疑わしかった。」という「私」の不安はもちろん原爆投下のことを指しているわけではありません。「恰度、休電日ではあったが、朝から花をもって街を歩いている男は、私のほかに見あたらなかった」とあるように、お盆近いのに墓参りに行く人もいないのか、それとも街には人気がないのか、この冒頭では妻の墓参りと併せて広島の町の何かひっそりした中の不穏な空気がさりげなく語られています。
 この空気はその後、「私」が半壊した家から出て行くときの、倒れた楓の木の連想の中でもっと明瞭に語られています。

 その大きな楓は昔から庭の隅にあって、私の少年時代、夢想の対象となっていた樹木である。それが、この春久し振りに郷里の家に帰って暮すようになってからは、どうも、もう昔のような潤いのある姿が、この樹木からさえ汲みとれないのを、つくづく私は奇異に思っていた。不思議なのは、この郷里全体が、やわらかい自然の調子を喪って、何か残酷な無機物の集合のように感じられることであった。私は庭に面した座敷に這入って行くたびに、「アッシャ家の崩壊」という言葉がひとりでに浮んでいた

 また川に避難して落ち着いたときのことが次のように回想されます。

 長い間脅かされていたものが、遂に来たるべきものが、来たのだった。さばさばした気持で、私は自分が生きながらえていることを顧みた。かねて、二つに一つは助からないかもしれないと思っていたのだが、今、ふと己が生きていることと、その意味が、はっと私を弾いた。/このことを書きのこさねばならない、と、私は心に呟いた。けれども、その時はまだ、私はこの空襲の真相を殆ど知ってはいなかったのである。

 この「長い間脅かされていたもの」――「郷里全体」に漂っていた「崩壊」の予感は、「その時はまだ、私はこの空襲の真相を殆ど知ってはいなかった」とあるように原爆投下ではありえません。ところがこの「二つに一つは助からないかもしれないと思っていた」「崩壊」の中で「生きのこった」ことが、彼に「このことを書きのこさねばならない」という決意、使命感を芽生えさせたわけです。ですから手記の「動機」と原爆体験記としてのまとめられた「手記」という「結果」とは連続していないのです。手記は、出来事の真相がそれまでの常識を越えた新型爆弾であったことがわかる以前に構想されたということを確認する必要があります。
 では「生きのこった」「私」が「このことを書きのこさねばならない」と思った動機とは何だったのか。それは「郷里全体」を支配していた「崩壊」の予感の内実に関わってきます。――続く

(高口)
 

 

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ずいぶんご無沙汰していました。今年は1年生の担任ということもあって、なかなか文学のことに集中できません。やっと「試想」も7号が出せて、ちょっと虚脱状態で、この夏は何もできませんでした。
 
 ところで新学期も始まり、今授業で原民喜の「夏の花」をやっています。授業が始まるとき、生徒に原爆がなぜ落ちたのか質問したら「戦争を終わらせるため」という答えが意外と多いのに驚きました。近年アメリカの犯罪性を告発するドラマやドキュメントが多いので、そういう影響を受けているかどうか関心があったのですが、結果、生徒の認識は「戦争を終わらせるため」で、だから「仕方なかった」という所謂戦後の原爆神話に依然留まっているのでした。
  そうは言っても生徒達が反米ナショナリズムに走っていいというわけではありません。原爆投下をめぐっては、まず第一に、戦後の東アジアの覇権をめぐる米ソのかけひきの中で、ソ連の参戦を阻止するために、アメリカによって使用された政治的かつ軍事的手段であったこと、そしてアメリカはこの科学兵器を最初に使用するに際して、兵器の威力を試すために民間人によって人体実験をしようとしたこと、それを決意させた根底にアジア人種に対する偏見があったことなど、日本との戦争を終結させるためのやむを得ない手段であったという神話は、一般には崩壊していると言えます。また日本政府にしても、戦争の終結を決断した契機は原爆ではなくソ連参戦であったこと、つまり国体護持のためであったことも明かです。
  そういうことを考えたとき、依然原爆神話にとどまっている生徒の意識は一体なんなんだろうと、こちらが戸惑いを感じてしまうのでした。その時、思わず話が脱線して日米安保のことに及んで、日本にアメリカ軍の基地があることに触れたとき、彼らはアメリカ軍の基地があるから日本は平和なので、日本に外国の軍隊の基地があることを少しも疑問に思わないし、それは戦争に負けたから仕方のないことで、むしろそれで日本は平和なのだからいいことなのではないか、と言うわけです。
 もちろん私も大人になるまでそう思っていたので、彼らのことを批判できる立場ではありません。ただ戦後の終焉が言われているとき、ましてや小泉-安倍といった反動政権の時代をくぐり抜けた生徒からすると、この変化のなさは一体なんなんだと、無気味にさえ思えるのです。
 大切なのは私の考えを受け入れてほしいということではなく、柔軟にいろいろな事実や考えを受け入れてほしいということです。しかし「試想」7号でも書いたのですが、問題なのは、現在のように状況が動いてくると、人は自己の世界観が脅かさたとき、自己の世界観を修正するのではなくむしろ現実を拒否するのだということです。授業をやっていて、最近そういう生徒の頑なさが目立ってきたように思います。――続く
(高口)

  錦城学園の何人かの先生から、前田先生はもう大学の方、定年退職されるんですか、と尋ねられました。僕もつい先日まで来年だとばかり思いこんでいて、思わずメールで訊いてしまった次第です。本当に前田先生の宮崎での十年は早かったですね。たぶん先生もそう感じておられると思います。と言うか、先生が定年退職と言うこと自体、まだ信じられない感じですね。振り返ると最初にお会いしたのが、僕が大学出たての二十代前半で、先生が三十代後半の頃です。僕も今年五十ですから、ずいぶん時間だけは経ちました。

 最終講義の内容を見ると、一応ひとくぎりということで、先生のたどってこられた研究の歩みを語られていますね。「羅生門」「檸檬」「舞姫」があげられていますが、これらの作品が先生にとって如何に重要な作品だったか改めてわかります。同時にこれらの作品論を発表されたのが宮崎に赴任される直前の数年間に集中していますが、そのころこれらの作品について、学校帰りにお茶の水駅にいく途中の坂にある喫茶店で熱く語られたのを思い出しました。いつもそこで口酸っぱく言われたのが、文学研究と文学教育とは車軸の両輪で、教育で手を抜いてはいけないということでした。むしろ授業で生徒との対話を通し、作品の読みを、研究を鍛えろということでした。今回の講義の内容から、当時言われたことをずっと大学でもそのまま深められたのだなとわかります。「試想」でも、主人公中心や主人公の内面中心の読みから関係性を問う読みの問題を一貫して追究されていますが、それも高校の現場で主人公の苦悩にまったく共感しない生徒とどう向き合うかというところから出てきた問題であることは、先生の高校教師時代によく伺いました。そういう意味で、前田角藏という人物は恐ろしいほど軸のずれない立派な研究者だと思います。また高校で掴まれたことを煮詰める時間という意味だけでも、大学に赴任された十年は新しい出会いとともに大変有意義な時間だったのではないかと思います。(僕も先生がおられる間に、あと一回ぐらい宮崎に行きたかったですね)

 あんまり書いていると、「まだまだこれからなのに、俺の仕事をまとめるんじゃねえよ」と言われそうなのでやめます。東京の日文協近代部会では先生が戻られるのをみんな待っています。とりあえず一区切りということで宮崎での十年間、ご苦労様でした。東京に戻られたらまたいろいろ教えてください。そして飲んで話しましょう。
(高口)
 

 3年生の最後に森鴎外「舞姫」をやりました。私の勤めている学校は3年前に共学化したばかりで、今回は共学クラスでの初めての「舞姫」でした。(あまり授業日数がなくただあらすじを追うだけの駆け足の授業でした。)最初はあまり関心なさそうにしていたのですが、豊太郎が相沢にエリスと別れると約束してしまった辺りから、耳を傾け始めた生徒が増えて、そして結末でエリスが発狂し、お腹に子供を残したまま豊太郎が帰国するくだりになると、女子の表情がみるみる硬くなっていくのがわかります。そして「ひどーい」という声が少なからずあがりました。本当ならば、ここで男子と女子と意見を訊いて討論でもさせると面白かったかもしれませんが、時間がなかったのでそれで終わらざるをえなかったのが残念でした。高校生の女子と「舞姫」をやったのははじめてだだったのですが、その予想以上に正直な反応と、こっちもちょっとたじろいでしまうほどの反応の勢いにはおどろきました。

 ところでこの教科書(教育出版)の指導書には、「舞姫」の「主題例」として「自我の確立の困難さや恋愛の不可能性を、人間の宿命として深く考えさせる作品である。」と書いてあります。そして「作品研究」の結びにはこのように記されています。「豊太郎が手記を書いたのは《失恋》の痛手を癒すためではなかった。むしろ、自らの不純さゆえに失われた純粋な《恋愛》の効果そのものであったと言えよう。何を指しても消すことのできぬ「恨み」は、欠如としてあらわになった純粋な《恋愛》の痕跡である。/《恋愛》の挫折によってのみ、《恋愛》は《恋愛》たりうる。我々は挫折によってのみ、純粋に世界と関係しうるのである。」 

 「教材のねらい」では「人間というものを存在論的に探求しようとうる姿勢の中で『舞姫』のテーマを捉え直した時、本作品はさらに切実な現実性を持って現代の生徒たちに迫ってくるのである。」とあり、この点では非常に共感と期待を持ちました。でも論文ならいっこうに構いませんが、指導書でこのような難解な文章は困ってしまいます。この指導書の執筆者は「誰しも純粋な恋愛を求めるが、それは不可能であって、恋愛の挫折によって人間は現実に目覚め、大人になっていくんだ」と言いたいのでしょうか。それならばこんな難解な表現で書く必要はないし、もしそうでないとしたら、読み取れない教員の力不足だと言われるのは仕方ありませんが、でも執筆者の意図が生徒にも伝わらないわけで、それは指導書としては問題があろうと思います。

 ところでこの執筆者を批判することが直接の目的ではありません。(もう一つ「恋愛」なんて言葉や概念の問題を、今の高校生にストレートに投げかけることにどれだけ意味があるのかという疑問もありますが)そういうことよりも、大切な問題は、この執筆者の読みの中にあの女子生徒の「ひどーい」という言葉は、どこにも入っていきようがないということです。生徒の中には、最後の相沢謙吉への「一点の恨み」についても、「なんだかんだ言ってもこいつ人に責任なすりつけているだけで、自分が優柔不断だったことが悪いんじゃん」と言った生徒もいました。しかし近年「羅生門」をはじめ「読みの多様性」なんてことが言われながら、しかしこういう素朴な倫理的批判はほとんどの指導書のなかから排除されているのです。

 以前新しい非常勤の先生を募集したときに、面接に見えた女性に同僚が「舞姫」の結末についてどう思いますか、と質問したところ、その女性は「高校のときにはエリスに同情したけど、今はエリスが弱かったので仕方ないと思う」というようなことを言われました。たとえば女性解放の視点からしたら、豊太郎こそ糾弾の対象であるはずです。そのとき彼女にとっての4年間の文学研究の意味とは何だったのかと思った記憶があります。

 このように「舞姫」を読んで、素朴に太田豊太郎がしたことはひどいと思う、という感想は、今の文学研究や文学教育のどこがきちんと受け止めてくれるのでしょう。これはブログで前田先生が芥川問題として提起されたことで、また先生が既に「羅生門」論や「舞姫」論などでも指摘されていることでもあります。私もブログで「羅生門」や「鼻」について書きましたが、このように文学のなかから政治や倫理的価値を排除するという文学研究や教育のあり方は、生徒の素朴であるけど、しかし重要な倫理的な判断を正面から受け止めよう、考えようとしないのです。文学は政治や倫理的価値では測れないものだというのはいいのですが、そのことが研究者自身に意味を持つだけで、学問や教育の現場から文学の存在意義を失わせることになっていると思います。(高口)
 

 ところで、前回の丸山評価とは矛盾したことになるのですが、今回久々に「「である」ことと「する」こと」の授業をしながら、時代が変わったなと思うことがありました。丸山の思想を語りながら、自分の歯切れの悪さに気づいたことがきっかけでした。
 ふと気づいたのは、最初の「権利の上に眠る者」という小見出しが示しているように、丸山のメッセージは自由や権利を既に獲得した者、言わば日本国憲法の恩恵の下にある日本人に向けて発せられたもので、その内部では今でも説得力を持つのですが、一歩でもそこから外れたところに立たされている在日外国人の生徒、いまだ権利や自由を保障されていない彼らにとって、丸山の主張は空疎な話にすぎないと言うことに気づいたのです。「そんなこと言っても、二十歳になっても俺たち参政権がないんだから関係ねえもん」と言われてしまえば、こっちは口をつぐむしかありません。いつそう言われるか、冷や冷やしながら授業を終えました。少数ではありながら在日外国人の生徒が共に学ぶということがごく普通の状況になってきた現在を考えると、現在かなり多くの教科書に収録されている(評論第一位だそうです)「「である」ことと「する」こと」を手放しに評価することはできないと思いました。

 「「である」ことと「する」こと」は言うまでもなく「日本の思想」に収録された文章で、1961年に発行された「日本の思想」が前年の安保・三池闘争を背景に書かれたことは明瞭です。丸山はこのメッセージを戦後最大の民主化闘争を闘った日本人に向けて発したわけで、歴史的なコンテクストを念頭に置かないと、現在の読者にはわかりにくい表現が随所に見られます。
 ところで中野敏男が『大塚久雄と丸山眞男――動員、主体、戦争責任』(青土社, 2001年) で、戦中期の丸山の論文を細かに検証し、戦中期の丸山の思想が国家の危機的状況に於いて、国家を主体的に支える近代人の必要性を啓蒙的に力説する「国民総動員の思想」であり、丸山がその出自を隠蔽し、思想構造を変化させることなく戦後にスライドしたことを痛烈に批判したことは記憶に新しいです。そういう意味で捉えると「「である」ことと「する」こと」も、60年の安保闘争という民主主義の危機に際して、戦前のような日本にならないために日本国憲法の論理を内面化した民主的〈主体〉たれ、というメッセージを発している点、その思想構造は戦時中を反復していると言えるでしょう。

 もちろん前回述べたように、丸山の思想は現在に於いても意味を持ちうるし高く評価できるのですが、同時に中野が指摘するようにその歴史的限界をしっかり押さえていかねば、今回授業で感じたように、うっかりすると暴力にも転じかねない危険性を持っているように思います。と言うのも、やはり丸山の視野に入っているのは日本国憲法の論理を共有できる〈われわれ〉であって、国家によって外部化された人々は見えていないのです。 丸山の民主主義は、中野の批判する戦時中の「国民総動員の思想」の枠組みが反省されずに戦後にスライドされた結果、国民国家のために単一の価値を共有した〈主体〉を「動員」するというナショナリズムの枠組みが温存されてしまっているのです。そのために今回のように授業で在日外国人の生徒を前にすると、その排他性が明瞭に浮かび出てしまうことになるのです。少なくとも「「である」ことと「する」こと」時点で丸山の構想していた民主主義は、異質な価値を持った人々の共生できる制度としての民主主義ではなかったと言えます。
 ところで丸山を戦後日本を代表する民主主義者として賞賛してきたこと(それが今日、教科書への収録数が最も多い評論という結果につながっているわけですが)と、戦後日本の民主主義の限界と表裏の関係にあるように思います。中野敏男の丸山批判は、戦前の天皇制国家の「臣民」が革命も経ずに戦後一転して民主主義国家の「国民」へと容易にスライドすることができた日本人の問題にも関わってくるからです。

 丸山の思想がひとつの理想として疑われることがなかったように、戦後日本の民主主義は「国民は平等」という理念を内面化した、均質な主体によって構築された民主主義だったと言えると思います。そういう意味では、1925年の普通選挙法は昭和のファシズムの呼び水にもなりましたが、中野の丸山批判同様に、構造的には戦前と戦後の民主主義の質は連続していたと考えられるのです。(もちろん戦後民主主義を全否定するつもりはありませんが。)だから日本国民は戦後すぐにアメリカによってもたらされた民主主義に対応できたし、均質な「国民」の一致団結によって、わずか四半世紀で再び世界の経済大国として復活するという奇跡が可能だったわけです。そう考えると均質な国民によって構成された――言い換えればナショナリズムを基調とした民主主義社会というものは、容易にファシズムに反転する危険性をつねに抱えているとも言えます。戦後が「輝いて」いた高度成長期やバブル経済期への今日の郷愁は、ファシズムを待望する感性と通底しているのではないでしょうか。「民主主義」が「輝いて」いたその時代、その社会は在日外国人やハンセン病者たちマイノリティーにとって、強度の排他性を持った社会であったことは忘れてはならないと思います。
 「「である」ことと「する」こと」という教材も、その「物神化」を「不断に警戒」し「現実のはたらき方を絶えず監視し批判する姿勢」が必要で――結局、丸山に戻ってくるのですが(笑)、本当に戦後日本の民主主義も一つの岐路に来ていることを実感しているところです。(結局お釈迦様の掌の内側で、ぶつくさ言っているに過ぎないのかな?)  (高口)

 

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